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11.ホリデー モード      

   
         
(23)

  

 少女は十歳の誕生日に、始めて、自分に兄が居ることを知った。

 それから、おとーさまとおかーさまが実は「猊下」と「女王」であって、兄が「陛下」である事も。

 少女は、毎日たくさんの事を知った。学校の勉強をして、それから「王室」の勉強をするのはちょっと嫌で…実はすごく嫌でたまらなかったが、それを覚えないとおにーさまには会わせないよ、と普段笑ってばかりの父が笑わずに言ったから、それは絶対に守らなければならないのだと判った。

 少女が兄の写真を見せて貰えたのは、やっと十一歳になってからだった。

 少女は…兄にその存在を知られないため、第一エリアに暮らしていた。普通に父と母がおり、といってもこのふたり、時々姿を消すので困りものだったが、そう広くないがそれなりの屋敷にふたりの使用人と一緒に暮らしていて、通っていたのは一般の初等院だった。

 王城エリア以外の少女達は、初等院だけを一般の…つまり男の子たちと同じく机を並べる事も少なくない。貴族だとか魔導師だとかなんだとか面倒な組織の集中する王城エリアに比べれば、それ以外の場所の少女達は意外に自由なのだ。

 それでも中等院に上がると女子校舎になるし、職業を持とうとするとエリア管理館の屋敷に入ったり、取り立てられて(見初められてか?)王城エリアに移住させられたりする。

 最初から家柄もよく個別の英才教育が主流の王城エリアに比べれば、十分「普通」に見えるのだが。

 とにかく、少女が兄の写真を見たのは十一歳になってからだった。

 それから少女は、兄の写真を肌身離さず持ち歩いた。

 ある日、おませな少女達が教室の片隅に集まって、こんな話題に花を咲かせる。

「ルニにはスキなコいる? あたしはね、レイリーがかっこいいと思うのよ」

 友人の真面目腐った顔を見ながら、少女は一枚の写真を取り出し、こう言った。

「ダメだよ、ルニはね、おにーさまのお嫁さんになるんだから!」

 それから……。

       

       

 少女は、家に居るのと同じように父と母の間に座り、じっとその「兄」を…動いているのは始めて見る「おにーさま」を見つめていた。

 そのひとは、母よりずっとキレイだった。

 所々癖っ毛の混じったルニの黒髪は随分気をつけてやらないとすぐ寝癖みたいに毛先が跳ね上がるが、「おにーさま」の黒髪は腰まで長くて艶々していて癖ひとつない。伏せたように密集した長い睫とか、薄く微笑んだ紅い唇だとか、ルニが今まで見た事もないような豪華な衣装をさりげなく完璧に着こなしている事だとか、全部が全部「夢みたい」だった。

 最初はその「おにーさま」に会えるのだとはしゃいでいた少女だったが、ここに来て、写真でしか見たことのなかったあの黒い瞳に見つめられて急に大人しくなってしまった事を、キャレとアイシアスは目配せあって笑った。

 何せルニと来たら、今朝「おにーさまに会いに行く」とキャレに告げられてからずっと、喋りっぱなしだったのに。

 それだけ、ウォルに気を取られているのか…。

「ルニ?」

 立ち上がり、最後まで手を握ってくれていたアリスに微笑みかけてからその手を離してルニの正面にやってきたウォルが、囁くように少女の名前を呼ぶ。多分始めて自分に向けられたその声に、少女は耳まで真っ赤になって、俯いてしまった。

「さぁ、ルニ。教えたろう? おにーさまは「陛下」なんだぞ。確かにウルはお前の「おにーさま」かもしれないが、その辺に居る赤マントども以外は敬わなければならず、それは、お前も例外ではない」

「さー。がんばろうね、ルニ。きちんとご挨拶出来ないと、おにーさまに嫌われてしまうよ?」

 母は少女に優しいが厳しい言葉をかけ、父はあくまでも笑顔で耳元で囁いて、少女の手を離した。

 ルニがおどおどとカウチから立ち上がる。やせっぽちで少女らしさに欠ける立ち姿は、アイシアスが始めて出会った頃のキャレとよく似ていた。ショートカットにされた、ちょっと癖のある黒髪。キャレとウォルにはまるで癖がないのにルニの髪が緩やかに波打っているのは、アイシアスに似たからだろう。二重の大きな目とふくよかな唇が子供の頃のウォルよりも穏やかな印象なのも、顔の作りがやっぱり父親に似ているからだった。

