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11.ホリデー モード      

   
         
(8)

  

 貴族の屋敷然としたミラキ邸は、しかし無駄に大きい訳ではなかった。

 応接室、七つの客間、食堂、広間…。私室と呼べるのはドレイクとイルシュの使っている部屋、それから、リインが寝泊まりする部屋だけで、それが屋敷の大半であり、残りは厨房だとか風呂だとか、そういう、生活に必要と思われる小部屋。屋敷詰めの使用人が暮らす小ぶりな集合住宅と、過去、エルメス・ハーディの住んでいた小さな離れは、庭園の片隅に建てられている。

…死んだ母親の私室は、この屋敷にない。普段彼女は実家であるハイチ家に住まっており、ドレイクがそこを訪ねるか、彼女がこの屋敷を訪れた時にしか会った事がなかったのだ。

 それを、どうとも思った事はない。ドレイクを教育したのはリインを筆頭とする執事たちであり、帰らない父親に比べ「会議が少ない」という理由で屋敷に戻っている事の多かったエルメスであり、五歳の誕生日から毎日のようにやって来ていたアリスと、アリスの教育係だった「フロイライン・エスコー」という盲目の男なのだ。

 フロイラインの素性をドレイクが「詳しく」知ったのは、随分大きくなってからだった。子供の頃は、いつもアリスと一緒に居てふたりの質問に笑顔で答えてくれた。彼が何者で、なぜナヴィ家の教育係をしていて、リインの介添えがなければ屋敷の中を歩く事さえ出来ないのに、アリスの手を引いて(引かれて、だったのかもしれない)毎日ミラキ邸にやって来るのか、ダイアスとエルメスは、「いつか知らなければならない時が来るまで、訊いてはいけない」とドレイクに言った。

 そしてある時、「知らなければならない日」は唐突に訪れ、ドレイクはフロイラインの口から真実を聞く。そう、あの女性的な白皙にべったりと陰を落す、両眼を塗り潰した毒々しい傷痕の理由も…。

 生活に必要な何種類かの小部屋。そのうちのひとつが、浴室正面の衣装室だった。

 いわゆるドレイクの「正装」などが収められてる場所なのだが、大きな三面の姿見などもあり、ここでは…。

「……………床屋か」

 衣装室の前に立ち、ドレイクはやや乱れ気味の白髪を掻き回しながらひとりごちた。

 ドレイクとハルヴァイトの散髪は、リインの仕事と決まっている。それこそ当代ミラキ卿などは二週間に一回以上用もなく散髪して身奇麗にしていたが、時たまやって来るハルヴァイトは、リインにしつこく付き纏われて渋々毛先を整えて貰ったりするのだ。

 暇潰し、という訳でもないだろうが、何かがどうにかなって、どうせミナミに「髪を少し切れ」などと言われたハルヴァイトがふたりで屋敷に来たのだろう、とドレイクは衣装室のドアに手を伸ばしながら少し笑った。

 幸せそうで何より。…まだ少し後始末は残っているが、それさえ終われば誰もハルヴァイトとミナミを引き離すような真似などしないし、まず、それを黙って見逃す気も、ドレイクにはない。

 ハルヴァイトの、ミナミの、穏やかな生活と引き換えに、例えばドレイクが父親と同じ愚かな間違いを犯しても、だ。

「二番目の「ハル」をミラキから出すような真似だけは、しねぇけどな」

 バカだね、俺もよ。と内心でだけ溜め息を吐き、ドレイクは衣装室のドアを軽くノックしてから、「よう」と声を掛けながらそれを押し開けた。

………………で。

 バアン! と……………開けた勢いで、閉める。

 完全に硬直して、瞬きも忘れ。

「? どーしたんです? ドレイクさん」

 蒼白になってじっとドアの一点を睨んでいるドレイクの横顔に、厨房からワゴンを押して来たイルシュが小首を傾げ問い掛けた。しかしドレイクはそれに答えず、ドアノブを掴んだまま意味不明の唸り声を発しているばかり。

「邪魔なんですけど」

…ひどい言われよう…。

 でも、ドレイクはまだ答えない。

「どいてくださーい。っと」

 イルシュは言いながら平然とワゴンでドレイクをドアの向こうまで押し遣り、ノックもしないでいきなりそれを開け放った。

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 ドレイク、声にならない悲鳴。

「あれ? ミナミさん、まだ終わってないの?」

「…うん」

 苦笑いを含んだミナミの声。

「ところでイルシュ、その辺にドレイクがいませんか?」

 今にも吹き出しそうな、ハルヴァイトの声。

「いるよ。ドアの前で、今にも倒れそうな顔してる」

 これまた平然と答えたイルシュ少年がワゴンを押して室内に入り、クロゼットから離れた場所にそれを据えて、お茶の支度を始める。

「それなりの覚悟をなさってからおいで下さいと申し上げて置きましたのに」

「つうか、どういう方向にそれなりの覚悟が必要なのかちゃんと言っとけ、俺に!」

 開け放たれた切りのドアに飛びついたドレイクは、しれっと答えた執事頭に突っ込んでから、真正面、床から天井まである三面鏡の姿見に視線を据えた。

 恐る恐る。

 というか。

 信じられない光景をなんとか信じようとするような、決死の表情で。

「………………」

 映っているのは、鋏を握ったリインの動じない微笑み。もたもたとお茶の支度をするイルシュの不慣れな手つき。白い布を肩に被せられたミナミの少し困ったような顔と、俯いて必死に笑いを堪えている…背中に流れる毛先を随分切ったらしいハルヴァイトと、絵に描いたような間抜け面のドレイク。

