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    1.ファイラン浮遊都市    
       
(6)

  

 非常に気は進まなかったが、ドレイクがフローターで家まで送ってくれると言うのでそれに乗り込み、ほんの十数分で自宅近くの大通りに到着する。

「ドレイク。お願いですから余計な事をせずに、どうぞ、ここから帰ってください!」

「医者に行くならアシがあった方いいだろ?」

「…医者には行きません。だから、アシも必要ありません」

「お前なぁ…、意地の悪ぃ事言うのやめろよ。確かに、いきなりケンカ吹っ掛けた俺も悪かった。それは謝るから…」

 フローターのドアを開けたまま歩道に飛び出し、ハルヴァイトはもう一度ドレイクを振り返った。

「違います、ドレイク。…ミナミは、医者にも誰にも診せられないんです!」

 言い捨てて、ハルヴァイトは全力で走り出した。

 こんな風に必死になっている自分が滑稽でしょうがなかったが、ハルヴァイトは走った。ベッドの上で震えているだろうミナミを、これ以上一秒でも一人きりにしては置けないと、そればかり考えて。

(…三ヶ月。ミナミの出した条件を三ヶ月間守り通せれば、わたしはわたしを「信用」出来るとそう思った。そうしたらちゃんとミナミにも、ドレイクにも、アリスにも本当の事を話して、せめて、ミナミが普通に生活出来るようになるまで………)

 酸素の足りない頭で考えながら、ハルヴァイトがふと口元に自嘲の笑みを浮かべる。

(本当はずっと、どこにも行って欲しくないと…、思ってるけれど)

 ハルヴァイトとミナミ。三ヶ月程前、偶然スラム近くで出逢った二人の「恋人」契約は、三ヶ月。詳細は二人しか知らず、今は話される時でなく、しかしその契約は、履行されている…。

 条件は、簡単。

 ハルヴァイト・ガリューという男が、ミナミ・アイリーという青年に、「触らない」事。でも、それでは「恋人」として不自然、と困って笑ったハルヴァイトにミナミが言ったのは…。

   

「じゃぁ、…キスだけならいい。でも、唇以外は触んな」

   

 おかしな…契約。

 とにかく家に飛び込み、緋色のマントも外さずに二階へ駆け上がる。

「ミナミ!」

 階段を上りきって左は二階のバスルーム、右の一番奥がハルヴァイトの自室で、その手前がミナミに与えられた部屋。この三ヶ月、一度も勝手に踏み込んだ事のないその部屋のドアを数回叩き、答えがないのにはっとして踵を返したハルヴァイトは、上がってきたのと同じ勢いで階段を駆け下りリビングに転がり込んだ。

「……おかえり」

 ミナミは、部屋から持ってきたのだろうブランケットにくるまって、ソファの下、冷たい床に寝転んでいた。

「ホント…随分、早ぇのな」

 力無い笑みを唇に乗せたミナミが、完全に潤んだ青い瞳でハルヴァイトをうっそりと見上げ、顔の前に翳していた手で細い金髪を掻き上げた。

 そのミナミの傍らに膝を突いたハルヴァイトが、精一杯普段通りの笑顔で問いかける。

「起きあがれますか? 部屋まで…歩いて………行けますか?」

 無理だろうと思った。

 汗で額と首に張り付いた髪。どこを見ているのか定かでない滲んだ瞳。仄かに上気した首筋と、浅く早い吐息。

 どうしてやる事も出来ない。

 ついにぐっと唇を噛み、ミナミから顔を背けたハルヴァイトを、当のミナミが少し笑う。そう長い期間ではないこの三ヶ月、ハルヴァイトの見たミナミの笑顔は、いつもこの程度の、微かなものでしかなかった。

「なんで、アンタが…そんな顔すんだよ」

「わたしには、何も出来ないからです…」

「触んなつったの、俺の方だろ」

「だから? でも? そんなのはどうでもいいんです。わたしには結局…何も出来ないんですから。何も出来ず、ただ…あなたの側にこうして居るだけです…」

 消え入りそうに呟いて俯いてしまったハルヴァイトを胡乱な目で見つめたまま、ミナミは苦しげな呼吸を繰り返した。

 意識が、急に朦朧として来る。ハルヴァイトが戻るまではもっと平気だと思っていたのに、鋼色の髪と鉛色の瞳を持つ…まるで機械じみた色彩の顔を見た途端に、世界がぐにゃにゃと混ざり始めた。

「もしかして、気が弛んだって? 俺…」

 呟いて、ミナミがごろりと寝返りを打つ。

 はっとして顔を上げたハルヴァイトを見つめたままのミナミが、今にも泣きそうな表情で、勝手に話し始める。

「なんか今、すげー俺がイヤで堪んねぇ…。ずっと…五年も平気だったのに、たった三ヶ月、アンタと一緒にいただけなのに…、普通にさ…、こういう時手とか貸して貰って、起きあがって、ただベッドまで行ければ…、アンタにそんな顔させなくて…よくって…、こんな風に誰か…………あいつらの事なんか…………!」

 ミナミは最後を悲鳴のように吐き出して、震える両手で顔を覆った。

「もう…、…イヤだ…。アンタの顔も見たくねぇ…。なんでアンタは…、俺に何も訊かないんだよ! なんでおかしいって思わねぇんだよ! 俺に触るなだなんて、なんでこいつはどっかおかしいんじゃねぇかって…!」

 もう、自分が何を言い出そうとしているのか、ミナミにも判らなかった。ただ、本当に何事もなく過ごしてきた三ヶ月があまりにも平和で、一週間のうち一日、ハルヴァイトを迎えに行く時だけ通る大通りの人混みにさえ、それより以前ほどの恐怖を感じることもなくなっていたのだ。