 だからキャレとアイシアスは消えそうな笑みを口元に浮かべ、全て間違っていなかったのだと心の中で頷いた。

 冷然と美しく王となるべくきらびやかな兄と、これからこの都市を妖精の力を借りて護るだろう少女。

 ルニはゆっくりと顔を上げてウォルを見つめ、足首まである長いスカートの裾を摘んで軽く膝を折り、頭を垂れた。

 ぎこちなく。

 室内に朗らかな笑いが起こってしまうほど、緊張気味に。

 言葉はかけなくてもよい、とキャレに言われていたルニは、そのままおにーさま…陛下が口を開くのを待った。苦手な数学の問題で教授に当てられた時よりも固くなっていると自分でも判ったが、判ったところでどうする事も出来ないし……。

 許されない。

 目の前に佇んでいるのは、ルニの兄であり、ファイラン国王陛下なのだ。

「…礼を解いて顔を上げるんだよ、ルニ。

 それから手を差し出す。甲を上にして……。

………マーリィ」

 これは儀式なのだ、と気付いたウォルが、刹那躊躇ってから振り返り、真白い少女を呼ばわった。それに笑顔で「はい」と答え立ち上がったマーリィは、ごくごく自然な仕草でウォルに歩み寄り、キャレとアイシアス、それから、泣きそうな顔で戸惑っているルニに会釈してから、少女の傍らに並んだ。

「ルニ、マーリィのする事をよく見ておいで。成人前の女性は、こういう風に振舞うものだからね」

 言われて、マーリィがすぐにルニと同じようにスカートを摘んで頭を垂れる。が、彼女はすぐに顔を上げ、姿勢を正してそっとウォルに手を差し出したのだ。

 その真白い手を今度はウォルがうやうやしく取り、引き寄せて、軽く指先にくちづけ。マーリィはいつもと同じにふかふかと微笑み、ウォルが笑みを返す。

「…アリスとレジー、クラバインに感謝を、マーリィ。お前はきっと立派な淑女になるね。

 それから…そうだな、ここに居ないエスコーの代わりに、エストにもお礼するといい」

 貴族としての教育を全く受けていなかったにも関わらず、マーリィの行儀作法は完璧だった。

 クラバインが言った。レジーナが賛成した。だからアリスが教え、そのアリスの行儀作法の教授はドレイクと同じ、「フロイライン・エスコー」という盲目の男性だったのだ。

       

「マーリィも、いつか貴族会に出席する時が来る」

         

「はい。ありがとうございます、陛下。クラバインにーさまやレジー、アリスには、心から感謝しております」

 ウォルの手が離れてからマーリィは、苦虫を噛み潰し更には飲み込んでしまったような顔でそっぽを向いているローエンスに向き直った。

「ローエンスおじさまも、フロイライン様を大切になさいますように」

「ありがとう、マーリィ。家に戻ったらそうフラウに伝えておくよ。きっと…喜ぶだろう」

 で。

「ほー。今日はお前、目と鼻の先にある自宅を躱わして「あっち」に帰るのか」

 情け容赦なくキャレが突っ込んだ。

「…じゃ、その「フラウ」さんが愛人の方なんだ」

「ミナミくん…実はわたしに何か怨みでも?」

「? ああ、ねぇっていったらねぇな」

 相変わらずの無表情を貫くミナミに、その不安な返答やめろ、と誰もが心の中で突っ込み、面に出せない笑いを噛み殺す。

 ふかふかと笑うマーリィが、ふとそこで傍らのルニに視線を移した。ウォルに呼ばれて並んだ時からずっと、ルニはマーリィの横顔を凝視したままだったのだ。

 青白い光沢の真白い髪や、灰色に陰って見える長い睫や、煌く真紅の瞳から目を離さずに…。

 愕きの視線。なのか、大きな目をまん丸にした少女。そんな表情を向けられる事になど慣れ切っているマーリィは気にした風もなく、小首を傾げてルニに笑いかける。

 ふか、と効果音のしそうな笑みにますます目を見開いたルニは。

「ルニ様? 陛下にごあいさ…」

「マーリィって言うの?! あなた」

 そう叫ぶなりルニは、ウォルに挨拶する事などすっかり忘れてしまったかのように、小さな全身をマーリィに向けた。

「……。はい。ですがルニ様? わたくしの自己紹介は、ルニ様が陛下にご挨拶なされてからです」

 興味津々のルニの顔にも、マーリィは譲らない。

 一呼吸の間マーリィを見つめていた少女が、はっとして、再度ウォルに身体を向け直す。それで、さっきマーリィがしてみせたように会釈し、手を差し出し、指先にくちづけを受けて頬を赤らめた頃、音もなく応接室のドアが開かれ、ウィド・ハスマが戻って来た。

