最後の審判の巨匠/L.ペルッツ
Der Meister Des Jungsten Tages/L.Perutz
「編者による後記」では、本編の記述者であるフォン・ヨッシュ男爵がオイゲン・ビショーフを自殺に追い込んだという“真相”が示されています。つまり、「後書きに代わる前書き」に始まる第22章までの本編の記述者であるフォン・ヨッシュ男爵こそが、ビショーフを“殺した犯人”だったという、いわゆる“記述者=犯人”という趣向になっているのです。
この趣向は、いうまでもなく“某有名作品”(以下伏せ字)アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』(ここまで)と同じものですが、そちらよりも本書の方が先に発表されています。もっとも、このネタを使ったのは本書が最初というわけではなく、「マジで「やられた!」ミステリ 第九巻」(「ミステリー@2ch掲示板」)の情報によれば、本書の前にさらに三作の先例があるようです(*)。
*: 詳しく知りたい方のために、こちらに転載しておきました。なお、リンク先では“某有名作品”のみ作品名が直接表示されていますので、ご注意下さい。
「編者による後記」には“記録のある部分(それは(中略)第九章である)から記述は急速に幻想へと傾斜していく。”
(244頁)と記されていますが、これは第九章以降のみが“幻想”だという意味ではなく、例えばその直前、フェリックスの告発を否定するゾルグループの台詞などもおそらく“事実”ではないと思われます。いずれにしても、記述者であるフォン・ヨッシュ男爵にとっては“事実”と“幻想”の境界はなく、フェリックスによる告発をきっかけとして“幻想”の占める比率が急激に高まったということでしょう。
そう考えると、最後に書かれた「後書きに代わる前書き」が本書の冒頭に置かれていることが、重要な意味を持ってくることになります。
(前略)この中に嘘は一言もない。省略も隠蔽もない。なにしろ僕が何かを秘密にしておかねばならぬ理由など、これっぽっちもないのだから。
(9頁)
「後書きに代わる前書き」にはいきなりこのように書かれています。いかにも手記の内容が“事実”であるかのような宣言ですが、これを書いた時点ではフォン・ヨッシュ男爵が“幻想”に侵食されてしまっていることは、「編者による後記」をみれば明らかです。逆にいえば、完全に“幻想”に侵食されているからこそ、つまり最後に書かれたからこそここまで堂々と宣言できるとも考えられるわけで、読者をミスリードする上で効果的な構成といえるのではないでしょうか。
しかもその「後書きに代わる前書き」の中でフォン・ヨッシュ男爵は、事件が起きた日の出来事を細々と並べて記憶力を誇る一方で、日付に関する勘違いを自ら認めています。さらに、ビショーフ邸で演奏したのは三重奏曲(フォン・ヨッシュ男爵:ヴァイオリン、ゴルスキ博士:チェロ、ディナ:ピアノ)だった(19頁)にもかかわらず、“四重奏曲の演奏のためゴルスキ博士が僕をビショーフ邸に連れて行った日”
(9頁)という間違い(*1)を記しています。このように、手記にもはっきりと表れているフォン・ヨッシュ男爵の記憶の不確かさは、手記の内容が信用できないことを示唆しているといえるのかもしれません。
フォン・ヨッシュ男爵による手記の中では、ビショーフの死に関する責任を他に転嫁すべく、一つの“真相”が示されています。その解明をリードする役割がフォン・ヨッシュ男爵自身ではなく技師ゾルグループに割り振られているところにも、フォン・ヨッシュ男爵の屈折した複雑な心理が表れているようにも思えますが、それはさておき、わずかな手がかりから“病的な肥満体のイタリア人”という噴飯ものの結論を導き出すゾルグループの推理は、ミステリのパロディめいていてなかなか面白いところです。
その後、一転して明らかになる意表を突いた“怪物”の正体(*2)、ついに“真相”を突き止めたゾルグループの実験と死(*3)、ゾルグループの行為によって失われた秘薬が最後に残された場所など、物語終盤はミステリ/サスペンスとしても非常に面白いものになっています。そして秘薬を試したフォン・ヨッシュ男爵の恐るべき幻視は凄まじく、とりわけ“トランペット赤”というあり得ざる色彩のイメージは実に秀逸です。個人的には、“記述者=犯人”というネタを知った上で読んでいたので、“どこまで風呂敷が広がっていくのか”という意味でも実にスリリングでした。
その途方もない“真相”はしかし、手記の後に配された「編者による後記」で否定され、フェリックスの告発とフォン・ヨッシュ男爵の“僕は四阿に何をしに行くんだろう。(中略)僕がそれを――呼び込んだのだ。”
(87頁)という独白が“事実”であったことが示唆されています。このように、フォン・ヨッシュ男爵が“犯人”であるという一つの“解決”が手記の中ですでに示されているところをみても、本書の“記述者=犯人”という趣向がミステリ的な真相(もしくは犯人)の意外性を狙ったものではないことは明らかです。
「編者による後記」が、フォン・ヨッシュ男爵の手記の内容が事実ではないことを“保証”していることは確かで、「ペルッツ問答」の表現を借りれば“最後の『編者による後記』で第一主題は第二主題の前に敗北する。”
(250頁)ということになります。しかしその「編者による後記」が同時に、(本書という虚構の内部における)“フォン・ヨッシュ男爵の手記”の実在を“保証”するものになっているところに注目すべきではないかと思います。
もし「編者による後記」がなかったとすれば、本書は単にある人物の手記という体裁をとった小説にすぎないともいえます。しかし「編者による後記」という、本書の読者と手記との間に位置して手記の内容を否定する(メタ)視点が加わることによって、“(作中の)現実の事件をもとに大いなる幻想を作り上げた”というフォン・ヨッシュ男爵の異様な行為が、生々しくクローズアップされている感があります。それこそが、“記述者=犯人”という趣向を採用した作者の意図だったと考えることもできるのではないでしょうか。
*2: 冒頭の「後書きに代わる前書き」における
“世界のどこか忘れ去られた片隅に、あのフィレンツェのオルガン奏者の記録があと一部、(中略)虎視眈々と新たな犠牲者を生む機会を狙っていはしないだろうか。”(14頁~15頁)という記述が、“怪物”の正体を示唆する伏線といえるかもしれませんが、
“フィレンツェのオルガン奏者”が“怪物”だと考えられなくもないので、微妙なところです。
*3: フォン・ヨッシュ男爵の手記の後半が“幻想”に満ちていたとすれば、このあたりの技師ゾルグループの扱いが気になるところです。ビショーフの死に立ち会っているので、まったく架空の人物ということはないのでしょうが、はたしてゾルグループは“現実”でも命を落としたのでしょうか。あるいはフォン・ヨッシュ男爵は、ゾルグループの心臓麻痺による急死をきっかけの一つとして、それを取り込んだ手記の“幻想”を作り上げることになったのでしょうか。
2008.01.02読了