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最終更新日03/04/26

コラム

コラム103

人の目(他人の目)

私の中で、自己の主体性が無い訳では在りませんが、変な所で人の目が気になっている時があります。
この事は友人達に指摘され自分が人との接し方の中で、ものすごく大きい影響を与えている事を知りました。
他人の目を気にすると言うことは相手の行動や言語を気にして、自分の接し方を相手に合わせて行動すると言う事です。
人と人は違うので多少なり合わせると言う行動は、みんな当たり前にしている事なんですが、私の場合、特にその傾向が強い時があります。

人の目を伺うと言うと、あんまり良いイメージは在りません。
ですが、相手に対して配慮する、気を使うと言うとイメージが全然違います。

結局、私が相手に対して接している形の中で影響していた事は、こう言う違いだったようです。
他人への接し方が、相手を思いやるのか人の目を気にしすぎているのか、受け止める側で紙一重かもしれません。
人の意見の中に「他人は自分が思っている以上に見てくれない、だから、そこまで気にするのは無駄」と言う考えの人もいます。
私が、人に対して考えて接するようになったと言うよりも、昔からそう言う接し方が当たり前になっており、本当に無理をして接していると言うのともちょっぴり違うような気がしています。
本当に、嫌ならば干渉しませんし、他人の話も聞きませんから・・・。

そう言う具合に気の使うようになった切っ掛けは私の精神下層にありますが、普段「良い自分で在りたい」「自分がして欲しい事を相手に望んでいるから・・・」と言う理由も本音の中にあります。(その通りになどは現実で中々なりませんが・・・)
そして、対人関係で疲れている自分が居ても、その結果、普通じゃ在りえない、お金で買えない人間関係や経験を得たと思っています。
もし、すべての人に好かれようと思って行動していたのならば私はとっくに過労死してます(笑)

私がして来た行動がすべて正しいとは言いません、他人の事で疲れ果てていたら僕の持っているキャパを超えていると言えますし・・・・でも、そう言う「やせ我慢が悪い訳でもないよな」と思うようになってきました。

私の人の接し方を笑う人も中にはいます。ですが、それが今の自分が出来る他人への接し方であり、誰に真似の出来ない自分の形ならばこれでいいのかも知れないと思うようになってきました。
ある程度の自分を見せて他人と接しながら自分が自分で居られる人を探して選べばいい筈です。(でも、100%出せる人も厳密には居ないですけどね)

他人の目を気にすると言いながら自分で見ている自分自身を気にしているのかもしれませんね・・・・。

今回の話を極端にすると対人恐怖症とかに関係するのでしょうけど・・・。

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