叙述トリック分類・補遺

〈人物の隠匿〉

2010.02.27 by SAKATAM
ご注意!

 このページでは、「叙述トリック分類」で分類したミステリの叙述トリックのうち「[A-3]人物の隠匿」トリックについて、実際の作品で使われている具体的な手法にある程度触れながら、より詳しく論じています。作品名は伏せてありますが、作品を予備知識なしで楽しみたいという方は、以下の内容をご覧にならないようご注意ください。


 はじめに

 このページは、「叙述トリック分類#[A-3]人物の隠匿」で説明した、作中に存在する登場人物を“その場に存在しない”と見せかける叙述トリックについて、それが使われている作品をリストアップする(ただし作品名は伏せてあります)とともに、具体的な作例に基づいてトリックを比較検討してみようとするものです。

 叙述トリックの中で特に〈人物の隠匿〉を取り上げたのは、現時点でも作例がさほど多すぎない*1ということもありますが、他の叙述トリックよりもやや複雑な機構――場合によっては作中でのトリック(≠叙述トリック)も含む――を要し、同じ現象を生じるための手法にバリエーションが存在するからで、叙述トリックの中でも例外的に、いわゆる“密室講義”*2のような手法による分類が可能だと考えられます。

 以下、「叙述トリック分類#[A-3]人物の隠匿」にしたがい、〈視点人物の隠匿〉〈聴き手の隠匿〉〈第三者の隠匿〉の三つに分けて、それぞれ作例を挙げてトリックを検討していきます。
 〈作品リスト〉の中では、まず【作品の仮称】、(作品の発表年(短編については収録された単行本の発表年))、(国内/海外)作家の“イニシャル”と長編/短編の別を記し、いくつかの[項目]を示した上で、[備考]で説明をしています。
 ネタバレの度合いが高いと思われる箇所については、程度に応じて背景色による伏せ字、さらにJavaScriptを使用して表示します。作家名と作品名についても、確認の必要に応じて表示できるようにしてありますが、作例に心当たりがない方はくれぐれもご注意ください

*1: 登場人物を一人隠してしまうという現象や、場合によっては物語全体にわたる仕掛けとなることなどから、メイン(に近い位置づけ)のネタとして扱わざるを得ないという事情もあるかと思われます。
*2: ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』など。必要であれば、拙文「私的「密室講義」」をご参照下さい。


 〈視点人物の隠匿〉

〈概略〉
 「叙述トリック分類#[A-3-1]視点人物の隠匿」に記したように、物語の“語り手”や“記述者”などの役割が与えられた視点人物の存在を隠すトリックです。
 トリックの方向性としては、いわば視点人物の“気配を消す”ものと、視点人物を(一応伏せ字)“枠外へ追いやる”(ここまで)ものとに大別できますが、いずれにしても叙述において徹底的に“私”を省略することが、トリックの“第一歩”となります。
 他の一般的な叙述トリックでは、読者だけが真相を知らない(作中の登場人物たちは真相を知っている)例がほとんどだと思われますが、このトリックの場合、視点人物が他の登場人物から隠されていないとすれば、他の登場人物が視点人物と会話することなく“無視”を続けるのは、一般的には不自然きわまりない状態といわざるを得ないので、会話などで視点人物の存在が読者に露見するのを防ぐためのさらなる工夫が必要となります。具体的には、他の登場人物と視点人物との会話などを回避する仕掛け(視点人物を作中で隔離する仕掛け)、もしくは、視点人物との会話などを別の人物相手だと誤認させる仕掛け(人物誤認の叙述トリック)です。
 この、視点人物と他の登場人物との関係についての仕掛けという観点で、以下のように、物理的に隔離〉・〈感覚的に隔離〉・〈心理的に隔離〉・〈隔離されないの四通りに分類することができます。

隔離される物理的視点人物が物理的に隔離されているため、他の登場人物は視点人物を認識できない
感覚的物理的には隔離されていないが、他の登場人物は視点人物を認識できない(主に特殊設定による)。
心理的他の登場人物は視点人物を認識しているが、視点人物が存在しないように振る舞うことになっている。
隔離されない他の登場人物は視点人物を認識しており、会話なども可能人物を誤認させる必要がある。

