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11.ホリデー モード      

   
         
(5)

  

「髪、伸びたよな」

 薄い灰色のシャツの肩から背中に流れる不思議な光沢の髪を後ろから胡乱に見つめていたミナミが、ぽつりと呟く。振り返って、鎖骨の下まで届いている髪に視線を落としたハルヴァイトは、それを指先で摘み上げ、なるほど、と妙に感心したような溜め息を吐いた。

「一年以上ほったらかしてましたからね…。仕方ない、ドレイクのところにでも行くか」

「? なんでミラキ卿? 普通は床屋だろ?」

「リインにやってもらうんです。わたしは時々行って毛先をちょっと揃える程度ですが、ドレイクの散髪はずっとリインがやってるんですよ」

 ドレイク・ミラキは、ミナミが出会った頃から一分の隙もなく同じ髪型をしていた。左右は短く刈り込んであって、上の方が少し長く、前髪はふわりと横に流れている。肌が浅黒く、しかし髪は見事なまでの白髪で、少しでも乱れたらやたら目に付きそうな色目の男なのだ。それが全く気にならない、ということは、余程念入りに手入れしているのだろう。

「………………ミラキ卿って…髭伸ばしたらどうなんだ?」

 余計な事だが、妙に気になる。

「薄くて伸びないらしいですよ。いっぺん勤務中に伸ばしてみようという事になったんですが、四日目の昼頃、アンが…」

         

「この前ね。家に帰ったら戸棚の中にパウダーシュガーのチョコケーキが残ってて、こんなものあったかなぁ、とは思ったんですけど、とりあえずおなか減ってたので食べようとしたら、それ、普通のチョコケーキの表面がカビてただけなんですよね…」

        

「と、いきなり……ドレイクの顔を見て言い出しまして」

 にやにやしながらハルヴァイトが言い、ミナミは、彼にしては奇跡的に珍しく、シンクに掴まって吹き出してしまった。

「それ以来、ドレイクに髭の話はしないように、と命令しておきました」

「…マジ、アンくんて天然な」

「素直と言うか、正直と言うか…。いいコなんですけどね」

「憎めないんだから、そんで十分だろ」

 揃いのカップを二つ持って自分もキッチンのテーブル、ハルヴァイトの向いに着いたミナミが、まじまじとハルヴァイトの顔を覗き込む。それに小首を傾げて見せた彼から目を逸らさず、こちらはおおよそ髭など縁のないだろう綺麗な青年が、ぴ、とハルヴァイトの鼻先に指を突き付けた。

「アンタも薄い?」

「伸びないですね。ドレイクといい勝負じゃないですか? 基本的に、電脳魔導師というのは髭とか黒子(ほくろ)とか、そういう身体的特徴になりそうなものとは縁遠いんですよ。表面上判り易いのは臨界占有率表示(プライマリ・テスト・パターン)ですが、実際は…あまり知られてないんですけど、電脳魔導師の「構造」自体に臨界に接触するのに必要な情報が組み込まれているようで、…遺伝子内部に、というのかな…、省かれてるんじゃないですか?」

 省かれている。

 ウォルの言った通り、最初の電脳魔導師が「人造人間」だとすれば、データ化された「魔力圏」にアクセスしようというそのひと等に必要のない情報は、省かれていてもおかしくはない。

 ミナミと同じに。

「…そういや、ガン卿も髭生やしたらもっと貫禄出そうなのに、生えてねぇしな」

 刹那の杞憂。しかしそれを思い悩むのはあまりにもばかばかしい気がして、ミナミは素っ気無く言い、飾り気のないカップをハルヴァイトに差し出した。

 どうでもいいよ、そんな事は。と本気で言いそうな…というよりも、本気でこの恋人はそう思っている。

 ミナミがミナミであってここにいてくれると言うなら、わたしが纏めて全部愛してあげます。と…。

 ハルヴァイトの傾けたポットから湯気が立ち上がり、珈琲が香る。今日はどういうブレンドになっているのか、それはいつもより少し苦そうな色に見えた。器用そうにも見えるのに、何もしたくない大きな手。この家に来てから一年間、本を読むのと珈琲を煎れるの、あとは時々気が向いて皿を洗っている程度の手が、実は、この都市で唯一ミナミに触れていいものだとは、なんとも奇妙な感じだった。

