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 今日までだって、確かにいろんな事はあったわ。

 一瞬の幸福と引き換えにたくさんの制約を自分に科してしまったひとだって、毎日出てくる秘密を護り通すために恋人を遠ざけたひとだって、恋人を手に入れるために命を投げ打ったひとだって…。とにかく、「ささやかな幸せ」を実感するために、あたしたちは確かに誰かをどこかで傷つけていた。

 それは、判る。だからあたしはいつか誰かに傷つけられても、その誰かを恨んだり罵ったりしないでいようと思ってる。

 でも。

 これはあんまりだわ。

 どうしてなの?

 その質問を誰にしていいのか、あたしは判らない。

 どうしてなの? ミナミ。と言いたいのか、どうしてなの? ウォル。と言いたいのか、あたしには判らない…。

 だって。

 きっと今議事堂にいるふたりこそ、際限なく傷付き終わったはずなのに。

 誰の差し伸べる手も握り返せない、ミナミ。

 握り返すべき手を自分で突き放さなければならない、ウォル。

 これ以上、どう傷付いていいというの?

 君たちが。

   
   
(4)アリス・ナヴィ

  

 五分待つ。と宣言したウォルは、言葉通りモニターの中でぴくりとも動かなくなった。

 空いた時間、第七小隊執務室には重苦しい沈黙が降り、アン少年も、デリラも、アリスも、ヒューさえ無表情に、睨み合うレジーナとドレイクから視線を逸らした。

「は…。アドオル・ウインね、いいだろう。そいつがミナミを監禁してた親玉だってのは判った。それで、ハルが議会に乗り込んでそいつをぶち殺し兼ねねぇから、それをやらせたくねぇから拘束か? それにしちゃぁ…陛下の安っぽい演説が気に食わねぇな。レジー…、おめー、知ってる事は全部話すつったよな」

「話すよ」

「じゃぁ、教えろ。本当は、何をしようとしてやがんだ? 陛下と…ミナミはよ」

「ファイランを、十七メートル上空の理想航路に戻すのだそうだ」

 レジーナは極力感慨無さげにそれを呟き、しかし、受け取ったドレイクや執務室の面々は、驚きに顔色を変え、息を飲んだ。

「通常浮遊都市が一年間で上下する高度は、数センチから数十センチという、都市の規模から考えれば微細な物だが、このファイランは、ここ数十年で十七メートルも高度を下げていた。そしてその原因を先王から引き続き調査していた陛下は、ファイランに陛下の…王室の知らない空間があるのだという結果に行き着いたんだよ、ドレイク」

 それからレジーナは、その空間が始め「超重筒(ちょうじゅうとう)」というファイランの「子宮」二機だと想定されていたが、その後、「超重筒」一機とまったく別の「施設」数箇所、それに、市民コードのない「幽霊王都民」数十人、という内訳に訂正された旨を、言葉もなくレジーナを見つめる面々に伝えた。

「……アドオル・ウインがもしも王政転覆でも狙っているのなら大いに歓迎するのに。と昨日拝謁した際陛下は笑っておられた。しかし、ウインの目的はそれではないんだ…。ただ単純に、たったひとり、ウインが望んで「造り上げた宝」を取り戻すために、彼は動き出してしまったんだよ……。五年前に、失敗したから」

「失敗? 何にあいつは失敗したってんだ」

「………………堕落しきった天使と一緒に、死ぬ事」

 天使。

「どうしてミナミくんがぼくを呼び寄せてまでハルヴァイトや君を遠ざけようとしたのか、教えてやる、ドレイク。これは事実だ。ミナミ・アイリーは、最初から…アドオル・ウインが自らの手で「殺すため」に、違法な「超重筒」で、しかも外見をあるものに似るよう遺伝子に手を加えて「合成」され、生れた」

