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人形館の殺人/綾辻行人

1989年発表 講談社ノベルス(講談社)

 本書の語り手をつとめている飛龍想一は、かなり早い段階から“信頼できない語り手”の気配を漂わせていますし、「――1」と表示されたパートの表現や“嫌がらせ”の自作自演っぽさなどから、多くの前例もある*1多重人格による被害者=犯人”という構図に思い至ることは難しくないでしょう。

 そして事件の真相は結局そこに落ち着いてしまうわけですから、面白味を欠いているという印象を与えてしまうのも致し方ないところかもしれません。しかしながら、その“多重人格による被害者=犯人”という真相の周辺に配された他の要素によって(真相を隠すまでには至らないとしても)複雑化したプロットが、本書の見どころといえるのではないでしょうか。

 まず、多重人格による記憶の欠落とは別に想一が抱える、封印された過去の忌まわしい記憶の問題。“犯人”が想一を狙う動機となっているのはもちろんですが、やはり関連した二つの事件の記憶が複合した形になっているのが面白いところです。そして、列車の転覆事故は〈人形館〉に遺されたマネキン人形の秘密を経て、事故の犠牲者遺族――〈人形館〉の住人たちが犯人というダミーの真相へ、一方の少年殺しについては“マサシゲくん”という名前が持ち出されることで架場久茂が犯人という最終的なダミーの真相へと、それぞれつなげてあるのが巧妙です。

 また、“飛龍想一が犯人”という読者の“読み”を多少なりとも揺るがすのが、〈人形館〉の近所で起きる連続通り魔殺人の真相――別の犯人(辻井雪人)が用意されている点でしょう。その辻井は結局、“もう一人の飛龍想一”として殺害されてしまうわけですが、それが“人形館の殺人”の被害者としてうまく“再利用”されている感もあります。

 そしてもちろん、事件の真相以上の衝撃となっているのが、“〈館シリーズ〉の一冊であること”を利用した仕掛けです*2。あくまでも想一の側に立って真相解明への助言を与える《島田潔》の姿勢には、少々怪しげなところも見え隠れしてはいますが、しかしその存在が事件の真相に関する“不確定要素”として終盤まで読者の前に立ちはだかってくるのは間違いないでしょう。さらに、〈人形館〉――飛龍屋敷が中村青司の手によるものだという“幻想”が、辻井殺しの際の密室状況に対する“逃げ道”となっているのが非常に面白いところ。ご承知のように、このシリーズでは一貫して中村青司の“からくり趣味”――秘密の通路が前面に出されているのですが、本書では“秘密の通路の存在を前提として扱いながら、それが存在しないことをサプライズにする”という、シリーズの“お約束”を逆手に取った逆説的な仕掛けが秀逸です。

 実のところ、初読時にはさすがに“反則”ではないかという印象を抱いたのは確かですが(苦笑)「プロローグ」の島田潔からの手紙によって二人が友人であることを明示し、また想一が実際に島田の実家に一度電話をかけた(ノベルス155頁〜156頁)ことで、《島田潔》の存在が補強されているのがうまいところですし、作家・辻井雪人*3が『人形館の殺人』という題名(ノベルス31頁)や〈人形館〉が中村青司の作品ではないかという仮説(ノベルス80頁)を持ち出すという形で想一を――ひいては読者をミスリードし、《島田潔》が“確かにね、そういう話を聞いたことがある”(ノベルス版173頁)と“保証”するあたりは実に周到。そして架場が最後に指摘している、アトリエの電話が母屋の電話と親子電話になっている(ノベルス109頁〜110頁)という手がかり*4、あるいは「エピローグ」で言及されているように島田が想一の連絡先を知り得なかったことなどを踏まえれば、真相を見抜くことも不可能ではありません。

 そして、あくまでも“多重人格による被害者=犯人”というネタを軸として考えれば、“被害者=犯人=探偵”の一人三役であることをはじめ、前例よりもはるかに凝った仕掛けになっているのは間違いありませんし、〈館シリーズ〉の“お約束”による幻想を完膚なきまでに打ち砕く、読者に対する容赦のなさには脱帽せざるを得ないところがあります。

 結末(「第十章 二月」のラスト)では、架場久茂を犯人とした《島田潔》の推理が、少なくとも一部は正鵠を射ていた可能性が示唆されています。現場の密室状況からみて、架場が辻井雪人を殺害した可能性はまずないと考えられるので、“……もう一人のあの男も、殺した”(ノベルス238頁)という、「――1」と表示されたパートの語り手は架場ではあり得ないのですが、そこにもう一つの悪意の存在を匂わせる結末は、実に印象的です。

*1: と書いてはみたものの、この“多重人格による被害者=犯人”の(おそらく)原型がR.L.スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』という超有名な古典なのはいいとしても、(本格)ミステリのジャンルに限れば1950年代に発表された某海外作品((作家名)H.マクロイ(ここまで)(作品名)『殺す者と殺される者』(ここまで))が思い浮かぶくらいで、なかなか前例が思い出せません。フェア/アンフェアの問題になりそうなネタであることから、ミステリ以外のジャンル/メディアの方に多く前例がありそうにも思われます(思い浮かんだのは、寺沢武一の漫画『コブラ』の一エピソード)。
*2: 作中でことさらに十角館や水車館に言及され、[作者註]でシリーズの他の作品が紹介されているのも、本書が〈館シリーズ〉の一冊であることを強調する狙いによるものかと思われます。そして、一箇所だけ島田荘司『占星術殺人事件』が紹介されているのは、“迷彩”なのかもしれません。
*3: このペンネームが明らかに“綾辻行人”のもじりであることも、一種のメタフィクション的な要素として、〈人形館〉の幻想に信憑性を持たせるのに一役買っているといえるかもしれません。
*4: この場面で電話をかけてきた架場には、当然ながら親子電話であることが把握できたはずなので、ラストの指摘もおかしくはありません。

2010.06.25再読了

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