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探偵映画/我孫子武丸

1990年発表 文春文庫 あ46-2(文藝春秋)

 それぞれに自らを“犯人”とする俳優陣の推理の中では、裸のまま犯行に及んだ――しかも“突き落とした”のではなく投げ縄で“引き落とした”――という清原みすずの“解決”と、“怖い顔の描かれた風船”を使ったバカトリック*1のインパクトが強烈な西田貴弘の“解決”が目を引きますが、いずれも決め手を欠いているのは否めません。

 ここでみすずの“解決”については、映像としての『探偵映画』とは矛盾しないにもかかわらず、風呂場のセットの窓が開かないという“枠外”の情報によって否定されているのが面白いところで、解き明かすべき謎が単純に“誰が犯人なのか?”ではなく、(少なくともこの時点では)“大柳監督の意図した結末はどのようなものか?”であることがうまく使われていると思います。

 それに対して、最終的にシナリオコンテストで採用された立原のシナリオは、“探偵役”であったはずの蓮見光太郎を犯人とするもの。“探偵=犯人”という真相にはいくつも前例がありますし、手で首の骨を折ったという犯行にはいささか無理がありますが、もともと“探偵役”を割り振られていたために、俳優陣の中でただ一人“自白”しなかった人物、という点ではよく考えられていると思います*2

 しかして、最後に大柳監督が明かす『探偵映画』の真相は、カットバックを利用して時系列を誤認させる叙述トリック*3で、シンプルにして実に効果的。“女主人・鷺沼潤子”は映画の冒頭で自殺しているために、順序を変えてその後に描かれる事件の容疑者となることを免れる――いわば“叙述トリックによるバールストン先攻法”が、これ以上ないほど鮮やかに決まっています。

 この叙述トリックを成立させているのは、スクリーンに映し出されるイベントの順序だけでなく、“辰巳”を“鷺沼潤子”に会わせようとしない一同の不自然な態度が、“鷺沼潤子”の自殺直後の“そんなことがあってはなりません……絶対にそんなことがあっては!”(38頁)という“藪井”の台詞――“鷺沼潤子”が犯人だと知った時の反応としては納得できるものですが――と結びついた、強力なミスディレクションによるところが大きいのはもちろんです。

 しかしさらに、本書が映画『探偵映画』を作中作としたメタフィクションであるがゆえに、これまた“枠外”の情報がミスディレクションとなっているところも見逃せません。細かいところでは撮影がシナリオ順に行われているのも、時系列の逆転という真相を隠蔽するのに一役買っているように思われますが、より強力なのは“鷺沼潤子”役の人物が役者ではないことで、“自殺のふり”説が否定されている(154頁~155頁)ように、結末部分で再登場して演技をすることができないわけですから、本来であれば“犯人役”にはまったくふさわしくないでしょう。その問題を、冒頭の映像の再利用と別の人物によるナレーションで回避するという工夫は、なかなか周到だと思います。

 冒頭の“映画の叙述トリック論”がかなり親切なヒントになっている――どころか、作中でも最後に言及されている(319頁)ように『悲愁』の紹介*4がそのまま当てはまるという、大胆な企みには脱帽せざるを得ません。さらに、終盤にもご丁寧に“映画だからできる叙述トリックみたいなもの”(239頁)に言及されています。そしてもちろん、天候の“不連続”という手がかりが映像の中にもしっかり埋め込まれているのがお見事です。

*1: ちなみに、作中で細川拓也が“カーの密室トリックにも似たような馬鹿馬鹿しいのがあったと思うが”(180頁)と言及しているのは、もちろん(以下伏せ字)『魔女が笑う夜』(ここまで)のことでしょう。
*2: 裏を返せば、俳優陣の“自白”合戦を経ていることで、よくできているように思える部分もあるかもしれませんが……。
*3: 拙文「叙述トリック分類#[B-2]時系列の誤認」を参照。
*4: まず最初に、自殺したフィドーラという大女優の盛大な葬式で始まるんです。そしてカット・バックして、彼女が自殺するまでのいきさつを見せるわけですが……この葬式を始めに持って来たせいで結構だまされてしまうようにできてるんですね。”(28頁)

2012.05.16再読了