幽女の如き怨むもの
[紹介]
戦前は〈金瓶梅楼〉、戦中は〈梅遊記楼〉、そして戦後は〈梅園楼〉と、名前を変えながら続く遊郭で繰り返されてきた、不可解な連続身投げ事件。〈金瓶梅楼〉では、初代“緋桜”ら三人の花魁が何かに取り憑かれたかのように、気味の悪いいわくのある別館三階の特別室から身を投げ、あるいはかろうじてその寸前で救われる。〈梅遊記楼〉でも二代目“緋桜”として売り出された花魁を含めて三人が、さらに戦後の〈梅園楼〉でも三代目の“緋桜”など三人が、同じように身投げ事件を引き起こす。過去にもやはり“緋桜”という名の花魁が、特別室から身投げして命を落とした末に、“幽女”となってさまよっているのではないか――奇怪な謎に対して、刀城言耶が下した解釈は……?
[感想]
ホラーとミステリを融合させた、おなじみ〈刀城言耶シリーズ〉の最新作……ですが、刀城言耶による「はじめに」でも“ここには密室や人間消失も、連続殺人や見立て殺人も、試行錯誤によって齎される多重解決やどんでん返しも、恐らく何もない”
(8頁)とはっきり宣言されているように、これまでの作品(特に長編)を彩ってきた要素が大幅にはぎ取られ、だいぶ趣の違った作品となっているのが目を引きます。
そもそも、合理的な謎解きに主眼を置いたミステリと、“理”で割り切れないものが恐怖を生むホラーとはあまり相性がよくないわけで、両者を巧みに共存させてあるこのシリーズにしても、“人間業とは思えない”不可能犯罪が逆に――“ミステリ”であることを強く主張して――ホラー色を薄めているきらいがなきにしもあらず(*1)。しかるに本書では、不可能性ではなく不可解性の強い事件が扱われるなど、あからさまにミステリらしい要素が控えめとされている結果、刀城言耶が登場する「第四部 探偵」以外はほとんど怪談の味わいです。
とりわけ、初代“緋桜”の残した日記をもとにした、本書のおよそ半分(250頁強!)を占める分量の「第一部 花魁」は出色の出来。何も知らないまま売られてきた娘の視点で克明に描かれていく遊郭は、外部からは容易にうかがい知れない“闇”に包まれ、そこからなかなか抜け出すことができないまま、悲惨としかいいようのない体験を強いられ続ける遊女の立場も相まって、それ自体がすでに恐るべき“異界”の様相を呈し、“幽女の如き怨むもの”が徘徊する土壌は十分すぎるほどに整っているといえます。
はたして、特別室の窓から逆さまに覗き込む“何か”(*2)など、不気味な噂がささやかれる中で起きる身投げ事件は、一つ一つは合理的な説明がつかないでもないものの、立て続けに三人ともなるとそこに連続性の理由として怪異を“見て”しまうのも人情というもの。さらに遊郭の女主人が戦中の出来事を語る「第二部 女将」(*3)、戦後になって怪奇作家が取材の顛末を綴った「第三部 作家」でも、人は違えど同じように――規則性をもって事件が繰り返されることで、“幽女”の存在がより“確かな”ものになっていくのがうまいところです。
もちろんここまでの段階でも、一連の事件に納得のいく説明をつける試みはなされている(*4)のですが、決定的なものは出ないまま、刀城言耶が安楽椅子探偵風に登場する「第四部 探偵」へ。ここで示される“解釈”の中核にあるのは“たった一つの事実”
ではありますが、色々な意味で十分に衝撃的ですし、その隠し方がなかなかユニークだと思います。そして、その“解釈”を通じて浮かび上がってくる“真の物語”には思わず圧倒されます。ミステリ部分が突出することなく、ホラー部分とうまく組み合わされてシリーズ中随一の物語に仕上がった、見事な傑作です。
*2: 村田修氏によるカバーイラストをよく見てみると……((一応伏せ字)窓が逆さに描かれています(ここまで))。
*3: 余談ですが、ここでさりげなく言及されている
“上榊家の離れで起きた、確か学生さんの毒殺事件”(361頁)は、『作者不詳(上下) ミステリ作家の読む本』中の「陰画の中の毒殺者」で描かれた事件だと思われます。
*4: このように、すでにある程度の推理が示されていることが、本書で刀城言耶が恒例の“一人多重解決”を行わない理由の一つでしょう。
2012.04.22読了 [三津田信三]
ブロントメク! Brontomek!