「これからルニは王城エリアで暮らして、まだたくさんいろんな事を覚えなくちゃならないんだ、判るよね? きっとみんな、ルニが僕の妹だと知ったら少しくらいの非礼は笑って許してしまうだろうけど、僕は許さない。

 だから、マーリィのようにきちんと挨拶出来るようになるんだよ」

 母と似た白皙が、父のように穏やかに微笑む。

「はい、おにーさま」

 その様子を横目に、ウィドが懐から取り出した書面をアイシアスに見せ、キャレに見せ、それから、傍に寄らせていたクラバインに手渡す。

 ウィドが出ていって戻って来るまでの時間は、せいぜい三〇分か四十分。ここからレルト家までの距離を考えれば、彼は向こうに着いて五分か十分でアイシアスの命令を遂行した事になる。

 果たして、アイシアスとキャレの名前が絶大だったのか、それとも、この元・砲撃手の手際がいいのか…。

 満足げなキャレとアイシアスに会釈して座席に下がったウィドが、固い顔つきのエンデルスと、完全に魂が抜けてしまったように呆けているフランチェスカに視線を流して小首を傾げた。しかしどちらもここで口を開く気さえ起きなかったのか、ウィドの問う視線はあっさりと流されてしまう。

「マーリィ・フェロウ」

 訝しそうにしながらもウィドが肱掛椅子に収まり、ウォルがルニの手を取って別のカウチに腰を下ろしたのを見てから、キャレがマーリィを呼びとめた。それに笑顔で振り返り、またキャレの前に進み出た少女に、アイシアスが様になったウインクを投げかける。

「ジュダイス・レルト家は君の親権を正式に放棄して、クラバイン・フェロウに引き渡したよ。これで君は本物の「クラバインにーさま」と「レジー」の家族になった訳で、この先レルト家が君との関係をどこかで言いふらしても、君には否定する権利がある。判った?」

「? はい」

 キャレの前に跪いて、マーリィが小首を傾げる。

 そんな…言いふらされるような何かがあるとは思えなかったのだ、マーリィには。何せ少女は、たったひとり、ではなくなったにしても、屋敷でアリスやクラバインの帰りを待つ事しか出来ないのだから。

「では、ここで正式にお前にわたしたちからお願いしよう、マーリィ・フェロウ。

 貴族院再編が終了すると、アイシアス猊下は議会に戻られる。それに伴ってわたしも王城エリアに戻り、当然、ルニもこちらへ来て城で暮らすようになるだろう。

 ルニにはこれからファイラン「システム」について勉強して貰うようになるのだが、他にもあの子には「行儀作法」を覚えて貰わないと行けない。

 そこで、なんだが、マーリィ・フェロウ。

 お前、ルニに行儀作法を教えてやってくれないか?」

 そのキャレの言葉に愕いたのは、アリスだった。もちろんレジーナもクラバインも、みんながみんな愕いたが。

 ハルヴァイトだけは笑ったけれど。

「……ここで、なんでそんな暢気に笑ってられるよ、アンタは…」

「? じゃぁ、なぜ皆様方はそんなに愕いてるんですか? お姫様の行儀見習いに、マーリィほど最適な人材はないとわたしは思いますけど」

 本気でそう思っているのだろうハルヴァイトは、突っ込むミナミに笑顔を向けてそれだけ言い置き、まだ黙り込んでしまう。

「頼む。今日だけはもっと判り易く世間に接してやれ…」

「つまり、訳を説明しろ、と?」

 呆れて呟いたミナミにわざと難しい顔を向ける、ハルヴァイト。

「め……」

「面倒がんな」

「…………」

 先に禁止された。

 仕方がないのでハルヴァイトは、室内をゆっくり見回してから短い溜め息を吐き出した。

 どう考えても、ルニの行儀見習いがマーリィに至る経緯は一歩通行でしかない。確かに始めは、なぜこの場で早急にレルト家とマーリィの関係を切ったのか多少引っかかっていたのだが、それも判ってしまったし。

 まぁ、色々とあってそんな事にまで気が回らない一部も居るので、やっぱり仕方がないか、とも思う。

「つまりですね。

 今まで存在さえ公表されていなかった姫様が急に出てきて、行儀見習いするので教授を募集します、なんて事になったらですよ? 利権まみれの貴族どもが群がって来るのは目に見えているでしょう? しかもルニ様は貴族というのがなんたるかよくご存知ない。余計な知識だとかなんだとかを与えられるくらいなら、先手を打ってその席を埋めておけばいい。

 そう考えたなら、マーリィほど適切な女性はいないでしょう。

 行儀作法はきちんとしているし、クラバインの妹で、アリスの恋人で、陛下とも仲がいい。しかもマーリィには「利権」も何も絡んでいない。唯一の問題だったのがレルト家ですが、それもハスマ卿の働きでたった今クリアになった。

 判ります?