〈作品リスト〉
 以下、〈視点人物の隠匿〉トリックが使われている作品を、知っている限り年代順に挙げていきますが、当然ながら“漏れ”があるかと思われますので、その点はご了承下さい。

【作品1-A】 (1992年) 国内作家“H”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 物理的に隔離
[備考]
 文庫版に付された法月綸太郎氏による解説の書きぶり*1をみても、この作品が〈視点人物の隠匿〉トリックを本格的に使った最初の作品*2ではないかと思われますが、(1)一人称の叙述において、視点人物自身に関する描写や言及を排除する(視点人物の“気配”を消す)ことで、三人称客観視点による叙述と見せかける、(2)作中において他の登場人物から視点人物を隔離する――具体的には、視点人物が(一応伏せ字)遮蔽された場所に隠れる(ここまで)ことで物理的に隔離された状態となる――ことによって、叙述トリックを露見させてしまうおそれのある他の登場人物との会話などを回避する、といった具合に、この時点ですでに基本的な手法は完成されているといっていいでしょう。
 さらに、三人称客観視点への偽装による地の文での内面描写の欠如が、別の人物の一人称によるパートで多用される独白によって補われ、また物理的な隔離による視点(人物)の移動の制限についてもそれをカバーする設定が用意されるなど、トリックの副産物として生じ得る不自然さに対しても周到に対策を講じてあります。
 また、この作品の大きな特徴として、トリックの使い方――視点人物を隠匿する目的が挙げられます。読者が“知らない”登場人物を一人用意できるということが、特にフーダニットの面で有利に働くことは明らかで、実際に〈第三者の隠匿〉も含めた後続の作品のほとんどで、そのような使い方(場合によっては“人数の誤認”ともいえる)がされています……が、この作品では隠匿の目的がフーダニットとはまったく無関係で、そのためにこの種の作品の中では異色の効果となっています。

【作品1-A】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

【作品1-B】 (1998年) 国内作家“N”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 感覚的に隔離
[備考]
 一人称の叙述が三人称客観視点に偽装されているのは【作品1-A】と同様ですが、各登場人物が内心をやたらに饒舌に(あるいはあけすけに)語ることで、地の文での内面描写の欠如が補われているのが目を引くところです。
 作中では“ある手段”によって、その場にいる視点人物が他の登場人物に感知されない、いわば感覚的に隔離された状態が作り出されているのが特徴で、【作品1-A】と違って視点(人物)の移動が自在となり、物語の進行がより自然なものとなっています。
 また、作中での真相(隔離の手段/隠された(視点)人物の存在)が先に提示され、一人称の叙述であることは最後の一行で明かされるという趣向になっているのも、この作品の大きな特徴といえます。

【作品1-B】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

【作品1-C】 (1999年) 国内作家“A”の短編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 三人称単視点 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 心理的に隔離
[備考]
 〈視点人物の隠匿〉という現象は【作品1-A】と共通ですが、この作品ではそれが手法を異にするトリックによって実現されています。
 最大の特徴は隠される視点人物の立場で、それによって作中では他の登場人物から心理的に隔離され、存在を認識されながらもその場に存在しないものとして扱われることになっているのですが、読者にとってはいわゆる“見えない人”に通じるところがあり、その存在を意識しがたい状態となっています。
 もう少しだけ詳しくいえば、トリックが仕掛けられた部分は作中作であって、その“外枠”にあたる部分の(一応伏せ字)メタレベルの視点を介してそれが読者に伝えられる(ここまで)形となっており、したがってその部分は一人称というよりも三人称単視点による描写ととらえるのが妥当だと考えられるのですが、いずれにしてもその中では(原則として*3)隠された視点人物自身に関する描写などは一切行われないために、その存在が“見えない”ものになっています。

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【作品1-D】 (2002年) 国内作家“Y”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 三人称単視点 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 心理的に隔離
[備考]
 トリックそのものは【作品1-C】ほとんど同一といっても過言ではありませんが、この作品では“外枠”部分の展開の方に重きが置かれており、作中作の〈視点人物の隠匿〉トリックはメインのネタとして使われているわけではありません
 作中作としてはっきり提示されるのはいわば“問題篇”のみで、真相の提示が“隠された視点人物の出現”という形ではなく、“外枠”部分での解明という形でなされる点も、〈視点人物の隠匿〉トリックが使われた作品としては異例といえます。
 その他、【作品1-C】よりもトリックの説得力を高めるような細かい改良も見受けられるのですが、具体的な説明は(完全にネタバレとなってしまうので)ここでは割愛します。