[紹介]
五十二年に一度、植民惑星アルカディアをめぐる六つの月が揃って空にかかる時、高潮に乗って海面を埋め尽くしたプランクトン〈マインド〉の影響を受けて、人々は催眠術にかかったように次々と海に入り、巨頭鯨たちの餌食となっていった――その災厄から二年を経た今では、全人口の三割が他の惑星に移住してしまい、経済も崩壊に瀕していた。そんな中、銀河に広がる巨大企業、ヘザリントン機関がアルカディアに経済復興の支援を申し出てきた。アルカディアの住民たちはそれを受け入れ、労働力として多数の無定型生物{アモーフ}と巨大なトラクター〈ブロントメク〉が送り込まれてくる。しかし、やがて住民たちとヘザリントン機関の間に緊張が……。
[感想]
1977年度英国SF作家協会賞(→Wikipedia)を受賞し、おそらくはそのせいもあって最初に邦訳されたマイクル・コニイの長編で、巻末の解説(山田和子氏)によれば、未訳の長編第一作『Mirror Image』や第二作『Syzygy』、さらに本書の前年に発表された『カリスマ』などと内容に関連があり(*1)、(その時点での)コニイの集大成的な作品となっているようです。
舞台となるのは、五十二年に一度の災厄に襲われて衰退の危機に瀕している植民惑星アルカディア。もっとも本書では、その災厄自体は「プロローグ」でさらりと描かれているのみ(*2)で、ちょうどその最中に地球から移住してきた主人公ケヴィン・モンクリーフの視点を通じて、災厄からの復興を目指す社会の姿、そして巨大企業ヘザリントン機関による復興支援事業への住民たちの対応――どのような考えを持ち、どのように行動するか――を描くことに重点が置かれています。
復興支援とはいえ慈善事業ではないわけで、アルカディアを丸ごと“買い取る”ようなヘザリントン機関の提案に、そして実際に始まったその事業によって緩やかに進んでいく容赦ない“支配”に、主人公ケヴィンの住むコロニー住民たちは様々な反応を見せていきます。それを通じて、数多い登場人物たちの個性がそれぞれに際立っているのも見逃せないところですが、それ以上に、誰もが満足できる魔法のような解決策などないことが浮き彫りにされているのが印象的。
ヒロインとともに、造船技師として事業の一つ――アルカディアを宣伝するための、ヨットでの単独航海――に関わることになるケヴィンもまた、プロジェクトそのものの進捗に関する不満だけでなく、その背後に浮かび上がってくるヘザリントン機関の姿勢に不信を募らせていきます。しかし、ヘザリントン機関がやりすぎている部分があるのは確かですが、一概に“敵役”とは片付けられない部分があり、それを象徴するようなヒロインの“悪者はどこにいる”
(365頁)という問いが、何ともやりきれないものを残します。
『ハローサマー、グッドバイ』と同様、それまでだいぶ控えめになっていたSFの要素に光が当てられる終盤は圧巻。序盤からの伏線など(*3)もあり、結末のある程度の部分は予想できるものではありますが、あまりにも大きすぎる喪失の苦味はひとしおです。一見すると、アルカディアの住民にとっては一種のハッピーエンドのように映るところもあるのですが、その前途は決して明るいものとはいえないのではないでしょうか。完全に架空の世界の物語でありながら、現実に引き寄せて色々なことを考えさせられる、傑作です。
2012.04.28読了 [マイクル・コニイ]
儚い羊たちの祝宴
[紹介と感想]
名家のお嬢様たちが集う優雅な読書サークル〈バベルの会〉を共通の背景として、いずれも最後の一行に趣向を凝らした“奇妙な味”の強い五つのエピソードを並べた連作短編集です。
全篇を通じて古風な――“現代離れ”(*1)した上流階級が描かれ、読者の知る“現実”とはかけ離れた物語世界には、一種のファンタジーめいた雰囲気さえ漂います。その中にあって、立場は違えど若い女性たちが主役をつとめているところも含めて、作者の趣味/美意識が存分に発揮されている感があります。また、最後の一行の趣向にしても、そこで真相が明かされてすべてが反転する“最後の一撃”というよりも、物語の綺麗な幕引きを追求したものといえるでしょう。
一般的な世間とは“別世界”の中で、登場人物たちもしばしば極端なまでの独特の行動原理に従っており、それが“奇妙な味”に――ひいては特殊設定ミステリにも通じる面白さを生み出しています。そしてもちろん、時に美しくも残酷な真相と結末が実に魅力的。
