心臓と左手/石持浅海
- 「貧者の軍隊」
密室を構成するトリックはいかにも即席といった感じですが、ある意味では〈貧者の軍隊〉にふさわしいといえるのかもしれません。
現場を密室状況にすることが、自殺に見せかけて容疑を免れるという目的を達成するための手段として有効なのは確かでしょう。しかし、その犯人の目論見を打ち砕いてしまう、“賃貸マンションで自然な密室ができること自体がおかしい”
(32頁)という着眼点が非常に秀逸です。- 「心臓と左手」
新興宗教とカニバリズムが結びついた、異様な動機に基づく猟奇的な事件だったはずが、何とも即物的なものへと変貌してしまうのが見事です。左手が切断された理由は、生体認証システムの話を聞いた時に誰しも一度は考えたことではないかと思いますし、作中でもご丁寧に生体認証の話が出ている(45頁)のですが、センセーショナルな事件の表層が強力なミスディレクションとなっているところが巧妙です。
- 「罠の名前」
事件に関わった警察としては、“犯人vs警察”という構図でとらえるのはごく自然なことだといえるでしょう。それに対して、犯人である芳賀としては警察などまったく眼中になかったという、人を喰った真相”が印象的。また、罠の仕掛け方を手がかりに芳賀の心理を再現していく“座間味くん”の推理もよくできていると思います。
ということで、この作品のポイントが“誰に対して罠が仕掛けられたのか?”であるのは明らかなのですが、そうすると「罠の名前」という題名がポイントとずれているように思われ、意味ありげに感じられます。アイヨシさんもこの点に関して
“本作で仕掛けられている罠は専門的に何というのでしょうか?”
(「『心臓と左手 座間味くんの推理』(石持浅海/カッパ・ノベルス) - 三軒茶屋 別館」より)と言及していらっしゃいますが、これは大いに気になるところです。ただ、例えば“ネズミ捕り”や“ゴキブリホイホイ(登録商標)”といった意味での、つまり形式ではなく捕獲対象に基づく“名前”を意味していると考えれば、作品の内容とも合致するといえるかもしれません。
- 「水際で防ぐ」
現場に生きたアトラスカブトムシがいたという事実が推理の端緒となるのも面白いと思いますが、(1)遠藤が児玉に見せに行った/(2)児玉が遠藤の部屋から持ち出した、というどちらの仮説も心理的に否定されてしまうところがユニークです。そこから、「守る会」の資金源に着目し、その“もう一つの姿”を明らかにすることで結果的に遠藤の人物像も反転させ、アトラスカブトムシについての合理的な解釈が成立する余地を作り出す、という推理のプロセスがよくできていると思います。
“座間味くん”の推理はしかしそれにとどまらず、「守る会」の正体がさらにもう一度反転する可能性を示し、フランク・R・ストックトン「女か虎か」(→早川書房編集部・編『天外消失』などに収録)を彷彿とさせる、
“彼らが大切にしていたのが、動植物だったのか、それとも人間だったのか”
(149頁)という台詞で締めています。このリドルストーリー風の結末は鮮やかではあるのですが、「守る会」の活動が不法入国者を故郷へ帰すものだったとすると、「守る会」の資金源とアトラスカブトムシの存在に関して説明がつきにくくなってしまうように思います。- 「地下のビール工場」
“未然に防がれた不正輸出”という表層の奥に隠された“真相”の重大さが何ともいえません。また、数年前に“終わった”事件であるところもポイントで、“真相”を聞かされた大迫警視としては当時を振り返って肝を冷やすことしかできないために、衝撃がより大きなものになっているといえるのではないでしょうか。
- 「沖縄心中」
このあたりになってくると、連作短編集としての統一性が裏目に出ている感もあります。というのは、“平和的な反戦団体”なるものが仮の姿であることが容易に想像できてしまうからで、この作品単独ならいざ知らず、本書の中にあっては効果も半減といわざるを得ません。
それにしても、
“沖縄には沖縄の、東京には東京の苦労があります。”
(221頁)という“座間味くん”の台詞には、思わぬ(?)バランス感覚がうかがえて少々意外でした。- 「再会」
聖子の父の事件後の様子をもとに、“強い人間”→“弱い人間”と人物像を反転させた上で、“真相”に持っていく流れがよくできています。最初に
“他人がお父さんの悪口を言ったら、嫌な気分になるだろうね”
(254頁)と口にしている以上、“座間味くん”にはすでに“真相”――父親が“弱い人間”だということも含めて――が見えていたはずですが、あえて“お父さんは強い人間なんじゃないか”
(255頁)という印象から始めることで、説得力が増している感があります。ただ何というか、全体的にどこか気持ち悪く感じられるのは否めません。まず、“真由美姉さん”がいきなり“座間味くん”を責めているのはいくら何でも非常識でしょうし、(致し方ないとはいえ)責められた当人である“座間味くん”が聖子の父を非難する形になっているのもいかがなものでしょうか。
また、他の作品と同じように“座間味くん”と大迫警視の二人だけならまだしも、関係者がある程度揃った中で、責められる本人(聖子の父)が不在であるために欠席裁判のような印象を与えてしまっているのもいただけないところです。