【作品1-D】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

【作品1-E】 (2002年) 国内作家“M”の短編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿/視点人物の誤認
[人称・視点の偽装] 一人称または三人称単視点 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 心理的に隔離
[備考]
 叙述トリックとしては【作品1-A】系列の手法が使われていますが、視点人物が他の登場人物から心理的に隔離されるという点では【作品1-C】【作品1-D】に通じるところがあります。ただし、その具体的な手段はまったく異なるもので、ある意味では“視点人物がいかにして隔離されていたのか”自体もこの作品のポイントの一つとなっています。
 あくまでも心理的な隔離にすぎない以上、他の登場人物にとっては視点人物の存在が謎とはならないこともあって、【作品1-C】などと同じく作中作にトリックが仕掛けられており、さらに“外枠”部分での解明という形で真相が提示される点では奇しくも*4【作品1-D】と共通しています。
 実をいえば、この作品では真相が解明されるよりも前、“問題篇”の最後に作中作の記述者(と目される人物)が姿を現しているのですが、“私”ではなく“特殊な固有名詞”で記述されている――したがって一人称ではなく三人称単視点とも解釈できる――ことで、誰だかわからない形になっています。つまり、作中作の中にすでに出現している人物が記述者だと誤認させることも視野に入れたトリックといえるでしょう。

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【作品1-F】 (2004年) 国内作家“M”の長編
[トリックの目的] 視点人物の部分的な隠匿+視点人物の誤認
[人称・視点の偽装] 一人称(内面描写あり) → 三人称単視点(内面描写あり)
[他の人物との関係] 隔離されない物理的に隔離
[備考]
 【作品1-A】のように、地の文の中で“私”を省略することで一人称が三人称に偽装されてはいるものの、地の文に内面描写がある(客観視点でない)ために視点人物が存在することは明らか。それどころか、そもそも視点人物は最初から登場人物の一人として読者に示されており、作中でも大半の場面において他の登場人物から隔離されない状態です。つまりこの作品のトリックは、視点人物の存在を隠し通すことを狙ったものではありません。
 トリックの主目的は視点人物を誤認させる――人物Xの一人称による叙述を、“人物Y”の視点からの描写(三人称単視点)と見せかける――ことにあり、そのために“ある場面”で視点人物(人物X)の存在を隠す、視点人物の部分的な隠匿ともいうべき手法が採用されています。
 具体的には、明らかに人物Xが存在しないはずの場面を描写するというもので、描写の対象(人物Yを含む)から視点人物(人物X)が物理的に隔離されることになりますが、その状態でどうやって描写を行うか、というところにもトリックが仕掛けられています。

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【作品1-G】 (2006年) 海外作家“A”の長編
[トリックの目的] 視点人物の部分的な隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 隔離されない物理的に隔離
[備考]
 海外作家による、もともとは英語で書かれた作品で、一人称を三人称客観視点に偽装するにあたって原文がどのようになっているのか、少々気になるところではあります*5
 【作品1-F】と同様に、視点人物の存在が読者にも他の登場人物にも明かされ、大半の場面で他の登場人物から隔離されない状態となっており*6、やはり“ある場面”で視点人物を物理的に隔離して存在しないと偽装されていますが、この作品ではその視点人物の部分的な隠匿こそが主目的となっています。
 海外作家なので【作品1-F】を知っている可能性は低いにもかかわらず、視点人物が隔離された状態で物語を進めるためのトリックまで、【作品1-F】に通じるものになっているのが面白いところです。

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【作品1-H】 (2006年) 国内作家“M”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 物理的に隔離
[備考]
 仕掛けられているのは【作品1-A】系列のトリックで、視点人物が他の登場人物から物理的に隔離されている点も【作品1-A】と同様ですが、こちらでは視点(人物)の移動がある程度可能となっています。
 面白いのは作中で隔離された視点人物の所在で、視点人物の出現そのものよりもむしろ“どこから出現するか”が強烈なサプライズとなっている感があります。