個人的ベストは、「身内に不幸がありまして」か「玉野五十鈴の誉れ」。
- 「身内に不幸がありまして」
- 不行跡のため放逐された兄に代わり、丹山家の次期当主の座に据えられた吹子。幼い頃から吹子に付き従う女中・村里夕日は、いつしか吹子と秘密の書棚を共有するようになっていた。やがて、吹子が楽しみにする〈バベルの会〉の夏合宿が目前に迫ったある日、丹山家で凄惨な事件が……。
- 本書の中では、ミステリとして最もオーソドックスな作品。お嬢様を慕う女中の視点で綴られた印象的な物語の果てには、思わず唖然とさせられる真相が用意されていますが、それを支えるユニークな伏線がまた秀逸です。そして最後の一行による幕引きが、実に見事に決まっています。
- 「北の館の罪人」
- 母を亡くした内名あまりは遺言に従って六綱家を訪ね、使用人扱いで住み込むことになる。異母兄にして現当主の光次に命じられたのは、別館“北の館”に幽閉されている光次の兄・早太郎の世話だった。無為の日々を送っていた早太郎はやがて、あまりに奇妙な買い物を頼むようになり……。
- 名家の内側――そのいびつな姿が、物語が進むにつれてより強調されていくのが一つの見どころでしょうか。一見すると脈絡のない、何とも奇妙な買い物の真相は……と思っていると、急転直下の結末に足元をすくわれます。鮮やかなイメージを生み出すラストシーンが絶品です。
- 「山荘秘聞」
- 山間に建てられた辰野家の別荘〈飛鶏館〉。その管理人として雇われた屋島守子は、人里離れた館に独り住み込み、来客をもてなすために日々完璧な準備を整えていたが、案に相違してただ一人の客も訪れないまま一年が過ぎた。そんなある日、登山中に遭難した男を発見した守子は……。
- 本書の中でもとりわけ“奇妙な味”の強い一篇。風変わりな状況から不可解な謎、そしてひねりの加えられた展開もさることながら、読後に残る何ともいえない味わいがたまりません。
なお、この作品の最後の一行は文庫化に際して変更されています(*2)。結末が変わるわけではありませんが、比べてみるとやはり文庫版の方に軍配を上げたいところです。
- 「玉野五十鈴の誉れ」
- 小栗家の一人娘・純香は、新しい女中・玉野五十鈴との密かな親交を通じて、現当主である祖母の支配から少しずつ脱却し、ついには反対する祖母を説得して大学に進学し、五十鈴との二人暮しを勝ち取った。だが、ある日事態は一変してしまい、純香は幽閉の憂き目に。そして五十鈴は……。
- 主役二人の関係は「身内に不幸がありまして」の変奏曲ともいえますし、“幽閉”の立場も「北の館の罪人」を連想させるものですが、それをまったく違った物語に仕立ててあるのがお見事。そして何といっても、最後の一行に“これ”を持ってくるところが心憎いというか何というか。
- 「儚い羊たちの晩餐」
- 荒れ果てたサンルームに残されていた一冊の日記。そこに綴られていたのは――期限までに会費を払うことができず、〈バベルの会〉から除名されてしまった大寺鞠絵。わずかな金を出し渋った成金の父親はその一方で、自らの見栄のために最高の料理人だという“厨娘”を雇い入れたのだが……。
- 本書とは似て非なる題名の、書き下ろしのエピソード。これまでの作品とはやや違った“世界”の中で、〈バベルの会〉会員たる“資格”に言及されているのが印象深いところです。日記の書き出しやある“キーワード”などから、結末はある程度予想できますが、いわば婉曲的な表現のまま最後まで進んでいくあたりが、本書にふさわしいものに感じられます。
“登場人物の一人の本棚に一九五九年に訳書が出版されたエラリイ・クイーンの『十日間の不思議』が置かれているといった断片的な記述から推測するに、各短篇の時代設定は昭和の中期であろうか。”としていますが、個人的には時代設定はされていないような、“いつでもない”という印象を受けます。
*2: 他にも随所で文章に手を入れてありますが、最後の一行が変更されているのはこの作品のみです。
2012.04.29単行本読了
2012.06.15文庫版読了 [米澤穂信]
迷走パズル A Puzzle for Fools
[紹介]
