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最終更新日04/03/16

コラム

コラム166

幸せの形

 これって何を言うのでしょうね(笑)
いままで、多くの精神面のコラムを書いて来て文章の書き方(表現の仕方)に困った事がありますが、この題材も特によ〜わからない話です。

『嬉しい』『楽しい』と言う事ならば、自分が好きな事をしている事(時間)をいいますが、『幸せ』と言うと個人的にあまりにも曖昧な感じがしてしょうがありません。
そもそも『形』で表現出来ないですし・・・・。

この頃、「楽しい」と言う時間を友達や友人と一緒に好きな事で遊んでいる時を言う事だと思うのですが「幸せ」と言う言い方になると、「ちょっと違うかな」と思います。
幸せと言うのが、多分、「楽しい」「嬉しい」という感覚の最終的な物だとは思うのですが、どう言う事(状況)を言うのか?人によって捉え方も意味も違うと思います。
よく、おいしいものを食べている時を「幸せ〜」とか言うのを聞きますが、これは食べ物を食した時であり空くまで物に依存した場合なので、ここではあえて外して話しますが、例としてはたまに聞くのが好きな人と一緒に居る時間を言う事があります・・・・。
多分、自分の居場所がある事、自分が必要とされている事などの要因と繋がっている気がしてなりません。
言い方を変えれば「孤独を拭えたから幸せ〜」とか・・・。
ですが、私としても「どう言う時を幸せと言うのか?」・・・・何とも言えません。

よく女性だと「幸せ」と言う事を家庭に置き換えて言いますが、
「幸せ」を好きな事が出来たからと言うよりも、生き方そのものの中に存在している目に見えない事が「本当に良かったなぁ」と思えることが幸せなんだと思います。
ですから、先ほど話した美味しいものを食べた事を「幸せ〜」と言う意味からずらして考えています。

僕の場合、車を買った、自分の好きな事が出来たと言うのは「楽しい」「嬉しい」という感情には繋がっても「幸せ」と言うのとはちょっと違うような気がしています。
車を購入したとき「嬉しかった」のは覚えていますが、「幸せ〜」と言う感情ではありませんでしたから・・・・・でもこの感じ方も人によって違う考えの人も居ると思いますが。

多分、『幸せ』と言うのは、好きな人と結婚するとか、子供が出来て幸せとか言うのもその一つなのかも知れないのですが、僕としてはそれらの「幸せ」だと思う出来事が今あると言うよりも自分が当たり前に過ごしている環境や生活や時間の中にある・・・本人が感じていない、理解していない時間を言っている場合があるのかもしれません。
(結婚はしてないので分かりませんけど(笑))

それらの幸せと呼べるものが今、本人に取って当たり前に存在する事であるのならば、それらの「幸せ」の物を失った時になって初めて「あの時が幸せだったのかも知れない」と後悔して初めて気づくものかもしれません。
後悔して気づいた経験が自分でもありましたから・・・・・。

もし、今時点で「自分が幸せだな」「幸せかもしれない」と気付いた人は羨ましい限りですね。
それを「幸せだ」と気付く事が中々出来るものじゃないと僕は思っています。
結局、『幸せ』と言うものが目に見えないものであり、当たり前に過ごしている日常の中に本人が知らないで存在している空気みたいなものかなぁ・・・・と思っています。そう考えると「今の自分の環境は幸せなのかもしれない」と感じますけど、よく分かりません(笑)。

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