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  4. 電氣人閒の虞

電氣人閒の虞/詠坂雄二

2009年発表 (光文社)

 作中に登場する詠坂雄二は、最終的に竹峰老人を犯人とする“解決”を披露していますが、事件が日積亨の死で“止まった”理由については説得力が感じられるものの、“開かずの扉”の電気仕掛けのトリックは正直なところ微妙。というのは、仕掛けそのものがやや面白味に欠けるということもありますが、いつ現れるかわからない――どころか現れるあてもない標的に備えて仕掛けのメンテナンスをし続ける行為が現実的でない上に、その仕掛けがなぜか赤鳥美晴に対しては使われなかったという大きな難点があるからです。

 それでも、作中の詠坂(と柵馬朋康)の視点では、一応はそれなりに筋の通った説明といえるのは確かです。が、その“解決”にそぐわない第3章(32頁~37頁)の描写*1など探偵役より多くの情報を入手している読者としては、詠坂の“解決”をそのまま受け入れるわけにはいきません。そしてその一方で、前述の第3章の描写や小学生・韮澤秀斗の言動などは、電気人間の実在を疑わせるものです。

 加えて、“仮にこれが俺の小説ならラストは電気人間実在で落としますよ”(190頁)という詠坂の台詞と、“プレスタ”の廃刊を知らされた柵馬が詠坂にかけた“電気人間はお前が換金できるテキストに仕立てるんだ”(271頁)という言葉とが、本書の作者である“詠坂雄二”自身が作中に登場するメタ趣向を利用した大胆すぎる伏線となり、“電気人間実在というオチ”を強力に示唆しています。

 となれば、あとは“電気人間をどういう形で登場させるか”がポイントになる――と、真相が明かされる前にそこまでは見当をつけていながら、肝心のところを見抜けなかったのはさすがに忸怩たるものがあるのですが、まさかそこに視点人物の隠匿トリック(→拙文「叙述トリック分類#[A-3-1]視点人物の隠匿」も参照)――が仕掛けられていたとは思いもよりませんでした。

 いうまでもないかもしれませんが、このトリックは一人称による叙述の中で視点人物(語り手)自身に関する描写や言及を徹底的に排除(もしくは他の登場人物に関するものだとミスリード)して三人称に見せかけるもので、本書と同様に、視点人物(語り手)が作中に登場していないものと読者に誤認させておいてその“登場”によるサプライズを狙った前例*2がいくつかあります。しかし本書では、電気人間の設定がトリックと密接に結びついているのが実に巧妙です。

 まず、本書のすべての章が“電気人間”という言葉が発せられたところから始まっているのは、語ると現れる。”(49頁)*3という電気人間の特徴に対応するもので、全編が電気人間の視点で描写されているという真相を示唆する伏線の一つといえます。また、赤鳥が殺された第3章が“そして彼女は振り返ろうとして”(37頁)で、日積が殺された第12章が“そして彼はその向こう側を覗こうとして”(101頁)で、それぞれカットアウトの形で終わっているのは、電気人間のことを語る人物がその場にいなくなった――そのために電気人間が消えた――ことを表していると考えられます。

 一方、“見えなくてもいる”(172頁)、すなわち“その場にいても見えない”という“電気でできた人間”ならではの性質により、視点人物の隠匿トリックを成立させる上での困難――他の登場人物が視点人物を無視し続けるのは不自然*4だという問題が、本書では完全に回避されているのが見逃せないところです。ただしこの点については、やはり特殊設定により視点人物を不可視とした、本書と同じような前例もあります。

 しかし本書の最も秀逸な企みは、“化け物”の能力としては陳腐ともいえる人の思考を読む。”(49頁)という設定を使って、電気人間による一人称視点の地の文で他の登場人物の内面を描写するという仕掛けを実現している点で、どこをどう見ても各視点人物の内面が描写された三人称多視点による叙述にほかならないために、一人称という真相に思い至ることが至難の業となっているのです。これは、視点人物の隠匿トリックとしては例を見ない強力なミスディレクションで、本書特有の優れた工夫といえるでしょう。

 もっとも、本書では電気人間の存在自体がはっきりしないものであり、それぞれの特徴もきっちりした“ルール”として扱われるものではないため、少々アンフェア感が漂ってしまうのは否めませんが、“電気人間不在”をダミーのオチとして機能させることを考えれば、致し方ないところでしょう。

 真相とともに明らかになる、『電氣人閒の虞』という題名のダブルミーニングもなかなか見事です。

*1: 厳密には、赤鳥美晴の死が第3章の中ではっきり描かれているわけではなく、“そして彼女は振り返ろうとして”(37頁)でのカットアウトも直ちにそれを意味しているとはいえない――と強弁する余地もないではないかもしれませんが、それはやはりアンフェアにすぎるかと。
*2: 同じく一人称を三人称に見せかけるトリックを使いながら、やや違った狙いの作品もありますが。
*3: 電気人間を“見る”ことができる韮澤少年が“電気人間という名を口にしようとはしない。”(219頁)のはわかりますが、流川映までが電気人間を“そんなもの”としか呼ばない(154頁)のは、どこか薄ら寒いものを感じさせます。
*4: 他の登場人物が視点人物に話しかけたりなどすれば、当然ながらそれだけで視点人物の存在を読者に気取られてしまうおそれがあるので、作者としては注意が必要となります。

2009.12.10読了