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黒い睡蓮/M.ビュッシ

Nympheas noirs/M.Bussi

2010年発表 平岡 敦訳 集英社文庫 ヒ82(集英社)

 巻末の「訳者あとがき」にも記されているように、本書には時間の関係を誤認させる叙述トリック――具体的には、三つの年代での出来事を同時期に起きたように見せかけるトリック*1が仕掛けられています。これ自体はもちろん見慣れた手法ではあるのですが、本書ではそれを成立させるために、“一人称の語り手が回想、あるいは想像している内容を、あたかも目の前で繰り広げられている出来事のように描くという大技”(575頁)が使われているのが大きな特徴です。

 この種のトリックが使われる場合、フェアネスを担保するために、〈過去〉と〈現在〉がはっきり区切られるのが一般的ですが、本書では〈過去〉と〈現在〉がいわばシームレスに混在している状態であるため、読者にとってはそもそも年代のずれなど疑うべくもないわけで、あまりにも強力すぎるトリックとなっています。

 欲を言うならこの赤色が、画家が川で洗ったパレットから流れ出たものならよかったのに。でもその出所は、ジェローム・モルヴァルの叩き割られた頭だった。ぱっかりと割れた頭はエプト川に浸かり、頭蓋骨のてっぺんにあいた深い裂け目から血が噴き出している。
  (中略)
 死体はほどなく発見されるだろう。まだ朝の六時とはいえ、きっと誰かが通りかかる。画家、散歩やジョギングをする人、煙草の吸殻を拾う男……そして死体に行きあたるはずだ。

 わたしはそれ以上近づかないように気をつけ、杖で体を支えた。この先は土がぬかるんでいる。ここ数日、雨が降ったので、川岸は軟らかくなっていた……もう八十だ。幅一メートルもないちっぽけな川でだろうと、スイマーを気取る歳じゃない。(後略)
  (16頁~17頁)

 「一日目」の冒頭から引用してみましたが、“死体に行きあたるはずだ。”までの前半(赤字の部分)はモルヴァルの死体の描写なので〈過去〉、後半(青字の部分)は“杖”“八十”からみて明らかに〈現在〉です。にもかかわらず、このように並べられてしまうと、“年老いた“わたし”がモルヴァルの死体を発見した”ようにしか読めません。「訳者あとがき」では“よく読めば現在と過去はきっちりと書き分けられている。”(575頁)とされていますが、真相を知らない段階でこれを区別するのはまず不可能でしょう。

 さらに、〈過去〉が回想――“わたし”の実体験だけでなく、(伝聞に裏打ちされているとはいえ)想像まで含んでいるのが困ったところ。というのも、明らかに“わたし”が存在するはずのない場面(例えば「二日目」「6」)では、必然的に一人称の語り手の存在が“抹消”されることになり*2、完全に三人称と区別がつかない状態*3となってしまう――そして本書の場合、“常に一人称の語り手が存在する”ことを補強する材料が乏しいので、“(隠されていた)語り手の想像”という真相を明かされても納得しがたい部分が残ってしまうからです。

 この“補強する材料”について補足しておくと、一人称を三人称に偽装するトリックを使った作品では大半の場合、隠された語り手の存在が明かされるよりもに、作中で人数の不足(典型的には犯人の不在)が問題となることで、語り手の“出現”が納得しやすくなっています。しかるに本書では、三人称だとすれば各章の日付と矛盾する――というのは、それが過去の出来事だと明かされたの話であって、他にそれらしい材料が見当たらない以上、“後出し感”が拭えません。

 また、そもそも本書のすべてが一人称というわけではない――真相を念頭に置いても三人称と解釈せざるを得ない記述が残ってしまうのがややこしいところです。具体的にはローランタン警視(とパトリシア)視点の部分で、“わたし”はその内容を章題の日付の時点ではまったく知り得ないはずですから、そのタイミングでの想像も当然不可能。本書の結末よりも後でローランタンの話を聞いた“わたし”の想像を、それが実際に起きた日付に合わせて挿入してある……というのは、一人称と日付の関係が破綻するので考えにくいものがあります。

*

 ……といったところが気にはなるのですが、それでもやはり、過去の“わたし”に対する“ファネット”や“ステファニー”といった呼称の使い分け*4による“一人三役”を、1937年・1963年・2010年と三つの年代を同時期に見せかけることで補強し、“わたし”ことステファニー・デュパンを“三人の女”に仕立て上げるトリックは、非常によくできています。

