STEEL

最終更新日07/01/26

コラム

コラム243

感受性

 名前の通りなのですが回りからの情報を受け止めた時の心の事ですが大体は人間同士のやり取りの中で発生します。
私は感受性は神経質な一面を言っているだけと思っていましたが神経質と言うよりも誰もが多少なり持っている感情であり精神的にストレスを受けるような情報(経験)に自分の心がどのように受け止めるかと言う事次第と思います。

例えば心に落ち込むような事があった場合、人によって「理解できたり」「そんなことでなぜ落ち込む?」などと個人差がありますがこれらは感受性の違いによっても変わるようです。他人に怒られたとしてもケロッとしている人やまともに受け止めて落ち込む人など人それぞれにさまざまです。
心が精細であれば他人からのダメージを受けやすく、その心の状態がどのように変化するのかは個人によります。

ただ、これらの他人による外部からの情報、経験は簡単に言ってしまえば「ストレス」によるもので一番影響する分野は嫌な事(傷つく事)なのだと思います。根本的に良い事は忘れ、いやな事は覚えている。
集団生活の中でしか生きられない人間はいいことも悪いことも基本的に人間同士の中で発生するものなので対人関係による影響のすべてで決まります。

私は感受性の影響が「ある場合」と「ない場合」とが両極端の様で、この差が感受性として大きく影響します。それは誰もが同じ様です。
私の過去に起きた色々な出来事で今でも覚えている事を整理して考えると自分が悪くて他人を傷つけた事を普通の出来事の場合で考えるとあまり覚えていないものなのに特殊な環境下だった場合に限って、後悔や悲しみとして記憶に残ります。

それらを思い出すたびに後悔して悔やんだり切なくなったりします。これも感受性による捕らえ方によるのかなぁ・・・・と思ってます。
今時点でそれらを思い出すような環境があった為にちょっこらブルーになった為に今回このようなコラムを書いたわけですが・・・・・・。

記憶が薄れて鮮明さがなくなるものが今でも鮮明に記憶に残っているのは個人的に感受性の影響だといえますが、時と場合によってこれが良い事とは言えない時も有ります。単純に過去の記憶は忘れた方が楽なこともあります。
ただ、大なり小なりこれらの記憶は誰もが持ちえていて同じようにそれらの悲しい記憶があるままで日常を過ごしている事も今まで出会った人と接する事で感じたりする事があったりしています。

例えば、恋愛などの対人関係の話、出会い、別れなどの経験話を飲みの席でしんみり話したりする人がいますが、これは結果を満足していればそんなことは他人に言わないわけで多少なりの後悔や未練があればこそ話すことも有ります。
個人的に感受性は度が過ぎるとヤバイですが他人に対して接する方法として大切な経験に繋がるものです。
どんなに経験が豊富な人でもこれらの経験を考え直して理解しない限り整理することも出来ないので結局は個人の性格による所が大きいと思います。

私は感受性が強いと言われた事がありますが、裏を返せば考えすぎ、思い込みなどの意味では悪い部分もある訳で、私としてはあんまり他人に影響を受けないようなレベルでの他人への接し方が一番気楽でいいと思います。
それは近づき過ぎて他人の精神下層に入り込んでめちゃくちゃ疲れた経験がある私に言わせれば傷つかない距離で他人と接しているのも感受性を保護するを方法の一つといえます。しかし他人と傷つかない距離に居たとしても人と接している限り絶対に心に傷がつきます。
ただその回数が少ないだけにすぎませんが・・・・。

考えて見れば、私の感受性は精神的に辛い時に環をかけて辛さが増したとか・・・いい面で役に立った記憶がありません。
この事が精神面の強さに繋がる経験だとしても私には理解出来ない事です。精神的に強くなったとはとても思えないからに過ぎませんが・・。

感受性とは直接関係ないかもしれませんが人間は他人からのちょっとした行動、ちょっとした言葉によって心が動揺したり。傷ついたりすることを考えれば個人個人の感受性による影響を他人は理解できません。
そして、人間関係によって他人より受けた傷や経験がそのまま残ります。
感受性が他人への配慮や思いやりと言う意味で自分で経験したものを反映出来るかは感受性だけでなく個々の性格に依存する筈です。

性格と感受性は深く考えると共通するものであり類似的なものがありますが、感受性はそのなかでも精神的な面に限定して言っているようにも感じます。それでも個人的に感受性はある程度鈍感のほうがいいと思います(笑)余計な事で悩むので・・・・・そしてそんな事を考えていられるような環境に私は今いると言う事です。

コラム242へ  ▲コラムトップへ  ▼コラム244へ