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【作品1-I】 (2007年) 国内作家“M”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 三人称単視点/一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 心理的に隔離
[備考]
 【作品1-C】系列のトリックが、やはり作中作にあたる部分に仕掛けられていますが、作中作では[内容を表示]上に、“外枠”部分は[内容を表示]という状態で、【作品1-C】【作品1-D】にみられる“類型”から大幅に逸脱しているのが目を引きます。
 また、真相が提示される際には[内容を表示]というのも異例で、トリックの原理からすればあり得ない形です。実のところそれは、作中作のみならずさらにもう一つ、すなわち“外枠”部分にも〈視点人物の隠匿〉トリック(こちらは【作品1-A】系列のトリック)が仕掛けられた二重構造になっていることによるもので、[内容を表示]というユニークな趣向になっているのです。

【作品1-I】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

【作品1-J】 (2009年) 国内作家“Y”の長編
注意:この作品については、事前に手法の概略を知るだけでも面白味が大幅に損なわれてしまうおそれがあり、[人称・視点の偽装]の項目を伏せてありますので、ご了承下さい。
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] [項目を表示]
[他の人物との関係] 感覚的に隔離
[備考]
 視点人物を他の人物から感覚的に隔離する点など、トリックの基本的な部分は【作品1-B】に通じるものがあります。
 最大の特徴は例を見ない強力なミスディレクションで、[内容を表示]ことにより、普通に読んでいるとそこに視点人物が隠れている可能性など思い浮かびもしないという、秀逸な仕掛けになっています。

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【作品1-K】 (2018年) 国内作家“M”の短編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称 → 三人称客観視点
[他の人物との関係] 心理的に隔離(軽度)
[備考]
 【作品1-C】系列のトリックが使われた作品で、トリックそのものには新規なところはありません。特徴はユニークな状況設定にあり、そのためにトリックの扱い方が一風変わったものになっています。
 この系列のトリックが使われた作品としてまず異例なのが、“外枠”部分がない――作中作ではない点で、【作品1-C】などが作中作の形式によって視点人物の存在を読者に暗示しているのに対して、この作品では状況設定により視点人物の存在が担保されています。実のところ、“視点”が存在することまでは冒頭から明示されている――どころか、登場人物も時おり“視点”に言及する有様で、前例に比べると心理的な隔離はやや弱く、また視点人物の隠匿もさほど強固ではない*7、といえるかもしれません。
 作中作ではないため、読者への真相の提示も“外枠”部分からではなく、作中の現実における“見えない人”トリックの解明を介する形で行われることになりますが、この作品のポイントはそこから先で、前述の状況設定との関係で、視点人物の“心理的に隔離された立場”が作中においても大きな意味を持つこと(もう少し具体的にいえば、[内容を表示]という逆転現象)が明かされるところがよくできています。

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【作品1-L】 (2019年) 国内作家“S”の長編
[トリックの目的] 視点人物の隠匿
[人称・視点の偽装] 一人称(内面描写あり) → 三人称単視点(内面描写あり)
[他の人物との関係] 隔離されない心理的に隔離(軽度)
[備考]
 視点人物が基本的には――若干の心理的な隔離はあるものの――他の登場人物から隔離されない状態で終始する異色の作品で、一人称の叙述が三人称単視点に偽装され、はっきり登場している人物の視点で進んでいくように見せかけて、その陰に“真の視点人物”が隠れている形になっています。
 視点人物と他の登場人物たちは普通に会話を交わしているのですが、会話の主を“真の視点人物”ではなく“見かけの視点人物”と誤認させることで、“真の視点人物”の存在が巧みに隠されています。【作品1-F】のように部分的であればともかく、長編一冊を通して誤認させ続けるのは至難の業だと思われます*8が、この作品では“真の視点人物”と“見かけの視点人物”の特別な関係によって、誤認が補強されることになっています。
 この作品ではもう一つ、物語終盤になるまで“真の視点人物”の存在が作中でもミステリ的に問題にならないように工夫されているのが目を引きます。というのも、“真の視点人物”が隔離されない状態では、事が起これば視点人物も作中ではすぐに容疑者となり得るわけで、そうなると視点人物の存在を読者の目から隠し通すのは困難になるからですが、この作品では最後の最後になるまで他の登場人物が“真の視点人物”に疑いを向ける事態にならないよう、周到に組み立てられています。