演劇プロデューサーのピーター・ダルースは、妻を亡くしてアルコール依存症となり、治療のために療養所に入院していた。ようやく回復も近づいたある晩、ピーターは「今すぐ逃げろ。殺人が起こる」という自分の声を聞いてパニックに陥る。だが、その話を聞いた所長のレンツ博士は、少し前から療養所内で同じようなことが起きていると告げ、リハビリも兼ねての調査をピーターに依頼する。かくして探偵活動に乗り出したピーターだったが、やがて介護士が奇怪な状況で変死し、さらに入院患者の一人が殺害されてしまう。しかも、ピーターが恋に落ちた女性患者アイリスに容疑がかかり……。
[感想]
評判の高い『俳優パズル』(*1)などで知られる、演劇プロデューサーのピーター・ダルースを主役とした〈パズル・シリーズ〉。その第一作である本書は、『癲狂院殺人事件』の題名で別冊宝石93号(1959年)に掲載されたきり書籍化されていなかったのですが、このたび新訳での刊行となりました。というわけで、まだこのシリーズに触れたことのない方は、できるだけシリーズ全体についての予備知識(*2)を仕入れる前に、まずは本書からお読みになることをおすすめします。
まず目を引くのは精神病院(*3)という一風変わった舞台で、パニックや発作の際を除けば穏やかな、しかしいずれも調子の外れたところのある患者たちの存在が、一種独特の雰囲気をかもし出しています。しかしそれは決して陰鬱なわけではなく、どちらかといえば――同じく精神科を扱った泡坂妻夫『毒薬の輪舞』ほど陽性ではないにせよ――愉快に描かれている感があり、日常の現実から切り離された何とも不思議な空間(*4)となっているのが面白いと思います。
事件の発端となる、ピーターをはじめ患者たちに奇妙な警告を与える声にしても、些細なことにも影響を受けやすい患者たちが集まったこの舞台では、より効果的になっていると思います。また、ピーターが治療の一環として探偵活動に乗り出す(*5)というのもユニークですが、そのロールプレイング的な意味合いや、他の患者たちを動揺させないように配慮した特別な捜査手法のせいもあって、探偵活動そのものがそこはかとなくユーモラスな雰囲気を帯びているのも楽しいところです。
加えて、同じく患者として入院している美女アイリスとのロマンスも盛り込まれています。定番といえば定番ではありますが、本書にあってはロマンスがお互いに病からの回復を促す原動力となっていくのが見逃せないところでしょう。そして、殺人を唆す声を耳にしたアイリスが、やがて起きる第二の事件で窮地に立たされ、その容疑を晴らすためにピーターが焦りを抱えながら奮闘する展開は、(一応伏せ字)少なくともシリーズ既読者にとっては結果が明らかとはいえ(ここまで)なかなかスリリングです。
というのも、容疑者が限られている割に目星をつけにくくなっているところがあるからで、作者の巧みな手腕が光ります。実際、終盤の謎解きは圧巻というべきで、ハウダニットについては正直なところ脱力ものではあるものの、フーダニットについては面白い趣向が凝らされていることもあり、謎解きの最後の最後までまったく目が離せません。トリックを期待する向きにはおすすめしがたいところがありますが、全体としてはなかなかよくできた作品といっていいのではないでしょうか。
*2: 例えば、『悪女パズル』巻末の小池啓介氏による解説など。
*3: 作中にも、
“実際には療養所ではなかった。(中略)精神病院だ。”(10頁)とあります。
*4: このあたりについては「探偵小説三昧 パトリック・クェンティン『迷走パズル』(創元推理文庫)」の、
“これはクェンティン流『不思議の国のアリス』なのかなぁ”という指摘になるほどと思わされました。
*5: 「『迷走パズル』(パトリック・クェンティン/創元推理文庫) - 三軒茶屋 別館」の、
“「自らを信頼できるようになるまでの語り手」の物語”との指摘にうならされます。
2012.05.11読了 [パトリック・クェンティン]
【関連】 『俳優パズル』 『人形パズル』 『悪女パズル』 『悪魔パズル』 『巡礼者パズル』 『死への疾走』 『女郎蜘蛛』
探偵映画
[紹介]
映画監督・大柳登志蔵が製作する新作は、『探偵映画』と題された推理もの。犯人も結末も監督以外は誰も知らないまま、撮影は順調に進んでいったが、すでに予告編が流れ、結末部分を除いたラッシュも完成したその時、監督が謎の失踪を遂げてしまう。残されたスタッフたちは、懸命に監督の行方を探す一方で、撮影済みの“問題篇”をもとに監督が意図した結末を推理するが、いずれも決め手を欠き、ついには俳優陣も交えたシナリオコンテストが行われることに。製作期限も目前に迫る中、『探偵映画』の結末は一体どうなってしまうのか……?