 同時期に見せかけるトリックについては、前述のように“わたし”の視点での〈過去〉と〈現在〉の混在が中心となっていますが、それに加えて、歴代のネプチューンを同一個体と思わせているのが実に巧妙。さらにこれを利用して、ジャックに銃で撃たれて死んだ(471頁)はずのネプチューンが魔法のように復活する“怪現象”(504頁)を演出してある*5のもうまいところです。

 またファネットのパートでは、“ポール”(アルベール・ロザルバ)、“カミーユ”(ジェローム・モルヴァル)、“マリ”(パトリシア・シェロン)、そして“ヴァンサン”(ジャック・デュパン)と、ファネットがつけた画家の名前からとったあだ名”(531頁)*6によって、他のパートに登場する(または言及される)人物とは別人だと思わせることで、年代のずれを隠蔽する仕掛け*7が周到です。結果として、“ヴァンサン”がジェイムズと“ポール”を殺したこと(「79」)が明かされても、ジャックにまではたどり着きにくくなっていることはいうまでもないでしょう。

 そしてもう一つ、ローランス・セレナック警部(1963年)とローランタン警視(2010年*8)を別人と見せかけてあるのも重要ですが、これについては電話での初登場時(「25」)、電話をかけたパトリシアの台詞が絶妙です。“経験不足の若い警察官では(中略)第一容疑者の奥さんに、馬鹿みたいに熱を上げてしまうんじゃね。”(181頁)“若い警部は絵画に(中略)関心を向けすぎで”(182頁)といったセレナックへの“ダメ出し”が、実は本人への“当てこすり”だった――復讐とは“逆の目的”(182頁)で動くパトリシアとしては、悪意ではなくセレナック=ローランタンをたきつけるためなのでしょうが――とは予想外で、同一人物だとは考えにくくなっています*9

*

 読者が真相に気づくための手がかりとしては、ジェイムズの絵具箱に刻まれた“彼女はぼくのものだ。/今も、これからもずっと。”(197頁)という脅迫文が最も有力でしょうか。それが、若干の保留つきとはいえ“ジャック・デュパンの筆跡と一致”(357頁)したことから、ジェイムズを殺したと思しき“ヴァンサン”が子供時代のジャックだと――そしてファネットのパートとステファニーのパートの年代のずれ、ひいてはファネットとステファニーが同一人物であることまで――思い至ることも、不可能ではないように思います。

 また、1937年のアルベール・ロザルバの死の状況(367頁~368頁)が、“ポール”が殺された状況(499頁~501頁)と酷似していること、そして“わたし”が“アルベール・ロザルバの写真”(223頁)を持っている上に、その写真では“わたしの隣にすわっている”(352頁)ことから、“ポール”とアルベール、ファネットと“わたし”がそれぞれ同一人物ではないかと――さらにはファネットのパートと“わたし”のパートの年代のずれをも――疑うことはできるのではないかと思われます。

 一方で、“ローランタン”と“ローランス”という名前の類似*10に加えて、“Mを捜せば……モルヴァルが見つかる。/大きな赤い書類箱がそこにあった。”(304頁~305頁)*11がセレナック警部の“赤い箱を片づけた。/モルヴァルのMの棚に。”(495頁)と対応すること、そして“ステファニー・デュパンに再会するべきか?”(442頁)という独白などを考え合わせれば、“ローランタン警視”が数十年後のセレナック警部だと――そして“わたし”のパートとステファニーのパートの年代のずれも――見抜くことができそうです。

 ちなみに、海外のバイクに詳しい読者であれば、セレナック警部のバイク――“タイガー・トライアンフT一〇〇”が、“わたし”も“古い、ほとんど骨董品と言ってもいいようなバイクだ。”(251頁)と評しているように、2010年に乗るにはいささか古すぎる*12ことから、仕掛けの一端に気づくことも可能かもしれません。

 このような手がかりが用意されているので、必ずしもアンフェアな仕掛けとはいえないようにも思いますが、しかし複雑な全体像ゆえに、すべての真相を見通すのはかなり困難ではないでしょうか。

 いずれにしても、真相が明かされるまでは“得体の知れない老女”にすぎなかった“わたし”の物語に、ファネットの物語とステファニーの物語が“それまでの人生”として加わることで、“三人の女”ならぬ“一人の女”の、“守護天使”によって不当に未来を奪われた哀しむべき一生が、厚みをもって浮かび上がるのがお見事。そしてそれが胸を打つだけに、最後のローランタン警視ことセレナック警部の来訪が、ようやく訪れた“救い”――何せ、プロローグの“誰が脱出に成功したと思うだろうか?”(13頁)という記述で、ファネットもステファニーも果たせなかった“脱出”が約束されているに等しいのですから――として、強力なカタルシスを生み出しています。

