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  4. マーダーゲーム

マーダーゲーム/千澤のり子

2009年発表 講談社ノベルス(講談社)

 本書では終始一貫して“誰が〈犯人〉なのか?”というフーダニットが中心に据えられていますが、いずれも“そこにいる”〈犯人〉を“いないと思わせる”三つの仕掛け――(1)心理的なクローズドサークル(2)“見えない人”(3)叙述トリック――を積み重ねることで、〈犯人〉はしっかりと隠蔽されています。

(1)心理的なクローズドサークル

 「第一章」では、順番に杉田くん・織田吉・南村さん・麻生さん・ケー太・松浦さん・マッキー・岩本くんの名前が登場し、ゲームの参加者が“五班の給食当番全員、八人(21頁)だと明言されています。〈犯人〉自身の認識は別として、この八人の小学生たちは自分たちだけがゲームの“内”にいると考えているわけで、いわば心理的なクローズドサークルが形成されていることになります。

 作中では、ルールを越えて“犯行”をエスカレートさせる〈犯人〉が仲間たちの中にいるとは考えたくない心境もあってか、思いのほか早い段階からゲームの“外”にも疑念が向けられているのですが、〈犯人〉がゲームの“外”にいるとした場合には“どうやってゲームの存在を知り、介入することができたのか?”が障害となり、真相が見えにくくなっています。

 また、ほぼ全員の内面までも俯瞰できる読者と違い、作中の小学生たちは入手できる情報が限られているために、ゲームの“内”に存在する容疑者にミスリードされやすくなっていることも、見逃すべきではないでしょう。とりわけ麻生優花は――読者にとっては(後述する“ぼく”の一人称による記述もあって)ダミーの〈犯人〉であることは歴然としていますが――当初から(登場人物の目には)不自然な言動を見せて他の小学生たちの疑いの目を引きつけ、(作中で)真の〈犯人〉を隠蔽するのに貢献しています。

(2)“見えない人”

 小学生たちが真の〈犯人〉になかなか思い至らないのは、彼らのごく身近にいながらも直接の接点は少なく年齢なども違いすぎるため、特に小学生の限られた“世界”の一員とは認識されがたい主事という立場によるところが大きく、いわゆる“見えない人”トリックのバリエーションといえます。

 解決場面は、それまでほとんど名前の出ていない人物が〈犯人〉という大胆な“趣向”になっていますが、これもむしろ“見えない人”トリックの“副産物”のようなものであって、探偵役の杉田勇人でさえも最後にようやく〈犯人〉の名前を知るという具合に、いかに〈犯人〉が小学生たちの認識の“外”にあったかを端的に表している(あるいは裏付けている)ものととらえるべきでしょう。

 ちなみに、杉田自身は気にとめていないものの、“久保悠司”の名前は“教職員のところに一ヵ所間違いがある。ここ。久保さんは久保修二さんじゃなくて、久保悠司さん。”(34頁)という箇所で読者にも示されており、さらに“久保先生”ではなく“久保さん”という呼称によって教師でないことまで示唆されているといえるかもしれません。

 ついでにいえば、解決場面の以下の箇所については、若干の説明が必要であるように思われます。

「なるほど。最初のスケープゴートとなった墨汁は、あなたの名前でもあったのですね」
 壁に掛かっているプレートを指さした。
「久保悠司さん。名前を並び替えると〈ぼくじゅう〉。あなたの名前を知っていれば、もっと早くにあなたにたどり着いたかもしれないですね。不覚でした、主事さん……」
  (227頁)

 ケー太の〈スケープゴート〉が“習字(中略)・落とし物BOXの中”(192頁)なのはいいとして、それは飼育小屋の裏で発見された墨汁ではなく、落とし物BOXの中で見つかった“習字用の筆”(208頁)だと考えるのが妥当でしょう。仮にケー太が墨汁を〈スケープゴート〉として落とし物BOXに入れたとした場合、主事である〈犯人〉はノートに名前を記す(209頁)ことなくそれを持ち出すこともできるでしょうが、ノートに記録がないことが逆に手がかりとなって〈犯人〉が直ちに特定されてしまうおそれがあります。つまり、最初に発見された墨汁はケー太の〈スケープゴート〉ではなく、勝手にゲームに参加するにあたって〈犯人〉が自分で用意した、〈犯人〉自身の〈スケープゴート〉だと考えられます。

 わざわざ自分の〈スケープゴート〉を用意して、自分で飼育小屋の裏に置くというルール違反(16頁)を犯したのは、他の参加者たちに“もう一人の参加者”の存在をアピールしたいという意図によるものだと思われます*1。したがって〈犯人〉は、“墨汁→ぼくじゅう→久保悠司”(さらには“習字→しゅうじ→主事”も?)という形で自身につながる(小学生たちに向けた)ヒントとして、墨汁を選んだということではないでしょうか。

 さらに、ゲームの趣旨からすればまったく必要のないはずの“何で墨汁をスケープゴートにしたのか”という疑問が呈され、それに対して織田吉がぼくだから墨汁。”と無理なダジャレ回答をしている(いずれも62頁)あたり、前述のようにすでに“久保悠司”が示されていることとあわせて、読者へのヒントとしての意味も込められているのかもしれません。

(3)叙述トリック

 作中の小学生たちの視点を介した(1)と(2)の仕掛けに加えて、本書には直接読者に向けたトリック、すなわち叙述トリックも仕掛けられており、〈犯人〉の隠蔽に一役買っています。

