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ある閉ざされた雪の山荘で/東野圭吾

1992年発表 講談社文庫 ひ17-12(講談社)

 “芝居の稽古 > 稽古に乗じた殺人 > 殺人に見せかけた芝居”、という三重構造そのものは、どんでん返しという意味ではある程度予測可能なものであるかもしれませんし、単純にいえば芝居から現実を経て最後はまた芝居に戻ったということで、それほど意外だとはいえはいえないようにも思います。しかし、当初は存在しなかったはずの観客の登場はなかなか衝撃的です。

 それをさらに効果的にしているのが、一人称視点の描写を三人称客観視点に見せかけて、視点人物(=麻倉雅美)の存在を隠す叙述トリックです(「叙述トリック分類」[A-3-1]視点人物の隠匿を参照)。これにより、作中の登場人物に対しても読者に対しても、“その場に存在していながら見えない人物”というまったく同じ現象が生じているのです。犯人(たち)が他の登場人物たちに対して仕掛けた物理トリックと同じ効果が、作者が読者に対して仕掛けた叙述トリックで達成されている、というべきでしょうか。

 しかもそれだけではなく、叙述トリックによって真相が見えにくくなっているという効果もあります。笠原温子が“殺された”場面の死体をずるずると引きずり始めた”(51頁)という描写は、事実と違っているのですから、三人称客観視点ならばアンフェアとなります。裏を返せば、麻倉雅美視点の描写を三人称客観視点と誤認している限り、“地の文で嘘を書いてはならない”というフェアプレイの原則に基づいて、笠原温子が本当に殺されたと考えるのが自然なのです。

 さらに芸が細かいことに、芝居だということに麻倉雅美が気づいた(108頁)後の元村由梨江“殺し”と雨宮京介“殺し”の場面では、それぞれ“彼女の身体をずるずると引きずって”(121頁)及び“今度の肉体は”(233頁)と書かれており、似たような表現でありながら“死体”という言葉は使われていません。このあたりの技巧は、実に見事だと思います。

2006.01.31再読了

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