【作品1-L】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

*1: “本書で○○が採用した視点のトリックは、フランスのヌーヴォー・ロマンの代表的作家、アラン・ロブ=グリエが『嫉妬』(一九五七年)で試みた実験的な小説作法に酷似しているということを指摘しておかなければなりません。ただし、ロブ=グリエの小説に意外性の演出は皆無です”という具合に、“前例”としてはミステリらしくない作品のみに言及されています。
*2: 実際には、一人称を三人称に偽装して視点人物の存在を隠すという手法自体は、少なくとも1991年に発表された国内作家“Y”の長編(〈第三者の隠匿〉【作品3-B】)の中で披露されており、アイデアとしては以前から知られていたもののようです。
*3: ただしこの【作品1-C】では、ややトリッキーな手法で最後に視点人物が出現しています。
*4: 奥付を確認してみると、【作品1-D】【作品1-E】は同年同月(数日違い)の発行となっています。
*5: 特に、訳文での記述が若干怪しく感じられる箇所があるので。
*6: ただし、やたらに視点人物の影が薄いだけで、あまり叙述上の工夫がされているようには見受けられません。
*7: このあたりは、すでにいくつかの前例があるトリックということもあるかもしれませんが、やはり“作中作ではない”こと――つまりは“終了していない”ことによるところが大きいでしょう。

【作品1-A】【作品1-J】 2010.02.27)
【作品1-K】【作品1-L】〈概略〉【作品1-A】を改稿 2023.01.31)

 〈聴き手の隠匿〉

〈概略〉
 「叙述トリック分類#[A-3-2]聴き手の隠匿」に記したように、語り手に対する聴き手の存在を隠すトリックです。
 一人称の語り手が読者に向けて語っているように見せかけるため、作中での聴き手となり得る登場人物が存在しないと思われる状況での“語り”が基本となります。
 他のトリックと違ってメインのネタとはなりにくく、またバリエーションが生じにくいこともあり、正直なところさほど面白味があるとはいえませんし、リストアップできるほどの例も思い浮かびません。

〈作品リスト〉
 以下、〈聴き手の隠匿〉が使われている作品のうち、特殊な例を一つ挙げておきます。

【作品2-A】 (2000年) 国内作家“T”の長編
[第三者との関係] 物理的に隔離
[備考]
 他の人物も登場している、一見するとごく普通の物語において、一人称の地の文の中に“あなた”という呼びかけが出てきます。台詞ではなく地の文であるため、それが他の登場人物に対する呼びかけとは考えにくく、読者に向けたものと誤認させられます*
 隠された聴き手は作中において、〈視点人物の隠匿〉【作品1-A】などと同様に物理的に隔離され、読者のみならず語り手以外の登場人物(第三者)もその存在を認識できない状態となっています。
 厳密にいえば、[内容を表示]ので、トリックが成立しているとはいいがたい部分もないではないですが、聴き手の存在が明かされる場面の演出は見事で、なかなか面白いトリックといっていいのではないでしょうか。

【作品2-A】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

*: 実際のところ、読者に向けたものもあるようにも思えるのですが、そのあたりは判然としません。

【作品2-A】 2010.02.27)

 〈第三者の隠匿〉

〈概略〉
 「叙述トリック分類#[A-3-3]第三者の隠匿」に記したように、語り手でも聴き手でもない第三者――三人称で記述される人物の存在を隠すトリックです。
 叙述トリックとしての手法は人物の誤認――隠される人物Xに関する描写などを別の“人物Y”に関するものと見せかける――が中心となりますが、人物の誤認と隠匿のどちらに重きが置かれているかによって、〈誤認のための隠匿〉〈隠匿のための誤認〉とに分けることができます。
 まず、〈隠匿のための誤認〉は人物Xの存在を隠すこと自体を主目的とするもので、作中での人物Xについての描写を、作中に登場していたことを読者に対して保証するため*1必要最少限にとどめておき、さらにそれを“人物Y”と誤認させることで人物Xの存在を“消す”ものです。一方、〈誤認のための隠匿〉では人物Xを別の人物Yの“身代わり”とすることが主目的であり、そのために人物Xについて登場人物としての存在感を出せる程度の描写をした上で、それを丸ごと別人(“人物Y”)のものだと誤認させる――結果として人物Xが“存在しない”状態となるものです。
 隠された人物Xが作中に登場していたということを読者に納得させる必要もあって、その名前が作中に示されている――さすがにフルネームというわけにはいきませんが――例が多くなっており*2、トリックを成立させるために“隠された人物の名前をどのように扱うか”というのも、この種の作品の見どころといえるでしょう。