   

 恐ろしいのは、記憶。どれだけの期間だったのか定かでない。しかしその記憶は確実にミナミの中にあり、そして、彼を世界中の「暖かい手」から切り離してしまった。

   

「誰も…俺に触るな…………。もう、誰も俺に触るな…。勝手に俺を物みてぇな目で見て、物だから何しても…いいって………、勝手に………、も…イヤだ………」

 背中を丸めてがたがた震え出したミナミを見下ろしたまま、ハルヴァイトは押し出すように呟いた。

「ミナミ……」

「イヤだ…。暑い。いつも熱い。身体中に…、何か、べたべたしてて…、何か、熱いんだ…。………い、痛いのも…、苦しいの…も、も、イヤ…。部屋の…鉄格子の窓は…それも恐い…。でも、もっ…、もっと恐い…、恐かった、カギが……………」

   

 ガチャガチャ。

 と忙しなく錠前

 を外す音

 に怯えて

 暮らしてた。

   

「最初のあいつから最後に俺を殺そうとしたやつまで五十八人の男が何度も何度もやってきて何十回も何百回も俺を犯した」

「………ミナミ!」

 ミナミはあまりにも静かに、ハルヴァイトが止める間もなくそう言い放って、ソファの座面を支えにふらふらと身を起こし、起きあがろうとした。

「みっ…な、狂って…た!」

 身体の重心が定まらないのか、弱々しく叫んだだけでまたもミナミは、肩から床に叩きつけられるようにしてぐしゃりと倒れる。はだけたシャツの喉元、まるで首と胴体を切り離し損ねた名残のように一直線に走る傷痕が晒されて、ぎくりと全身を硬直させたハルヴァイトが、彼を抱き留めようと出した腕を、咄嗟に引っ込める。

「……俺も…、狂ってる………」

 だらしなくソファに背中を預けたまま、ミナミは胡乱な瞳でハルヴァイトの指先を見つめていた。

「行かなきゃ…、どっか。アンタ、の…いないトコがいい…。だってさ…、俺は…ダメなんだよな。判ってるのに…、その………」

 平和すぎて。取り立てて何もなくて。本当に穏やかで。だから、あと二週間でここを去らなければならないのに怯えたのだ、と溶け流れそうな意識でようやく理解したミナミは、ハルヴァイトの指先に据えていた視線を強ばった顔に移した。

「………………手に、触りたい…」

 ミナミはゆっくりと、熱で小刻みに震える腕を伸ばし、ハルヴァイトの手を…。

「ダメです」

 ハルヴァイトは、きっぱりとそう言い切って手を背中に隠した。

「わたしは嫌です。勝手に触れられて、勝手に怯えられて、あなたが勝手にここから出ていくのなんて、わたしは認めません。わたしは最初に言いましたよね? あなたに恋人になって欲しいんです、と。確かに…その時は三ヶ月の「契約」だったかもしれませんが…………、その三ヶ月は、わたしがわたしを試すための期間だったんです」

 鉛色の眉を吊り上げてハルヴァイトがミナミを睨む。

「ちゃんと聞いていますね? ミナミ。言い直します。わたしが、あなたの恋人になりたい。だから、他の約束は守れなくても、これだけは絶対に破りません。もう誰にも、あなたを傷つけるような真似はさせない。……………例えば、それで誰かを殺す事になっても」

 唐突なセリフに、ミナミはぽかんとハルヴァイトを見上げたまま、何度も瞬きを繰り返す。

「四年半前、王下医療院であなたを見た時、そう決めました」

 王下医療院、という言葉を聞いた途端、ミナミは悲鳴を上げて耳を塞ぎ、ハルヴァイトから顔を背けた。思い出したくない記憶の最後は、医療院で目を覚まし、喉元に巻かれた真白い包帯に触れたさらついた感触と、無表情に医師が告げた「君は死にかけで、ここに運ばれてきました」という宣告。

 悪夢の、終わりとはじまりの場所…。

「なんで…アンタがそれを知ってんだよ!」

 不思議と意識が冷え切って行く感じだった。それに合わせて体温が一気に下がり、がたがた震えながら、静かに見つめてくる鉛色の瞳をこわごわ見上げる。

「偶然です。…わたしもあの時、あの場所に押し込められていたんです。…………。直前、ディアボロ…、わたしの「魔導機」が内蔵兵器の暴発事故を起こして、当時第五小隊に所属していた砲撃手の上半身ともう一人の魔導師の左腕を吹っ飛ばし…、わたし自身に攻撃してきたから…です」

「…………………」

「あの日、あなたの姿を見かけなければ、わたしは…多分二度と軍へは戻れず、死刑に…なっていたはずです」

 言って、ハルヴァイトは自嘲気味に笑った。

「判りましたか? 必要以上に、軍の連中がわたしを恐れる理由が」

 死んだような暗い笑みに、ミナミが震える。

「わたしはきっと、とんでもないワガママをあなたに押し付けようとしているんですね…。勝手にあなたを見かけて、勝手に守ってやりたいと思って、それでやっと、わたしが生き残った事を勝手に許したくせに、あなたが勝手にここを出ていくのは許さない、なんて」

 鉛色の睫を伏せ、ハルヴァイトが短い息を吐き出す。

「ミナミ…、どうぞ、わたしにあなたを守らせてください。わたしはこの四年半、それだけを望んでいました。そして…」

 秘密。ハルヴァイトの抱えた…内在する不安。

「…わたしを…」

「お前! 病人相手に何落ち着き払ってんだよ、ばっかやろう!」

 最後の告白は、無神経な闖入者によって遮られてしまった。

  

   
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