 万一…そんな訳はない、と付け加えておきますが…万一マーリィが「わたしは姫様と懇意です」と言ってもですよ、徳をする人なんかどこにもいないんですよ?

 だって今更…ここに居る誰が今以上陛下や猊下に振り回されたいと思ってるんですか」

……………。

「うん、判ってきた。判っては来たけど、アンタの面倒そうな説明が腑に落ちねぇ」

「猊下や奥様の前では甚だ失礼ですが、正直、そのくらいすぐ気付け、というのがわたしの感想ですね」

 クソ真面目な顔で言い放ったハルヴァイトに、キャレが思い切り楽しそうな笑いを吐き付けた。

「面白いな、お前」

「ありがとうございます」

 まぁ、このひとの場合情報処理能力が桁外れなんだからいいか。とミナミが呟き、後ろに居たヒューが苦笑いを零す。

 よくないと思う。

「つまり今ガリューの言った通りだな、おおむね。

 もっと「らしく」言うなら、無害な側近で周囲を固めてルニを護ってやりたい、というだけだが」

 無害な側近に分類されそうなマーリィはちょっと困ったように笑ったが、アリスは何か言いたげにキャレを見つめ、クラバインもレジーナも、眉を寄せて顔を見合わせてしまった。

 判る。それは。

 しかしマーリィは…。

「マーリィ・フェロウの答えも、二週間待とう。それまでに、アリスを含めた家族で話し会う事もあるだろうしな」

 室内の困惑した雰囲気に、またもルニが首を傾げた。

「どうしてすぐじゃダメなの? もしかして、ルニ、嫌われてる?」

「そうじゃないよ、ルニ…。マーリィはね」

 大きな瞳に見上げられて、ウォルが困ったように答える。

「見ての通りマーリィはね、髪が…」

 どう伝えていいのか。

 どう言っていいのか。

 まるで自分が非難されてでもいるかのように曇ったウォルの表情に、ルニはますます首を捻った。

「髪、きれいだわ。目も宝石みたい。それのどこが悪いの?

 髪が白いのがダメなの? じゃぁあのひとも悪いの?」

 指差されたのはドレイク。

「あのひととかも?」

 それから、ヒュー。

「それは…」

 言葉に詰まったウォルを、ルニが見つめる。

「髪も目も、みんな違う色でしょう? おにーさま。なのにどうしてみんなそんな困った顔するの?」

「ルニ、マーリィは遺伝子欠損があって、最初からそんなコはいなかったんだ、と、本当のお家から出して貰えなかったんだ、ずっと」

「? でもそれは、マーリィのせいじゃない」

 冷ややかに告げたキャレに顔を向けたルニが、母親に食ってかかる。

「マーリィは何も悪くないのに、どうしてお家に閉じ込められてたの? どうして? でも今は違うんでしょう? だったらルニのお友達になってくれてもいいでしょう? 

 もしもマーリィが意地悪でルニをいじめるんならイヤだけど、マーリィは優しそうだし、かわいいし、ルニはお友達になりたいのに、みんながダメだって言うの? どうして?」

 少女は、本当に心からそう言って、室内を見回した。

「どうしてみんなが、そんな顔するの?」

 城に行く。

 人目に晒される。

 それを恐れていたのはマーリィ本人ではなく、マーリィを「護らなければならない」と脅迫的に思い続ける、回りの人間どもの方。

「ルニ様、ありがとうございます」

 言葉に窮する周囲をよそに、マーリィだけがふかふかと笑った。

 沈黙の降りそうになった室内。

 重苦しい、ではないにせよ、反省すべき事にやっと気付いた大人達。

 糾弾されたのか、

 諭されたのか、

 許されたのか、

 責められたのか。

 どちらにしても、どれにしても、議会も王室も家族も変わるのだ。今から。

「リイン、特上のシャンパンをありったけ用意しろ。

 それから、おかわいらしい姫君には、特別美味いレモネードでも?」

 そう言って微笑んで見せたドレイクに、ルニは屈託ない笑顔で答えた。

  

   
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