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暗黒館の殺人(上下)/綾辻行人

2004年発表 講談社ノベルス(講談社)

 まず、浦登一族が抱える秘密については、“浦登うらど”という名字が吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュ(→ Wikipedia)の名に類似していることなどから、少なくともその方向性はかなり見えやすくなっています。また〈ダリアの夜〉に供される“肉”の正体も、おぞましいのは確かながら、想定の範囲内といったところでしょう。

 しかし、これも吸血鬼伝説からの単なる借用かと思われた“鏡に映らない”という設定が、予想外に効果的に使われているのに脱帽。一族の姿を“映してしまう”鏡を〈暗黒館〉から排除する一方で、不死を擬似体験するための“姿を映さない姿見”を用意するという、屈折した心理をうかがわせる行為にも何ともいえないものがありますが、さらに不死性の獲得を確認するために鏡がなければならないとする“中也”の推理が実に見事です。

 そして、よりによって藤沼一成の絵に隠されていたそれ――〈ダリアの鏡〉が、18年前の玄遙“殺し”を不可解な謎に仕立てるトリックとして機能した――目撃者である玄児*1鏡の存在を知らず認識できなかったがゆえに――というのが、非常によくできていると思います。

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 本書の中で最も大がかりな仕掛けは、〈暗黒館〉の“現在”が江南孝明の“現在”とずれていることを隠蔽する叙述トリック(→拙文「叙述トリック分類#[B-1-2]日時の関係の誤認」の[表7-A]を参照)でしょう。この叙述トリック――江南孝明の“現在”(1991年)と〈暗黒館〉の“現在”(1958年)との混同を成立させるにあたって、物語の重要な要素となっている地震を引き起こした火山の噴火――雲仙普賢岳(1991年)と阿蘇山中岳(1958年)――を重ね合わせてあるのが非常に秀逸。またそのために、〈暗黒館〉の所在からしてよく考えられている*2のも見逃せないところです。

 もちろん火山の噴火以外にも、「間奏曲 六」で江南孝明の“意識”が“まるで僕を欺くためにわざわざ仕掛けられたかのような。”と慨嘆している、奇妙な一致類似(いずれも下巻499頁)――とりわけ記憶を失った江南青年(忠教)と江南孝明とを重ね合わせるあざとい仕掛けが幾重にも張りめぐらされています。その(ほぼ)すべてが偶然の一致/暗合としか受け取りようがないのはいかがなものかとも思いますが、これはこれで作者らしいと考えることもできるのではないでしょうか。

 もっとも、二つの“現在”のずれは、作中に配された多くの手がかりによってかなりあからさまに――特に1991年当時の記憶のある、一定以上の年齢の読者(苦笑)にとっては――示されています。私の場合は、台風によって“大分沖で貨物船が沈んだ”(上巻214頁)“昨年度の流感は全世界的に猛威をふるい、日本でも人口の半数が罹患した”(上巻334頁)“ソ連の平和共存路線と中ソ対立の深刻化”(上巻348頁)といったあたりで、比較的早く“過去の物語”であることに気づきました。

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 〈暗黒館〉の“現在”で起きた殺人事件では、“抜け穴の問題”がなかなかよくできています。このシリーズでは定番となっている“秘密の抜け穴”、毎回その扱いが工夫されているところに感心させられるのですが、本書では“犯人が〈南館〉の物置の隠し扉を使い、〈北館〉の暖炉の抜け穴を使わなかった*3という事実を示し、それを犯人特定の手がかりとしてあるのが非常に面白いところです。

 前者から、“犯人は物置の隠し扉を知っていた”、すなわち浦登家の家人であることは確定しますが、後者をめぐって“中也”の推理が二転三転――しかも、“抜け穴を使えなかった”美鳥と美魚/柳士郎という比較的穏当な(?)推理もさることながら、完全な盲点から“隠し扉を知りながら抜け穴を知らなかった”という条件に当てはまる人物(〈惑いの檻〉でさまよう玄遙)を持ち出してくるトンデモ(?)推理のインパクトが強烈です。

 実のところ、〈暗黒館〉の“現在”を1991年と見せかける前述のトリックが露見してしまえば、“記憶を失った江南青年を、江南孝明だと思わせることで疑惑の外に置く”という作者の狙い、つまりは江南青年が犯人だという真相まで、一気に見えてしまうのは否めません。が、そこで“抜け穴の問題”――とりわけ“犯人は物置の隠し扉を知っていた”という条件が障害となり、“忠教”という人物の存在が目立たないことも相まって、江南青年の正体にまで思い至ることはなかなか困難ではないでしょうか。