* * *

*1: 拙文「叙述トリック分類#日時の関係の誤認」を参照。
*2: 逆に「二日目」「5」――広場のテラス席でのセレナック警部とベナヴィッド警部の捜査会議――などは、直前の「4」で“わたし”が同じ場所を訪れている(上に、ネプチューンが二人の前に現れている)ことで、語り手がその場に存在するという印象を与えることに成功しています。
*3: 実をいえば、「一日目」最後の「3」で出てきた“猫視点のミステリ小説”の話――“お屋敷の飼い猫みたいに誰にも怪しまれず、この事件の証人になろう。”(35頁)というあたりで、一人称を三人称に偽装する叙述トリック(→「叙述トリック分類#視点人物の隠匿」)が頭に浮かんだのですが……。
*4: いずれも同じ“わたし”とはいえ遠い過去の回想なので、第三者的に突き放した表現になるのも不自然ではないように思います。
 ちなみに、“ファネット”はおそらく“Fanette”=“Fan + ette(小さい?)”なので、ステファニーの幼少時の愛称(フランス風)ではないかと考えられます。
*5: これは同時に、時系列のずれをあからさまに示唆する手がかりともなっているのですが、〈ネプチューンが生きている“わたし”のパート〉→〈ネプチューンが死んだステファニーのパート〉の順序であるかのようにミスリードされてしまうきらいがあります。
*6: 作中には“きみが好きだった印象派の画家だ。”(531頁)とあり、“マリ”のみ“メアリー・カサット”(535頁)(→Wikipedia)と明示されていますが、「印象派#印象派画家の一覧 - Wikipedia」などをみると、“ポール”はセザンヌ(→Wikipedia)、“カミーユ”はピサロ(→Wikipedia)でしょうか。そして“ヴァンサン”は、“Vincent”のフランス語読みだとすれば、ポスト印象派(→Wikipedia)とされるフィンセント・ファン・ゴッホ(→Wikipedia)ではないかと思われます。
*7: ファネットのパートでは他にも、あの殺人事件のせいだわ。今朝から村は、その話でもちきりだ。”(83頁)と、あたかもモルヴァル殺しを指しているかのような記述(実際には、“数日前にもジヴェルニーのすぐ近くで、川船からスペイン人労働者の他殺死体が見つかったばかり”(534頁))、あるいは“先生は絵が好きだし、ロビンソン財団の絵画コンクールにも積極的”(347頁)“先生も髪のなかに銀のリボンをしてる”(348頁)といった、“先生”をステファニーだと思わせる記述が効果的です。
*8: “一九九〇年”(180頁)まで捜査に携わり、“引退してから、もう二十年ほど”(301頁)で――最終的には“二〇一〇年の今”(303頁)と年代が明示されています。
*9: また、“こと美術品密売事件に関しては、あなたほど経験豊かな探偵はいない”(180頁)という口実――パトリシアはすでに真相を知っているので――が、事件の真相に対するミスディレクションになっています。
*10: ベナヴィッド警部のロー……ラン……いえ、ボス”(42頁)ローラン……いえ、ボス……”(494頁)といった台詞は、名前の共通部分を強調するヒントといえるかもしれません。
*11: ローランタン警視は、長く署長をつとめたヴェルノン署の流儀にも通じているでしょうし、セレナック警部が書類箱の“側面に《モルヴァル》と書いた”(113頁)ので見つかるのは当然ですが、この部分の書きぶりは、“それが大きな赤い書類箱だと知っていた”ことを匂わせているように思います。
*12: 「Triumph Tiger 100 - Wikipedia(英語)」“The Tiger 100 (T100) was a standard motorcycle first made by the British motorcycle company Triumph in 1939. Production ceased when the Triumph factory was destroyed by German bombing in 1940 during World War 2, but recommenced in 1946. Several variants were manufactured until 1973.”とあるように、第二次大戦前から戦後にかけて製造され、1973年には製造が終了しているようです。そして、廃屋を改修して住み、バーベキューのコンロを収集している(「18」)ベナヴィッド警部であればいざ知らず、セレナック警部の方はあえて“骨董品”を乗り回すような人物ではない印象です。

2017.12.28読了