 逆か。

 ミナミに触れる、抱き締める、それだけでいい。

「? わたしの手に、何かついてます?」

「…いや。料理とか、全然出来ねぇのかと思って…」

「やった事ありません」

 きっぱりと。

「やろうと思った事は?」

「それも、ありません」

 更にきっぱりと。

「それで今までどうやって生き抜いて来たよ…アンタ…」

「それなりに」

 どうぞ。と朗らかな笑みでミナミに珈琲を差し出したハルヴァイトが、テーブルに軽く肘を載せてそっぽを向いている恋人の横顔を見つめる。

「ミナミは…」

「何?」

 珈琲を受け取って小首を傾げた綺麗な青年の、盛大に毛先の跳ね上がった金髪。

「あまり髪が伸びないですね」

「アンタ、まだ寝ぼけてんのか? いくら俺でも髪くらい伸びんだろ」

 人として。

「じゃぁ?」

「切ってんの。もしかしたら、アンタよりマメに」

「どうやって!」

 ハルヴァイト、悲鳴…。

 ミナミはやっと最近、姿が見えてさえいればハルヴァイトに「触れる」(ちなみに、抱きつく、程度までは進んだようなのだが…)ようになったばかりなのだ。心因性の極度接触恐怖症。この家に来た当初は、急に目の前に誰かが立ちはだかったり、視界に入るように手を差し伸べられただけでも動けなくなるほど、酷い有様だったのに。

 さぁ、そのミナミが「髪を切って貰う」などという行為に耐えられるか? となったら、まず無理。では、可能性はひとつ?

「……………非常に訊き難いんですが、どこで、誰に…切って貰ってるんですか?」

「つうか、言うと思った。面白いな、アンタ。まさか俺に専門の散髪屋がいるとでも思った?」

「えー…」

「髪に触られても平気な?」

「あー……」

 ミナミは無表情にハルヴァイトを見つめ、ハルヴァイトは何か言いたそうな顔でミナミを見つめ返す。

「あのさ」

「………はい」

「手ぇ出せ」

 ここ。とテーブルの中央を指差したミナミに命令されて、ハルヴァイトは無言で手を差し出した。

「触っていい?」

「どうぞ?」

 テーブルの上に置かれた、ハルヴァイトの手。その、自然に折り曲げられている指にそっと指先で触れ、ゆっくり開いた掌でも包み切れない彼の手に華奢な手を重ねて、ミナミはふわりと薄く笑った。

「誰かに触れると思ったの、五年ぶり」

 艶やかに弧を描いた唇と、俯いた長い睫。ハルヴァイトはそれから目を逸らさず、ゆっくり目に見える早さで指を伸ばし、重ねられているミナミの指先に絡ませた。

 時間をかけて。

 ミナミが怯えてしまわないように。

 ハルヴァイトをハルヴァイトだと判ってくれるように。

 有り余る時間の全てを費やしてもいい程に、ゆっくりと。

 縋るように、離れないように、絡ませる。

「って俺が、他の誰に触れる?」

 ばーか。と言いたげに眇められたミナミの蒼い瞳。

「自分でやってんだよ。でもさ、そうすっとどうしてもこう、毛先が不揃いになるし、真後ろは届かねぇし、結構大変」

 肩を竦めたミナミの顔に視線を戻したハルヴァイトが、納得したように頷いた。

「だから、襟足が少し長いんですね」

「うん。それに、こうしとけば毛先が揃ってねぇのあんま気になんねぇからさ」

 盛大に跳ね上がった毛先部分を指で摘んで小首を傾げたミナミ。それを、彼の手を握ったまま少し見つめ、ふーん、と妙に素っ気ない吐息を漏らしてからハルヴァイトは、湯気の立つカップを取り上げて、唇に持って行った。

 ミナミの手を握ったまま。

「……リインに、少し切って貰ったらどうです?」

「…それ………………」

 まるでなんでもない事のように言われたものの、ミナミは大いに迷った。

 ハルヴァイトなら、怖くはない。最初に姿さえ見えていれば、その後はなんともない。でもそれはあくまでもハルヴァイトだからで、それ以外のひとに…いかに親しいひとといえども、適用されるかどうかは甚だ疑問なのだ。

「大丈夫」

「? いや、アンタじゃなくて…」

「ずっと手を握っていてあげます。わたしが」

 浮かせたカップに唇を寄せたままハルヴァイトはそう囁いて、朗らかに笑った。

  

   
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