 一見すると意味不明な殺人の動機は、単なる“安楽死”にとどまらない、〈暗黒館〉の住人にのみ通用するロジックによるもので、〈暗黒館〉に外部とは隔絶した“異世界”という意味合いを与えているところが非常によくできています。というよりもむしろ、この“異世界ロジック”に説得力を備えさせるために、“浦登一族の物語”に相当な分量が費やされているわけで、本書が大作となったことにもそれなりの必然性があったといわざるを得ないでしょう。

 〈ダリアの祝福〉が〈呪い〉に反転する構図も見事ですが、それを原因とする“忠教”と静の苦しみが、やはり病で苦しむ母の姿を目にした江南孝明の“フィルター”を通すことで増幅されて伝わってくるのが印象的です。

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 〈暗黒館〉の物語が“過去”の出来事だと判明することによってもう一つ、“中也”の正体が中村青司であることも、比較的早い段階で予想可能でしょう。もちろん、“江南青年=江南孝明”というミスリードと同様、“中村(浦登)征順=中村青司”と読者をミスリードする(これまたあざとい)仕掛けも用意されています*4が、(過去において)建築学科の学生であり、本書では主役をつとめる人物であることを考えれば、中村青司以外には考えにくいと思います。

↓以下、『十角館の殺人』の内容に言及していますので、そちらを未読の方はご注意下さい。

 『十角館の殺人』で、中村青司は自殺する直前に弟・紅次郎と電話で話していますが、
講談社ノベルス初版では“兄は完全に狂っていた。私が何を云うのも聞かず、地獄で待っているぞ、と叫んでね、電話を切ってしまったよ。”(講談社ノベルス185頁)という程度だったのが、
講談社文庫〈新装改訂版〉では“完全に狂っている、としか思えなかった。私が何を云っても耳を貸さず、自分たちはいよいよ新たな段階を目指すだの、大いなる闇の祝福がどうだのこうだの、送ったプレゼントは大切に扱えだの、わけの分らないことをひとしきりまくしたててね、一方的に電話を切ってしまった。”(〈新装改訂版〉296頁)と改められています。
 これはもちろん、本書で〈ダリアの祝福〉を受けた“中也”=中村青司が“浦登一族の妄執”にとらわれていたことを表していますが、ここで“自分たちという表現を使い、さらに紅次郎に送りつけた“アレ”をプレゼントと称しているところをみると、何ともうすら寒いものを感じずにはいられません。

↑ここまで

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 本書では、(一応)シリーズ探偵である鹿谷門実による謎解きがみられない――どころか、“暗黒館の殺人”を“体験”したのは“視点”となっていた江南孝明だけであり、ある種の“夢オチ”と受け取る向きもあるかもしれません。しかし、事件の謎は江南孝明の“視点”としての体験の中だけで完結――合理的に解決されており、ミステリとしては批判されるべきものではないのではないでしょうか。

*1: もちろん、作中で“中也”に事件の経緯を語っている“玄児”のみならず、実際に目撃者となった玄児も後に鏡を知ったはずですが、火事で事件の記憶を失ったために“犯人”の顔を思い出すことはできず、それが鏡だったことに思い至るのは不可能です。
*2: “暗黒館が建つ熊本県Y**郡のこの山中から、直線距離にして、雲仙普賢岳まではおよそ五十五キロメートル、阿蘇山中岳まではおよそ五十キロメートル……。”(下巻504頁)ということで、二つの火山までの距離がうまく設定されています。
 ちなみに、“一度中岳の火口まで行ったことがあるが、あの山は凄いよねえ。本気で大噴火したら、きっと九州全域が火山灰で埋まっちまうんだろうな”(上巻98頁)という“玄児”の台詞の中で、単に“噴火したら”ではなく“本気で大噴火したら”という表現が使われているのは、“(本気でない)噴火が起きている”ことを暗示しているといえるかもしれません。
*3: 隠し扉を封じた紙が破れていたことによって、隠し扉が使われたことが確実になっているのはうまいところですし、さらに物置の電球が切れていたことから、“犯人が偶然発見した”といった可能性が排除されているのも巧妙です。
*4: 例えば、〈暗黒館〉の改築に関わった“中村という男”“もう死んでしまった”(いずれも上巻218頁)とされているのは、比喩的な表現にしてもやりすぎの感はありますが、それを口にしたのが当の(中村)征順なので受け入れざるを得ないところはあります。

2010.06.09 / 06.13読了

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