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水車館の殺人/綾辻行人

1988年発表 講談社ノベルス(講談社)/(講談社文庫 あ52-19(講談社))

 本書のトリックの中心となっているのは、“古川恒仁―正木慎吾”及び“正木慎吾―藤沼紀一”という二重の入れ替わりです。さらにいえば、紀一の代わりに正木が〈水車館〉の主人となり、正木の代わりに古川が死体となり、古川の代わりに紀一が“不可解な状況で忽然と姿を消したあの男”(ノベルス262頁/〈新装改訂版〉408頁)の役どころに収まるという具合に、三人の人物による役割の“スライド”が成立しているととらえることもできるでしょう。

 実際のところ、“古川―正木”の入れ替わりは、切断した左手薬指のすり替えという工夫が施されているものの、古典的な“顔のない死体”トリックなので見えやすくなっています。また“正木―紀一”についても、二人一役の叙述トリック(→拙文「叙述トリック分類#[A-1-2]二人一役」を参照)――三人称で記述された「過去」の章では“仮面の主人”が藤沼紀一であることを地の文で明示しつつ、「現在」の章は(地の文で視点人物自身の名前を伏せた)“私”の一人称で記述し、両者の重ね合わせにより“私”と藤沼紀一が同一人物だと誤認させるトリック*1――が仕掛けられているとはいえ、ゴムの仮面という小道具が露骨に入れ替わりを匂わせています。しかし、それらの真相を(ある程度)論理的に導き出すのは少々難しくなっているように思います。

 まず“古川―正木”については、密室状況からの“消失”トリックの解明が手がかりとなるのが面白いところ。“中村青司の館”ならではの“秘密の通路”の可能性を排除する“あらため”の後、“回転式の窓の両側に十数センチ開いた隙間”(ノベルス182頁/〈新装改訂版〉279頁)が部屋から外部に出入り可能な唯一の経路だと明示されることで、島田潔が作中で指摘しているように“生きた一人の人間”という先入観にとらわれさえしなければ、“消失”トリックは解明可能。そして、古川がバラバラ死体となって部屋から“脱出”し、かつ正木にのみその犯行が可能だったことまでを明らかにしてようやく、“古川―正木”の入れ替わりを裏づけることができるようになっています。

 一方の“正木―紀一”についてはまず、「現在」の“私”が色覚異常を抱えていること――“描かれた絵の価値を見定める力は誰にも引けを取らない。そう自負していた”(〈新装改訂版〉51頁〜52頁;ノベルスでは39頁*2という紀一とは別人であること――を示唆する手がかり(ただし後述するようにありがちな誤解を含む)が随所に配されており、特に島田が“緑色”(ノベルス121頁/〈新装改訂版〉182頁)と説明している脅迫状の便箋を、“私”が“薄灰色(ノベルス70頁/〈新装改訂版〉100頁)だと認識している点は決定的です*3。正木が色覚異常であったことまでは明示されていませんが、“とても絵描きを続けられないようなダメージ”(〈新装改訂版〉155頁;ノベルスでは104頁)――しかも見た目にはどこも悪くない――という言葉から、目に関する何らかの障害を抱えていることは予測可能でしょう。

 “正木―紀一”ではもう一つ、“私”の左手薬指の欠損を示唆する手がかりも用意されています。殺害された三田村則之によるダイイングメッセージもさることながら、“パイプやグラスを左手に持つ時、こう、外側の二本の指をお立てになる。”(ノベルス171頁/〈新装改訂版〉262頁)と島田が指摘する“藤沼紀一”の“癖”は、薬指の欠損をかなり露骨に示唆するものですが、しかし島田が列挙する各人の癖に紛れ込ませてあるのがうまいところです。

 そもそも、三田村殺しの動機が読者に対して(のみ)あからさまに示されているあたり、作者は“藤沼紀一”が犯人であることを厳重に隠そうとはしていない節がありますし、足が不自由な人物には犯行が不可能なのは明らかですから、読者が“入れ替わり”に思い至るのも想定の範囲内ではないかと思われます。そう考えるとやはり、本書ではサプライズがあまり重視されていないといえるのではないでしょうか。

 事件の謎がすべて解明された後、ついに姿を現す藤沼一成の遺作『幻影群像』――そこに描き出された“運命”に、犯人さえも知らずにとらわれていたことを示す結末は、やはり何ともいえません。

* * *

 ところで、正木慎吾が自動車事故によって受けたとされる後遺症について、初出の講談社ノベルス(初版)と講談社文庫〈新装改訂版〉とを比較してみると、以下のように大幅な(?)加筆訂正が施されています(太字の箇所には原文で傍点が振られています)。

