片眼の猿/道尾秀介
本書では、語り手の三梨をはじめとする登場人物たちの多くがそれぞれに“障害”(のようなもの)を抱えていますが、トウヘイ以外の人物についてはそれが終盤まで明示されないという、叙述トリック的な仕掛けが用意されています。
まず三梨と冬絵については、冒頭の白いワイシャツの男と青いワイシャツの男の会話――とりわけ、“どうして犬は人間の数万倍も鼻が利くのか”
(14頁)に対する“犬はな、鼻が大きいんだ。犬ってのは、顔の半分が鼻なんだよ”
(20頁)という答が、やはり非常に効果的。話題にされている女性(冬絵)が“あり得ないほど遠くを見通すことができる、並外れて大きな目の持ち主”だと読者をミスリードするとともに、“特別な聴力”を発揮している三梨もまた“巨大な耳の持ち主”だと錯覚させる、実に巧妙な仕掛けだと思います。
とはいえ三梨については、『みなしご一郎』とは別の“もう一つの語呂遊び”
(32頁)という記述によって、『巨大な耳』とは逆方向の『耳なし』も強く示唆されていることから、仕掛けがやや中途半端になっているのは否めないところ。また、仮に“もう一つの語呂遊び”から『耳なし』にまで思い至らないとしても、『巨大な耳』という“偽の真相”と『耳なし』という“真相”とは、(誤解を恐れずにいえば)大多数の読者にとっていずれも“障害”であることに違いはないため、“真相”が明かされても叙述トリックならではの“強烈な反転”とはなりにくいのが難点です。
また冬絵についても、“真相”は意表を突いてはいるものの(これも身も蓋もない表現をするならば)“偽の真相”よりも“普通”に近いため、どうしてもインパクトに欠けるきらいがあります。これは自身の想像力のなさを露呈してしまうことになるかもしれませんが、そもそも個人的に意表を突かれた理由の一つとして、冬絵が抱える劣等感の強烈さと“小さな眼”という“真相”とのギャップ――それほどの劣等感を抱くものとは思えない――があり、今ひとつ釈然としないものが残ります。
さらに、野原の爺さん、まき子婆さん、トウミとマイミ、帆坂くんといった面々については、読者を“偽の真相”にミスリードする仕掛けが用意されているわけでもなく、ただ“真相”を伏せてあるだけにすぎず、叙述トリックというには力不足(*1)。それでいて、“真相”を示唆する伏線(ヒント)は随所に配されている(*2)ため、総じてかなり見え見えの状態。これは単にサプライズの欠如という不満を生じるだけでなく、読者に容易に透けて見える“真相”をあえて明示しないという、奥歯にものが挟まったような表現になってしまうわけで、(ネタがネタだということもあって)居心地の悪さを覚えずにはいられません。
このあたりについては、自身も“耳がない”三梨が語り手となっているということもあるのでしょうが、しかし会話だけならともかく、「15 トウヘイのクイズ」での“ああ、なるほど。しばらく考えて、ようやく俺にもカードの意味がわかった。”
(138頁)や“そういうことか。これはすぐにわかった。”
(139頁)といった地の文――内面においてまで、“クイズ”の答えに触れるのを避けるというのは、どうにも不自然に感じられます。
もちろん、これらの“真相”をぎりぎりまで明示せずに“タメ”を作っておくことで、「36 大きなお世話」で三梨が冬絵にかけた“気にしてないからさ。(中略)だからいつでも楽しそうなんだ”
(319頁)という言葉がより印象深いものになっている感はあります。そこには、前述の居心地の悪さがようやく振り払われることによる若干のカタルシス(のようなもの)も寄与しているといえるのかもしれませんが、それが作者の狙いなのかどうかは定かではありません。
*2: 野原の爺さん:
“鼻が悪い”(58頁)・トウヘイの配ったカード(138頁)
まき子婆さん:
“まき子婆さんの部屋だけはいつも真っ暗”(71頁)・
“まき子婆さんは帆坂くんの頭に手を乗せようとしたが、ちょっとずれていた。”(135頁)
トウミとマイミ: ゲームのコントローラーに関する会話(74頁~75頁)・
“トウミが左手で缶を支え、マイミが右手で蓋をあける。”(135頁)・トウヘイの配ったカード(136頁~137頁)
帆坂くん: 足音が
“帆坂くん以外はわかる”(79頁)・長靴に関する冗談(129頁)・
“僕、幽霊みたいなもんですから”(149頁)
2010.05.08読了