[感想]
我孫子武丸がデビューの翌年に発表した初の非シリーズ長編(*1)で、題名そのままに『探偵映画』という名の探偵映画を扱ったミステリです。もっとも、その『探偵映画』の内容がいわば作中作としてそのまま挿入されているのは要所のみで、物語本篇が「クランク・イン」に始まり「クランク・アップ?」で終わることからもおわかりのように、映画の撮影・製作をめぐる騒動が本筋となっています。
プロローグにあたる「予告編」で、“みんな騙してやる”
と独りつぶやく大柳監督の姿もエキセントリックですが、撮影に入ってからもそのワンマンぶりがしっかりと描かれており、誰にも結末を知らせないという常軌を逸した行動にも納得。それに対して、結末が気になる俳優陣やスタッフはミステリ談義を始め、ついには映画の叙述トリックに関する議論が展開されているのが見どころで、後に「叙述トリック試論」(*2)を発表した作者らしく実に興味深いものになっています。
ちなみに作中では、叙述トリック(あるいはそれに類するトリック)が使われた映画として具体的な作品名がいくつか挙げられているのですが……小説の場合は“叙述トリックが使われている”と明示するのは原則として致命的なネタバレだと思いますが、改めて考えてみると映画(映像)の場合は少々事情が異なるように思われます。
それは、小説と映像という叙述の形態の違いによるものであり、さらにいえば情報の質と量の違いによるものではないかと考えられます。つまり、基本的に一連の文章のみで表現され、なおかつ記された一つ一つの語句は(映像に比べると相対的に)紛れが少ない(*3)小説の場合は叙述トリックの所在が露見しやすいのに対して、もともとの情報量が多くしかもそれぞれに解釈の余地がある映像の場合には、“叙述トリック”といわれただけではそれがどこに仕掛けられているのか露見しにくいのではないかと思われます。
さて、撮影も順調に進んで結末直前までの部分が完成したところで、突如大柳監督が失踪してしまい、残された一同はうろたえながらも(*4)映画の“結末探し”に追われることになりますが、閉ざされた館で起きた自室の窓からの墜死事件という『探偵映画』の“問題篇”の内容は、意外にシンプルなだけに取っかかりも少ない反面、様々な仮説をある程度自在に構築する余地がある――というわけで、物語はアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』などでおなじみの“多重解決”に突入することになります。
しかし本書では、“多重解決”に例を見ない必然性が備わっている(というのはいささか大げさかもしれませんが)のが面白いところ。というのも、スタッフたちはさておき俳優陣にとっては、犯人役は自分を大いにアピールできる“おいしい”役どころであるわけで、結末がわからないのをいいことに、それぞれが何とかして自分を犯人役に仕立てようとするのも自然といえるでしょう。とはいえ彼らが、時に無茶なトリックまでひねり出して利己的な“自白”合戦を展開する有様には、さすがに苦笑を禁じ得ません。
その後も紆余曲折を経てついに完成した『探偵映画』の結末は、非常に巧妙で鮮やかなもので、作者の周到な企みに思わずうならされます。フィクションの中の事件が扱われているということもあるかもしれませんが、後味のいい物語の結末もお見事。映画好きな方であればより深く味わえる部分もあるのかもしれませんが、そうでなくとも十分に楽しめる実に愉快な傑作です。
2012.05.16再読了