僧正の積木唄/山田正紀
まず、S.S.ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』関連について(未読の方はご注意下さい;一部伏せ字)。
本書でも指摘されているように、『僧正殺人事件』には大きな弱点があります。真犯人とされた人物(ディラード教授)に関する証拠がないこと、そしてパーディーの死んだ事件が明らかに浮いていることです。特に後者については、“犯人”の最終的な動機がアーネッソンに罪を着せることだったとすれば、パーディーの自殺に見せかける意味がまったくないだけでなく、逆に殺人だということを積極的に示しておかなければならないことは明らかですから、致命的な弱点といえるかもしれません。
これに対して本書では、アーネッソンが“僧正”だったということになっています。これ自体は『僧正殺人事件』でダミーの真相として示されているもので、妥当ではあるものの面白みはありません。しかし、この“真相”が「僧正殺人事件2」の原因となっているところはよくできているといえるのではないでしょうか。
なお、本書ではアーネッソンがパーディーを騙して(?)自殺させたことになっているようですが、このあたりはあまりはっきりと書かれていないため、消化不良気味に感じられます。一応、ルークがビショップに変わるという“カードの城”というネタが示されていますが、これだけでパーディーが自殺に追い込まれるとは考えにくいものがあります。というわけで、『僧正殺人事件』についてさらに別の解釈をしてみます(証拠はありません)。
前記のように『僧正殺人事件』の中でパーディーの死は浮いていますが、最初の事件(ロビン殺し)も別の意味で特別です。なぜなら、ロビンを殺してその罪をスパーリングにかぶせることで、ベルにかかわる恋敵を排除するという現実的な動機が考えられるからです。この線に沿ってみると、少なくとも最初の事件についてはパーディーが犯人だったということもあり得るのではないでしょうか。これに対して、スプリッグやドラッカーについては明確な動機が考えられません。つまり、パーディーが初代の“僧正”で、アーネッソンが最初の事件を模倣してスプリッグやドラッカーを殺していったとも考えられるのではないでしょうか。“僧正”名義で犯行が重ねられることで、パーディーは犯してもいない余罪が増えていくことに怯えていたかもしれません。そのような時にアーネッソンが、パーディーが“僧正”だということを“カードの城”でほのめかしたとしたら、ショックで自殺してしまうことも十分に考えられます。
一方のアーネッソンは、歪んだ動機の殺人に一旦は満足し、パーディーに罪を着せて事件を終結させようとしたものの、真相を見抜いたディラード教授に罪を着せるために新たな事件を起こさざるを得なかった、とも考えられます。
このような真相ならばパーディーの事件にもある程度説明がつきそうですし、“僧正”の名における殺人がパーディー→アーネッソン→青野宋月(比奈惟貴;彼も“僧正”名義の紙片を用意していたことが示されています)→リナ・ターナと引き継がれていった、というのも面白いと思うのですが……。
本書の細かいネタについて少しだけ。
封筒の染みと梵字は唐突に持ち出されているのが残念ですが、前者は裁判の展開を逆転させる切り札として有効に機能していますし、後者に関するロジックは鮮やかです。また、“なぜ新しい封筒を使わなかったのか?”という謎も秀逸ですし、ガスマスクという小道具やアインシュタインの数式の意味も印象的です。
そして、これらのネタによって浮き彫りにされる、新世代の殺戮兵器と旧世代の殺戮兵器の対決、いわば毒をもって毒を制すという構図によって、比奈惟貴の絶望的な心境が鮮やかに描き出されています。しかし、その比奈惟貴が絶望の中で放った最後の一手をも、山田正紀は金田一耕助の口を借りて“どんなに鳩を放っても、祈りを捧げても、この地上に愛と安らぎが訪{おとの}うことはない。平和が満ちることはない。多分、永遠に。”
(393頁)とばっさり切り捨てています。
その根拠は、リナ・ターナのあまりにも皮肉な動機にも表れています。ほぼ全編を通じて迫害に苦しむ姿が描かれてきた日系人自身が、迫害者へとたやすく立場を変えてしまう不条理は、金田一耕助の最後の独白を肯定するかのようです。もちろん、比奈惟貴のようにそれでもなお理想を追求するのが人間のもう一つの姿ではあるのですが。
なお、殺人の計画を実行に移す前に計画者(比奈惟貴)が命を落としてしまい、その遺言に従って別の人物(青野宋月)が計画を引き継ぐという事件の構図が、横溝正史の代表作(以下伏せ字)『獄門島』(ここまで)の本歌取りであるのは間違いないでしょう。
2002.08.29読了