〈作品リスト〉
 以下、〈第三者の隠匿〉トリックが使われている作品を、知っている限り年代順に挙げていきますが、当然ながら“漏れ”があるかと思われますので、その点はご了承下さい。

【作品3-A】 (1990年) 国内作家“T”の長編
[目的と手法] 誤認のための隠匿
[叙述の形式] 一人称
[偽装] (視点人物が関わる)人物の誤認
[隠された人物の名前] あり
[備考]
 主に〈人物Xの一人称によるパート〉(以下、〈パートX〉という)と〈人物Yの一人称によるパート〉(以下、〈パートY〉という)とで構成されており、〈パートX〉の語り手(人物X)を“人物Y”と誤認させる、語り手の誤認がトリックの主目的となっています。そしてそれを支えるために、他の登場人物による人物Xに関する発言なども“人物Y”に関するものと見せかけるような仕掛けが用意されています。つまり、“他の登場人物にとっての人物X”と“他の登場人物にとっての人物Y”とが、読者の視点では混同され、いずれも“人物Y”だと誤認させられることになります。
 しかし人物X―人物Yの直接の関係(会話など)については、いずれのパートでも“語り手自身”と“語り手にとっての相手”にあたるのですから、それを一人“人物Y”だと誤認させるのは非常に困難です。そこでこの作品では、人物Xと人物Yとの関係にもう一人の人物Zを加えて、人物X―人物Yの直接の関係を“人物Y―人物Z”と誤認させる手法が採用されています。

[【作品3-A】の人物誤認]
パートX真相 誤認
 語り手人物X人物Y
相手人物Y人物Z
人物Z人物Z
    
パートY真相 誤認
 語り手人物Y人物Y
相手人物X人物Z
人物Z人物Z

 上に示したように、それぞれのパートで“語り手にとっての相手”にあたる人物Yまたは人物Xを、どちらも“人物Z”だと誤認させるもので、前述の語り手の誤認も含めて、人物X・人物Y・人物Zの三人を人物Y・人物Zの二人に偽装する“三人二役”トリックとなっています。結果として、〈パートX〉での語り手としての人物Xのみならず、〈パートY〉での第三者としての人物Xも完全に隠されてしまうことになります。
 隠された人物Xの名前は、一人称による地の文の中で(基本的に)明示されないのは当然としても、他の登場人物の発言などには登場しているのですが、[内容を表示]ことでトリックに一役買っています。ただし、名前そのものは別のものに置き換えてもトリックは成立します。
 なお、この作品での一人称の語り(地の文)は読者にのみ伝わる独白*3であり、語り手自身(人物Yまたは人物X)は誰かに伝えることを想定していない――ましてやトリックを仕掛ける意図などないはずなので、語り手自身の名前はともかく、“他人”のうち特定の人物(人物Xまたは人物Y)のみ独白の中に名前が出てこない――それでいて人物Zの名前は頻出する――のは、若干の不自然さが拭えないところではあります。

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【作品3-B】 (1991年) 国内作家“Y”の長編
[目的と手法] 誤認のための隠匿
[叙述の形式] 一人称(手記)
[偽装] (視点人物が関わる)人物の誤認
[隠された人物の名前] あり(代替不可)
[備考]
 【作品3-A】と同様に人物の誤認を主目的とするものですが、その手法はまったく異なるもので、一人称の手記(作中作)の中に登場する人物Xを、手記の記述者である“人物Y”と誤認させるトリックとなっています。
 まず、手記の中で記述者(人物Y)自身に関する描写を“省略”するという、〈視点人物の隠匿〉に通じる手法が採用されていますが、この作品では人物Y自身は(手記の記述者として)手記の中に登場していることが読者に明示されているのが特徴で、存在が隠されることなく描写のみが欠如したその“空隙”に、人物Xに関する描写を“はめ込む”ことで人物の誤認が成立するとともに、人物Xの存在が隠されることになります。