 講談社ノベルス講談社文庫〈新装改訂版〉
「第十四章」
島田の台詞
「十二――いや、もう十三年前になりますか、藤沼紀一氏が運転していた車の事故で、あなたはフィアンセを失い、紀一氏自身は顔と手足に傷を負った。そして、奇跡的に大きな外傷を免れたあなたは、けれども、画家にとって致命的な後遺症を受けてしまったんでしょう? ――色覚異常、つまり後天的な赤緑色盲……」
 (244頁)
「十二年……いえ、もう十三年前になりますか。藤沼紀一氏が運転していた車の事故で、あなたはフィアンセを失い、紀一氏自身は顔と手足に重傷を負った。あなたは奇跡的に大きな外傷を免れた。ところが正木さん、その事故によってあなたの身体には、ある深刻な後遺症が残ってしまったんですね。画家として大いに将来を期待されていたあなたが、事故のあと筆を折ったのもそのせいだった。
 三田村先生は知っておられましたね。彼に探りを入れて確かめたんですよ。非常に稀な症例だけれども、事故の際の頭部強打が原因で、あなたは正常な色覚を失ってしまったのだと。後天的な強度の色覚異常それも赤緑系の色盲に相似した。ねえ正木さん、そうなんでしょう?」
 (379頁〜380頁)
「同」
正木の独白
 ――そうだ。私の目は、あの時から正常な色覚を失ってしまった。それは正に、画家としての私の未来を奪う、致命的なダメージだった。赤と緑が灰色に見えてしまう両者の区別がつかない……。
 (245頁)
 そうだ。あの事故のせいで、私のこの目は「とても絵描きを続けられないようなダメージ」を受けた。それまで見えていた“色”を奪われてしまったのだ。
 赤緑色盲と云えば普通、先天性・遺伝性の知覚障害だが、先天的であるがゆえに、区別のしづらい赤も緑もそれなりの色として認識され、検査によって指摘されるまでは違和感を覚えることも少ないのだという。だが、私の場合はまた事情が違った。
 事故以前の目には、まぎれもなく赤や緑として見えていた色が、どうしてもそうは見えない。“赤み”と“緑み”を失った、どちらもよく似たような色にしか。――私の主観においては、それらを覆うイメージはのっぺりとした“灰色”だった。
 (380頁)

 これは“赤緑色盲”という語句のイメージに引きずられた誤解といえるかもしれませんが、いわゆる赤緑色盲はあくまでも“赤”と“緑”を識別できない状態であって、“赤”と“緑”がどちらも灰色に見える――認識できない――というものではありません。色覚の原理からみて、“赤”と“緑”の両方が灰色に見える――灰色と区別できないのであれば、赤緑色盲どころではなく全色盲に近い状態となっている蓋然性が高いと考えられます。
 実際にそのような指摘があったのかもしれませんが、〈新装改訂版〉では症状の説明がややぼかした表現に改められています。発症前との比較によるイメージとはいえ、“灰色”と表現されているのはやはり少々気になるところではありますが、読者への手がかりに必要とされる“適度な目立たなさ/理解しやすさ”を考えれば、このくらいが妥当なところかもしれません。

 なお、“三田村先生は知っておられましたね。彼に探りを入れて確かめたんですよ。(中略)あなたは正常な色覚を失ってしまったのだと。”(〈新装改訂版〉380頁)の部分が加筆されたのは、読者ならぬ島田には正木視点の描写の中での手がかりを得るのは不可能で、ノベルス版では“藤沼紀一”が色覚異常だと結論づける根拠が欠けていた――脅迫状がドアの下に差し込まれたタイミングは決定できず、“藤沼紀一”がそれを見落としたとは断定できない――ためで、多少なりとも*4それを補うべく、正木が色覚異常だという情報を別途入手していたとされているのです。

 それはさておき、加筆訂正された結果としての正木の症状(についての設定)を受け入れたとしても、依然として色覚異常に関する誤解(もしくは認識不足)に基づく不都合な記述が見受けられる――正常な色覚の持ち主にはなかなかわかりにくいかもしれませんが*5――のが、少々残念なところではあります。
 まず一つは、影響の及ぶ範囲についての誤解によるもの。色覚異常の影響はいわゆる“赤色”と“緑色”にのみ限定されるものではなく、程度の差こそあれ、“赤”や“緑”を含む広範囲の色に及びます。本書でいえば、「第一章 現在」の冒頭にある赤銅色のノブ。暗褐色のマホガニーの鏡板。”(ノベルス20頁/〈新装改訂版〉23頁)などは、赤が“灰色”に見える正木の視点ではどちらも“灰色”系統に近いイメージとなるはずで、厳密にいえば真相と矛盾する、アンフェア気味な記述となっています。
 そしてもう一つは、識別する能力に関する誤解によるもの。一口に“灰色”といっても、白と黒の間で様々な明暗があることからもわかるように、正木のような色覚異常であってもあらゆる“赤”と“緑”が一様に見えるわけではありません。つまり、明暗の感知には色覚異常の影響が及ばない――個人的な感覚によればむしろ相対的に敏感になる――ことから、“赤”と“緑”を明度差によって識別することは決して不可能ではないわけで、本書における“くすんだ緋色”(ノベルス245頁/〈新装改訂版〉381頁)――正木の視点では“灰色”の絨毯の上にある灰色”(ノベルス70頁/〈新装改訂版〉100頁)の便箋を、正木が見落としてしまう可能性は低いと考えられます。

*1: 正木視点での“現在のこの私――藤沼紀一の”(ノベルス20頁/〈新装改訂版〉24頁)という表現はかなり微妙な気もしますが、現在の“私”が“藤沼紀一”を名乗っていることは確かですから、アンフェアとまではいえないように思います。
*2: 以下、改訂されている箇所を引用する場合には〈新装改訂版〉を優先し、このように表記しておきます。ちなみに、ノベルス版ではこの箇所は“描かれた作品を見る目は確かだと信じていた紀一”(ノベルス39頁)となっています。
*3: とはいえ、その後の――つまり便箋が緑色であることを島田に知らされた後の、“その便箋の薄い緑色を心に思い浮かべながら”(〈新装改訂版〉188頁;ノベルスでは125頁)というミスディレクションはなかなか巧妙です。
*4: 実際には、これは島田にとっては“正木―紀一”の入れ替わりを解き明かす手がかりとはなり得ないわけで、ただ“私”が色覚異常であることを読者に対して解説するためのものでしかありません。
*5: 実をいうと、私自身も日常生活には支障がない軽度――彩度が低く明度差が小さい赤系統と緑系統を区別するのが困難な程度――の先天赤緑色覚異常です。

2010.06.20再読了

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