 具体的には、“ぼく”の一人称で書かれた「第一章」において、八人の小学生たちのうちでケー太についてだけ地の文で言及しない*2ことにより、“ぼく”をケー太と誤認させるトリックです。“なんか、携帯ってもう電話じゃなくて、トランシーバーっていう機械みたいだ。”(20頁)という独白などは、今時の小学生としては違和感のある――初期の携帯電話をそれなりに知っている年代の人物にふさわしい――ものですが、気をつけて読まない限りはあまり目立たず、作者の企みは成功しているといっていいでしょう。

 ここで注意すべきは、これが必ずしも*3ケー太を〈犯人〉だと思わせるためのトリックではなく、(会話の流れからみてその場にいるはずの)ケー太と“ぼく”を同一視させることでそこにいる人数を一人少なく見せかける、つまりは“ぼく”という代名詞の主体である〈犯人〉――主事の久保悠司の存在を隠蔽するのが目的である点です。その意味では、“視点人物の隠匿”トリック(→「叙述トリック分類#[A-3-1]」を参照)の一環といっていいのかもしれませんが、典型的な手法((一応伏せ字)一人称を三人称に偽装する(ここまで))とはまったく異なっているのがユニークです。

*

 トリックが仕掛けられているのは「第一章」のみにとどまらず、やはり“ぼく”の一人称で記述された「第三章 3」で“ぼく”が“虫歯なのか風邪なのかわからないけど、右奥歯の辺りが腫れぼったい気がする。”(47頁)と説明された直後、「第三章 4」ではケー太が右頬を腫らしてダウンする場面(48頁)が描かれ、“ぼく=ケー太”の誤認が補強されるようになっています。

 その後はケー太の“退場”に伴って“ぼく”の出番もしばらく絶えていますが、久々の一人称視点となる――そして“せめて、葬儀の場で焼香をすることが、自分が殺した者に対する礼儀だと、思ったんだ。”(189頁)という重大な独白が出てくる――「第十三章 1」でも、“本来ならば、葬儀に顔を出さなくても良かった。/別にぼくが参加しなくても、誰も咎めはしないだろう。”(189頁)といった記述などは、一応はおたふく風邪から回復したばかりのケー太にも当てはまるものになっています。もっとも、その少し前にはケー太が織田吉に“自分が〈犯人〉役だった”と告白したことが匂わされていますし、その直後にも折れ目のない封筒という手がかりをもとに杉田が“犯人は、ぼくたちの誰かではない。”(191頁)と断言しているので、作者としても最後まで“ぼく=ケー太”のトリックを引っ張るつもりはなかったようですが……。

 “ケー太”と岩本“敬太”、そしてカードに書かれた“けーた”という仕掛けは少々あざといようにも思われますが*4、小学生たちが“けーた”をケー太だと考える一方で〈犯人〉は岩本敬太を〈スケープゴート〉にしたという認識の“ずれ”が、解決への手がかりとされているのが秀逸です。探偵役の杉田が、心中では“真実はわからない。”(225頁)としているにもかかわらず、“岩本くんが書いたのは(中略)みんなから〈ケー太〉と呼ばれる人物だったのです。”(224頁~225頁)と断言しているのも、その“ずれ”を〈犯人〉に突きつけて追い詰めるためのことでしょう。

 優花の母親が“給食のおばさん”として学校で働いていることが伏せられているのは、それ自体によるサプライズを狙ったというよりも、〈スケープゴート〉として学校で危害を加えられる展開を予測させないことを意図したものだと考えられます。優花の母親が“給食のおばさん”であることを示唆する伏線としては、杉田が思い返している(219頁)“どこかで見たことのある顔”(38頁)の他に、“給食のおばさん”に対して優花が見せる妙に素っ気ない態度(89頁)や、岩本が死んでいるのが発見されて午後から臨時休校になった日の急に午後休みになってバイト料は減るし”(144頁)という母親の台詞があります。

 前述のように、優花の不自然な言動は小学生たちに対するミスディレクションとなっているのですが、それが単なるミスディレクションだけで終わることなく、「エピローグ 2」につながる伏線として再利用され、きっちり結末がつけられているのが巧妙です。

*1: もちろん作者の狙いは、墨汁をケー太の〈スケープゴート〉だと思わせることですし、作中でもそのような扱いになっているわけですが。
*2: 「第一章」でケー太の名前が出てくるのは、“織田吉やケー太も前に言ってたよね。”(10頁)“放送委員のケー太は、放送室に隠すのはダメ。”(15頁)の2箇所、いずれも杉田勇人の台詞の中です。
*3: 本書の冒頭に掲げられたエピグラフ――“ぼくが初めて殺人を犯したのは、十二歳の秋だった。”(7頁)は、小学生である“ぼく”が殺人犯だと読者をミスリードする仕掛けになっています。
*4: 三宅譲司が“ケージ”(154頁)と呼ばれ、ケー太が同じく“三宅くん”(157頁)であることが明かされたところで、ケー太の本名が“けーた”ではなく“た(太)”で始まるものだということは推測できますし、三宅譲司のあだ名が“ケージ”になるのならば三宅太一郎が“ケー太”になるのも理解できなくはないのですが、やはり少々無理があるように感じられます。

2011.05.31読了