[【作品3-B】の人物誤認]
真相叙述誤認
【人物Y】
言動
  →  
【人物Y】
(省略)
  →  
【人物Y】
描写
【人物X】
言動
  →  
(人物X)
描写
  →  
〈人物X〉
不在

 隠された人物Xの名前は結構頻繁に登場しているのですが、実はそれ自体がトリックの一要素として使われています(したがって代替は不可能)。また、人物Xの名前についてはもう一つ仕掛けが用意されており、実に周到なトリックといえます。

【作品3-B】の作品名を確認したい方は → [作品名を表示]

【作品3-C】 (2003年) 国内作家“K”の長編
[目的と手法] 隠匿のための誤認
[叙述の形式] 三人称
[偽装] 人物の誤認/その他
[隠された人物の名前] あり(代替不可)
[備考]
 【作品3-A】【作品3-B】では人物の誤認に重きが置かれていたのに対して、人物の隠匿自体が主目的となっている作品で、隠される人物Xを別の“人物Y”と見せかける人物の誤認だけでなく、さらに別の手法が併用されている点にもそれが表れています。
 その一つは、人物Xに関する描写や言及を、他の登場人物ではなくそれ以外の“もの”に関するものと誤認させる手法で、それをみても人物の誤認が手段の一つにすぎないことは明らかでしょう。そしてもう一つは、登場人物の立場に関する誤認などを利用して、その場にいる人数そのものを実際より一人少なく誤認させる手法で、当然ながら人物の隠匿という目的に直結するものです。
 また、三人称多視点による叙述が採用されたこの作品では、視点の切り替えによって〈視点人物の隠匿〉の“隔離”に通じる効果を生じているのが興味深いところです。
 【作品3-B】とは違った形ながら、やはり隠された人物Xの名前がトリックの一要素となっており、別の名前への代替は不可能です。

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【作品3-D】 (2005年) 国内作家“A”の長編
[目的と手法] 隠匿のための誤認
[叙述の形式] 一人称(手記)
[偽装] 人物の誤認
[隠された人物の名前] なし
[備考]
 この作品も【作品3-C】と同じく人物の隠匿自体が主目的となっており、それは隠された人物Xの名前が示されない点にも表れているといえます。一人称の手記(作中作)の中で、記述者自身は他の人物と区別して呼称を使っていますが、人物Xの名前が一切登場しないこともあって、別の“人物Y”への誤認が生じやすくなっています。
 人物Xの名前の扱いを考えれば、他の作品と比べてトリックを成立させるのは容易ともいえますが、この作品で人物Xの名前が示されないのは別の仕掛けに関わるもので、決して安易な手法とはいえないでしょう。

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【作品3-E】 (2006年) 国内作家“A”の長編
[目的と手法] 部分的な隠匿のための誤認――ただし人物の誤認ではない
[叙述の形式] 一人称
[偽装] 非人間への誤認
[隠された人物の名前] あり
[備考]
 【作品1-F】【作品1-G】と同様に、人物Xの存在が作中の“ある場面”でのみ隠される作品で、他の場面では人物Xが堂々と登場しているために〈人物の隠匿〉とはとらえがたいところもあるかと思いますが、それを主たる目的としたトリックであることは明らかです。
 具体的な手法は、【作品3-C】でも使われている非人間への誤認のみで、人物の誤認をまったく使用していないことで他の作品とは違った独特の効果を生じています。すなわち、(目撃者となる視点人物らを除いて)人物Xただ一人が存在する場面においてトリックが仕掛けられることで、読者はその場に誰もいないとミスリードされることになるわけで、これがある種の謎を演出するのに有効であることはいうまでもないでしょう。

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*1: 隠される人物に描写の視点という役割が与えられていることで、物語の最初から登場していたことが担保される――それゆえに、描写の徹底的な省略が可能な〈視点人物の隠匿〉と違って、描写が皆無であれば登場していないに等しいことになってしまいます。また同じ理由により、〈視点人物の隠匿〉のような“隔離”は使えません。
*2: “彼”や“彼女”といった代名詞のみでは、他の登場人物と区別できないため。
*3: 読者に真相が提示されるまでの部分(その後は、聴き手に対する語りとなっています)。

【作品3-A】【作品3-D】 2010.02.27)
【作品3-E】 2010.10.12)