死が二人をわかつまで/J.D.カー
Till Death Do Us Part/J.D.Carr
以下の感想では、本書の原型となったラジオドラマ「ヴァンパイアの塔」(『ヴァンパイアの塔』収録)の内容にも触れていますので、ご注意下さい。
本書の原型である「ヴァンパイアの塔」のラストでは、犯罪学の権威を騙った宝石泥棒の“芸術的な嘘”
(創元推理文庫『ヴァンパイアの塔』235頁)が暴かれ、主人公の婚約者に対する疑惑も晴れてハッピーエンドを迎えています。
それを長編化した本書でも、“ハーヴェイ・ギルマン卿”を名乗った男の正体が詐欺師であること、そして〈毒殺魔の話〉が嘘だということが露見する“結末”はそのまま踏襲されているのですが、当の詐欺師自身がでっち上げたはずの〈毒殺魔の話〉そのままの状況で毒殺されてしまうのが非常に面白いところで、「ヴァンパイアの塔」では“虚構”として決着した〈毒殺魔の話〉が、本書では“虚構”から“現実”へ踏み出しているのです。
しかも、実際に毒殺事件が起きた後に〈毒殺魔の話〉が嘘だと明かされるという順序になっているため、事実を――フェル博士やハドリー警視が保証しているにもかかわらず――にわかに受け入れがたくなっている感があり、レスリーへの疑惑がすっきり晴れるというわけにはいきません。さらにその後も次々とミスディレクションが繰り出される(*1)こともあって、ディックは結局レスリーに対する疑念を終盤(文庫版290頁~292頁あたり)まで引きずることになり、それが不安感を高める要因の一つとなっています。
とはいえ、“ハーヴェイ卿”の正体と〈毒殺魔の話〉が嘘だということは確実なわけで、物語の焦点は“なぜ嘘が現実になったのか?”へと移っていくことになります。そこで提示されるのが、“〈毒殺魔の話〉を信じた犯人がレスリーに罪を着せようとした”という構図で、シンシアやアッシュ卿などのように毒殺魔の話を信じた(ままの)人物が存在することもあって、非常に納得しやすいものになっています。
この構図は、実際には“虚構”である〈毒殺魔の話〉を“現実”のものとして受け取った犯人が、“ハーヴェイ卿”を殺したのがレスリーだと見せかけるために〈毒殺魔の話〉を再現したというもので、犯人は“現実”を事件に取り込んで偽の真相を補強しようとした、ということになります。これは、「ヴァンパイアの塔」の結末(オチ)を踏まえてそれを巧みに展開したものといえるでしょう。
ところが最後に明かされるのは、“〈毒殺魔の話〉が嘘だと知っている犯人が、「〈毒殺魔の話〉を信じている人物が犯人」と見せかけようとした”という何ともひねくれた真相です。結局のところ犯人は、嘘だということが露見することまでを前提に〈毒殺魔の話〉を再現したわけで、いわば〈毒殺魔の話〉が“虚構”として事件に取り込まれた、ある意味メタフィクショナルな真相だといえるように思います。少なくとも「ヴァンパイアの塔」の結末(オチ)からは遠くかけ離れたもので、単なる水増しや引き延ばしとは一線を画した見事なリメイクというべきでしょう。
そもそも、サム・ド・ヴィラ(“ハーヴェイ卿”)が〈毒殺魔の話〉の中にわざわざ密室を持ち込んだ(*2)のは、“毒殺を繰り返した”とされるレスリーが逮捕されないという状況に説明をつけて話に信憑性を持たせるためで、不可能状況であったことを示しさえすればいい――実際にトリックまで考え出す必要はない――わけですから、なかなかうまい手段だといえるように思います。そしてそれを受けた犯人は、自らが容疑を免れるために〈毒殺魔の話〉を再現するという計画を立てたわけですから、何としてでも密室を構成しなければなりません。このように、犯人が密室を構成する理由には十分に必然性があるといえます。
犯人が使ったトリックのうち、密室を構成する直接の手段はいわゆる“ピンと糸”という陳腐なものですが、見方を変えれば、〈毒殺魔の話〉を受けて急遽考え出したという状況にふさわしいトリックといえるかもしれません。そしてその陳腐な密室トリックが、目撃者(ディック)の目の前で空砲を撃つことで“それまで窓ガラスに弾孔が開いていなかった”――糸を通す隙間がなかった――と錯覚させるトリックとの組み合わせによって、見事に再生しているところが秀逸です。
ただし、ミスリードとしてはあまりにあからさまなものだと思いますし、特に後者の二つ(レスリーの夢中歩行と最後の犯人の行動)などは展開上の必然性が薄く、少々あざとすぎるという印象が拭えません。
*2: いうまでもありませんが、毒殺としてはやや異色の“青酸の皮下注射”という直接的な犯行も、密室とセットになって不可能状況を演出するための設定です。
2008.12.15再読了 (2009.01.25改稿)