 突然ファイランに現われてしまった、………………。

「あるもの……あるひと…伝説の……、議事堂天上におわす、青い目の…天使」

 淡々と明かしたレジーナを灰色の瞳で見つめてからなぜかドレイクは、ふとヒューに視線を転じた。

「なぁ、スレイサー衛視。おめー、それ聞いてどう思った? アン、デリ、アリスも、今それで、ミナミをどう思ってる?」

 独り言のように呟きながらドレイクは、濃紺のマントの合わせに手を遣り剥ぎ取ったそれを、………ばさりと床に落したではないか。

「俺ぁよ、それでなんで俺たちまでここに押し込められてんだろな、と思ったよ。

 ハルは…判るさ。あいつぁ見境ねぇからよ、ミナミが、あいつに何もしないで欲しいから防電室に閉じ込めた、つうのは、判ったさ。

 でも、なんで俺まで足止め食らわせられて、レジーに驚かせられてよ、こんな…どうでもいい事聞かされて、黙ってここに居るんだか、判んねぇな。

 だっておめーら、考えてもみろ。ミナミつったらよー、ハルどころか、俺たちの頼みだってまともにゃぁ聞いてくれなかったんだぜ? 何かしでかすたびに、心臓引っくり返るくれぇ脅かしてくれてな…」

 俯いて溜め息を吐き、がりがりと白髪を掻き毟る、ドレイク。

「なのに、俺ぁ危なくミナミの言いなりになって、ここで大人しく俺の不甲斐なさを反省しそうになったぜ」

 はっ。と、ドレイクは吐き出すように笑った。

「…………俺ぁ決めたぞ、ちくしょう。こうなったら、最後の最後までお節介でいてやろうじゃねぇか、ええ? いいか? 誰も邪魔すんなよ! 全部終わったら軍なんか辞めて屋敷に閉じこもったきり余生楽しんでやっからよ、今だけは誰も俺の邪魔すんな!」

 言うなりドレイクは、深緑色の制服に回されたベルトを解いてマントの上に投げつけ、膝を叩くような長上着まで脱ぎ捨てた。

「邪魔なんてしないわ、あほくさ。ただ……利害が一致してるから手を組まない? とは言うけどね」

「? ……アリス?!」

 振り返ってぎょっとしたドレイクに並んだアリスは…アリスも、あの青い制服を床に散らかし、白いシャツと黒いスラックス、長靴(ちょうか)、という、ドレイクと同じ姿になっている。

「言う事を利いてやるやらないじゃないわ、あたしのは。言いたい事があるのよ、ハルに…。訊きたい事があるの」

「うーん。部下としてですね、こういう上官を持つと苦労すんですよ、というのくらいはぼくも言いたいと思います」

「大将に意見しようねんて、ボウヤもちったぁ大人になったのかね。おれぁまた、めそめそ泣き出すのかと思ってたんだけどね」

 同じく上着を脱ぎ捨てたアン少年を、白シャツ姿のデリラがにやにや笑いながらからかう。

「どーしてぼくが泣くのさ、デリ。今日泣いていいのは…ミナミさんだけでしょ?」

 誰も泣かない。誰も傷付かないから。

「あぁ、ちなみにですね、ダンナ。ミナミさんがどうとかこうとか聞いたからつって、おれぁどうも思えませんでしたけどね」

「第一ですねー、ミナミさんは結局ミナミさんな訳ですし」

「見栄えがいいだけじゃああもかわいく育たないわよ、普通。で? わたしたちは言ったんだから、君はどう思ったのか教えてくれるんでしょうね? ドレイク」

 うふ。と、唖然とするドレイクの肩に顎を載せ、アリスがウインクした。

「…あの強情はどうにかなんなかったのか? と、思った」

 つまり誰も、ミナミに今更どうも感じなかったのだ。

 確かに生れた瞬間は違っていたかもしれない。しかし彼らの知るミナミは、結局ミナミ・アイリーという、無表情で突っ込みが厳しく無鉄砲で桁外れに綺麗で強情で、本当の事をひとつも言えない程ハルヴァイトを…。

「軍規違反は自宅謹慎。しかも今回のは確実降格だぞ、おめーら」

「謹慎になるとね、スゥの機嫌がいいんスよ」

「これでやっと、マーリィとショッピングに行けるわ」

「じゃぁ、ぼく、イルシュと一緒に訓練校戻るのかな?」

「「「それはない」」」

「うーーーー」

 なんでだー! とアンが叫んだのを合図に、ドレイクがヒューに、アリスがレジーナに飛び掛かった。

「ごめんね、レジー。でもあたしたちは判ってるの。ミナミがハルを遠ざけたかった本当の理由を、あたしたちは知ってるのよ」

 咄嗟に一歩後退して迎撃の構えを取ったレジーナの足に、滑り込んできたアンがタックルし、まさかそう来ると予想していなかったレジーナ…王城で一番強いかもしれない男が、あっさり床に転がった。