 いつもより襟足もサイドも短くなってはいるが、やっぱり盛大に毛先の跳ね上がった見事な金髪。それに飾られた乳白色の肌と、人形のように整った綺麗な顔と、ダークブルーの瞳と、それと…。

 ミナミの華奢な手が、ハルヴァイトの手をしっかり握っているという、奇蹟。か?

「…あの、リインさん………。もう、いい?」

 よく見れば微かに緊張した面持ちのミナミが、それこそハルヴァイトの手に爪を立ててしまいそうなほどに握り締めたまま、瞬きもせず鏡の中のリインを見つめて呟く。

「はい。では、残りはハルヴァイト様にお願いするといたしましょう」

 そう笑顔で言い置いたリインが、ミナミの横に置いていたワゴンから大きな刷毛を取り上げてハルヴァイトに渡す。その一挙一動を鏡の中に見つめ、リインが一歩後退してミナミと距離を取った、瞬間、誰にも触れられない「はず」の青年は、短く息を吐いて、握り締めていたハルヴァイトの手を、そっと放した。

「随分時間掛かったね」

 その「ドレイクが唖然とするような事」にも動じていないらしいイルシュが、煎れ終えた紅茶をドレイクに押し付ける。

「…それは…………さすがに最初、ちょっと…俺がダメでさ。二・三回中段しちゃったから」

「でも…お前、リインに髪切って貰ったんだろ?」

 やっと働き始めた頭で事態を理解したドレイクが、紅茶のカップに唇を寄せてミナミに問い掛ける。

「うん。つか、見りゃ判んだろ、ミラキ卿」

「見ても信用出来なかったんだよ!」

 まさか、ミナミがハルヴァイトの手をしっかり握り、リインに髪を触られて、それでも逃げ出さずに居る、などと、誰が俄に信じられようか…。

「まさか疲れ気味で夢か幻見たにしても、有り得ねぇと思ったよ…」

「ほー。じゃぁ、わたしがつねってあげましょうか? ドレイク」

 後片付けを始めたリインを躱し、ハルヴァイトがよこされた刷毛でミナミの襟だとか首筋だとかに残った細かい髪を払い落とす。

「顔は自分で出来ますね?」

「うん。どうも」

 ミナミ自身では手の届かない部分だけを一通り払い終えるたハルヴァイトは、刷毛をワゴンに戻し、ミナミの側を離れてしまった。

 それで、判る。

 ハルヴァイトとミナミの「ルール」は、まだ…有効でもあるのだと。

「リインさんも、どうもありがとう」

 ぱたぱたと衣服に付いた髪を叩き落しながら、ミナミがリインに顔を向ける。それを受け取ったミラキ家の執事頭は、皺の刻まれた口元に柔らかい笑みを載せ、こう答えた。

「次の目標は、旦那様よりも先にミナミ様の抱擁を受ける事にしようと思います」

「つか、……………意味不明の目標立てんなって…」

「リイン…その時は、それなり以上の覚悟をしてくださいね…」

「てかハル…ウチの執事を脅すなよ…」

 溜め息交じりにそう突っ込んで、それから傍らのイルシュに視線を移したドレイクが、ふと口元をほころばせる。

「? どうしたの? ドレイクさん。にやにやしちゃって」

「…なんでもねぇ。リイン、お茶の支度をこのままテラスに出せ。ミナミの散髪も終わったしよ、外で軽くお茶にでもしようや。それからおめーら、今日は夕食呼ばれてけよな。仕事も一段落着いたし、俺ぁ今日もう出掛けねぇからよ」

 あ、じゃぁおれが持ってくね。などと明るい声でイルシュが言い、それに先立ってリインがテラスに通じる大窓を開け放つ。ミナミは「首がちくちくすんだけど」と言いながらもイルシュに手招きされてテラスに爪先を向け、そう広くない衣装室には、ドレイクと、そのドレイクをじっと見つめるハルヴァイトだけが残った。

「………………ドレイク…」

「は! なんだよ、おめー。こういう時にハルが先に何か言い出すなんてよ、俺にゃあんま記憶にねぇぞ」

「それだけ気掛かりな事があるんですよ。わたしにだって」

「ハル、物事ってのは、なるようにしかなんねぇ。…でもよ、俺ぁこの四日間でありったけの手ぇ使った。無い知恵も絞ったしな。それで出た結果におめーは不満かもしんねぇけどよ、少しの間だけ、我慢してくれ」

 ドレイク・ミラキは、テラスではしゃぐイルシュと、淡い光の中に溶けてしまいそうなミナミを眩しそうに見つめた。

「大丈夫。おめーが思ってるより、「ミラキ」って名前は………無駄に重いモンなんだよ」

  

   
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