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最終更新日03/03/07

コラム

コラム85

自分と他人

 私自身が他人に見せている私は、他人に合せて作っている私であり、本音で人に接してはいない時もあります。
そんなの誰でも当たり前のことですね。
ですが、人はその時その時で判断して他人を計ります。
その事実をある程度は理解しているつもりなので本当の人格(接し方)を他人との接点で調整して対応しています。
これは冷静に考えると自分の本心を相手に見せないと言う事になります
人に対する対応を整えておけば、柔軟に他人に接することが出来るし他人の行動や考え方に自分がどうすればいいのか、瞬時に対応出来ますからそれは、本当は他人に自分自身を見せないと言うことになるので怖い面があります。

私を知っている人はここで書かれていることを本当の意味で理解しているのは私の知る限り、そんなに多くないと思います。こんな事を話す機会がある人もそんなに居ませんが(笑)
私がこういう考え方で、人に接するようになったのは、他人に対する信用性をもてない事があったり、裏切られた経験が多かった為です。(これらの経験の解釈も曖昧かもしれませんが・・・)

上辺のどうでもいい適当な距離にいる時は大丈夫な人でも込み入った関係や責任問題が問われる立場的な出来事などになると予想と違った場合がありました。(うおぉ〜自分の事言っているみたい・・・書かなければよかった(涙))

恐らく、それぞれの付き合いの距離や形が本当はあるのに仲が良くなる事でその距離や形を混合してしまって本来の他人と他人の境界線が消えてしまっているような気がします。(親しき中にも礼儀ありはこういうことだと思っていますが・・・・)
そう言う、立場的な人との境界線が曖昧になってしまっていて、礼儀、配慮を他人が認識していないので、どうしようもありませんね、自分自身の考え方が厳しいのかな?と思い何人かに話をしてみると「全然常識レベルの話で、相手が常識無いだけ」とみんなに言われました。
こうなると自分の常識基準も他人の中では価値もあったもんじゃないので自分自身が他人の接し方を使い分けるしか対処が無いです。

例ですと、人が財布盗まれる所に置く方が悪いという意見に対して、僕の考えが盗む方が悪いに決まっているじゃんと言う考え方かなぁ・・・このくらいの考え方のずれは当たり前にあると思います。
ですから、怖がりながらもある程度他人に歩み寄ります、もちろん、歩み寄ってもよいと思った人だけですが(笑)

そして、相手の行動に合せて、距離を変化させて行くしかないのです。人の距離は近くなったり離れていったりと状況に応じて対応していきました。

人に裏切られた事は結構有ります。逆の場合も有ったと思うけど(苦笑)それが故に、ある程度,自分を見せなくなりました・・・私がコラムに掛かれていることは奇麗事であり、私という人間性のほんの一部である事をHPを見ている人が理解して見なければ・・・・いや・・・・書かれている事が私そのものだと疑わないで見ている人も、又いるでしょうね。

今までコラムの中で話してきたように他人が他人を判断する事が難しいのでしょうね・・・・難しいと言うよりも何も考えない人が多い事を意味しているのかも知れません。

それでも私としては人を信じたり、接したりする事はやめるつもりは有りません。人間は人間の中でしか生きられないのだから・・・・。人が分からないから面白いと言うのも分かるんだけど、分かったほうが良い事もあるからなぁ・・・・。

理解すると言う事の難しさを再認識しているだけかもしれませんね。

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