「ミナミは、ハルを好きだと言ってしまうのが恐いだけなのよ」

 それでレジーナをその場に残したアン少年とアリスが、踵を返しドアに向き直る。

「言っとくけどな、ヒュー・スレイサー! 俺ぁてめーに勝てるなんて思ってねぇぞ!」

「…ヤな自信たっぷりっスね、ダンナ」

「ばっかやろう、陛下付きの警護班班長に勝っちまったら、俺が班長になれんだろ」

 言って咄嗟に顎を引いたドレイクの鼻先を、ヒューの拳が掠る。

「だったら大人しくしていろ。そうすれば、余計な怪我はしないで済むぞ」

「だったら、スレイサー衛視も一発で諦めてよ。余計な怪我は嫌でしょう?」

 ドレイクとデリラはアリスの声を耳にするなり、ドアの前に構えを取って立ち塞がるヒューを取り残し左右に飛び退いた。

「!」

 刹那、ふたりの背後に迫っていたアリスがヒューの眼前に忽然と姿を現す。視界の隅から跳ね上がって来た右の拳を受けようと右掌を開き、身体に引きつけていた左の裏拳をアリスの鳩尾狙って繰り出そうと体(たい)を右に開いた刹那、アリスの細い左腕がヒューの首に…前から絡み付く。

「ごめんなさいね、スレイサー衛視。あたし実は間接技の方が得意なの」

 艶やかに弧を描いたアリスの唇にぞっと背筋を凍らせ、ヒューは反射的に身を引こうとした。

 それで結局、逆手に首に回されていたアリスの腕を引っ張る形で間合いを取ってしまったヒューは、完全に身体を右に開き切った所で膝の裏を軽く蹴られ仰け反るような格好で床に沈み掛けると、アリスはそれに合わせ、短く腹腔の息を吐くのと一緒に、右…ヒューの首に当てた腕の肘に、力を入れた。

 一瞬、ヒューが息を詰まらせる。

 ごめんねぇ。と本気で痛そうな顔をしつつも、アリスは後ろに倒れ掛けるヒューの踵を蹴飛ばしてついに彼を床に転がし、その上空を飛び越えて廊下に走り出た。

「ひめの強さは見事だねぇ、相変わらず」

「ああ、まったくだ。ある意味ハルよか怖ぇよ…」

「自分の受ける被害目に見えてますからねぇ、アリス事務官の場合。小隊長みたいに、周辺広域に拡大はしないですけど」

 喉の間接を極められて激しく咳き込むヒューの上空を、まさか逃亡者とも思えない口調で好き勝手な事をほざきながら、第七小隊の面々が飛び越えて行く。

「…………ヒュー…生きてる?」

 連中の姿が消えて、ようやく床から起き上がったレジーナが、未だ咳き込むヒューを助け起こした。

「…というか、ナヴィが本気だったら死んでたぞ…」

「女性も強くあるべき、なんて面白い事を言ってぼくとクラバインが徹底的に仕込んだんだから、君だって叶う訳ないよ、アリスには。天性的に筋もいいし」

「先に言ってくれ………………」

 床に座り込んだままふーっと溜め息を吐いたヒューに朗らかな笑みを向け、レジーナもその場に座り込んだ。

「まぁ、これで連中は予定通り拘置棟に向かった訳だし、ぼくらの任務はここまでかな」

「それにしても、睨下はなぜ、お前にだけこんな面倒な命令を出して来たんだ? ガリューを…自発的に議事堂へ向かわせろ、なんて」

「? さぁ」

 言いながらも、なぜかレジーナはひっそりと微笑んでいた。

「とりあえず、陛下にバレたら恐いからじゃないかな」

 レジーナがそう言った途端、丁度五分過ぎたのか、モニターの中で動かなかったウォルが、ゆっくりと長い髪を掻きあげて不敵に笑った。

「では、始めようか。懺悔の時間は、もうないからな!」

  

   
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