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11.ホリデー モード      

   
         
(24)

  

 乾杯は二週間後に取っておこう。

……失望と失意が避けて通れないと知らないから。

         

       

 リインとアスカがそれぞれ大人達にシャンパンを給仕し、イルシュがピンク色のレモネードをルニとマーリィ、アンに手渡す。そのグラスを持ったルニは部屋中を歩き回って、おとーさまとおかーさまとおにーさまの秘密のお友達に覚えたての挨拶を披露した。

「おとーさま、おかーさま、ウルにーさまと、アリス」

 で、なぜかアリスの次にいたドレイクは飛ばされた…。

「それから?」

 黒い瞳に問いかけられて、既に私有物みたいな勢いでひっぱり回されているマーリィが、くすくすと笑いながら可憐な声でそれぞれの名を告げると、ルニはひとりひとりに会釈してはその名前を確かめるように呟いた。

「えと、スゥさんにデリさん? どちらもゴッヘル卿って呼ぶの? それから、アンくん」

 ここでもアンくん呼ばわりのアン少年が苦笑いし、

「お隣りはイルくんね」

 当該「秘密の集まり」最年少の座をルニに奪われたイルシュが、笑顔で会釈を返す。

「クラバインにーさまとレジー、ヒューさん、グランおじさま、ローエンスおじさま、ハスマ卿、エステル卿、えーーーーーっと」

「フランチェスカさんは、ガラ卿です」

「難しい…」

 む。と小作りな顔を歪めたルニに、ウォルが笑って声をかける。

「みんな呼び捨てでいいよ。緋色のマント以外は、みんなお前に敬意を表する決まりだからね」

「? 緋色のマント? 誰もマントなんか着てないわ、ウルにーさま」

「ここでは、グランおじさまとローエンスおじさま、ハルにーさま、…それから、スゥさんも「緋色のマント」ですよ、ルニ様」

 それにスーシェはちょっと困惑したようだったが、傍らのデリラにそっと手を握られて仄かに笑い何かを諦めたようだった。

「後は、キース連隊長と…」

 そこでルニの視線が、ハルヴァイトとミナミの上で停まった。

「ミナミさんに、ハルにーさま?」

 話している声を何度も聴いた。

 ハルヴァイトが笑っているのや、ミナミが無表情に突っ込んでいるのも。

「アイリー?」

「? 何?」

 キャレやアイシアスがそう呼んでいたからなのか、ルニは改めてミナミの名前だけを呼び直した。それに相変わらずのダークブルーを向け、ミナミが小首を傾げる。

「キレイで強いけど大事にしないとすぐ壊れちゃうよ、っておとーさまが言ったわ、あなたの事。でも、もう、大事にしてくれる恋人がいるから平気だね、って…。

 アイリーの恋人は、どのひと?」

「………………。どのって…」

 ここだけ真剣な顔つきで訊ねられ、ミナミが思わずハルヴァイトの顔を見上げる。

「これ」

「これかい…」

 黙ってにこにこしているハルヴァイトを指差してミナミが言うなり、ドレイクが苦笑いで突っ込む。

「ハルにーさまがアイリーの恋人なの?」

 が、なぜかまたドレイクの発言は流された。

 なぜだ。

「うん」

「じゃぁ、それが「ハルにーさま」なら、やっぱりこっちの白いのが「ドレイク」なのね!」

「そう。つか、なんでミラキ卿だけいきなり呼び捨て?」

「だって! ドレイクはルニのウルにーさまをひとり占めしてる悪いヤツだもん」

「あぁ、そう」

「てかそこで納得してくれんじゃねぇよ、ミナミ」

「だって、あってんじゃん」

 涼しい顔で言い退けたミナミをわざと睨むドレイクに、ハルヴァイトがくすくす笑いを向ける。

「注意しろよ、おめーも…」

「? なぜ?」

 ハルヴァイト、何せミナミには自称「大甘」なのだ。これしきの事で注意出来る訳もない。

「ルニ、一応ドレイクにもご挨拶しないといけないよ。彼は当代ミラキ卿でもあるんだしね」

 こちらの発言も相当扱い悪く、ドレイクはひきつった顔でウォルを振り返ったが、ゆったりとカウチに座って朗らかな笑みを湛えている陛下は今日も呆気に取られるほど美しく、ドレイクはあっさりと機嫌の悪い顔を諦めた。

 詰まる所、陛下が陛下でなくても頭が上がるとは思えない。

 そんな微妙に和やかな雰囲気にあっても、なぜかミナミは払拭出来ない微かな不安を抱えたままだった。

 そう、キャレとアイシアスが、じっとミナミを見つめているのだ。今も。

 まるで「これで終わりじゃない」とでも言われているような、漠然とした不安。ミナミが医療院から連れ出された(結果的にそういう事だった)下りも、ウォルに妹の居たことも、その妹、ルニが王室に入る理由も意味も判った。明かされた。それでウォルは「無理」をしてシステムの面倒を見なくてもよくなったのだろうし、議会再編や特務室の電脳班新設などという面倒な事は残っていても、キャレやアイシアスにそんな顔で見つめられる理由が、ミナミには思い浮かばないのだ。

「……あのさ」

 サイドテーブルにシャンパングラスを置いたミナミが、小声でハルヴァイトに話しかける。それを受けて少しだけミナミに顔を向け身を傾けた恋人が、「なんですか?」と穏やかに答えると、翳った瞳を持ち上げた青年がそっと細長い指先を伸ばした。

「触っていい?」

「……どうぞ」

 並んだ椅子の肘掛にハルヴァイトが手を置いて、少し。ミナミは戸惑うように俯いて、短い溜め息を吐き、ハルヴァイトの指先に自分の指を重ねた。

 それだけで、世界は安定を取り戻す。

 おかしな話。

 少し前ならそれは、世界の崩壊ではないかと思われるような恐怖だったのに。

 キャレとアイシアスは、それも、見ていた。

「そういえばウルくん、アチェに何かお話があるんじゃなかったっけ? いろいろ盛り沢山で忘れてしまいそうだった」

 静謐な顔つきを一瞬で相変わらずの軽薄なにやにや笑いに塗り替えたアイシアスが、ルニを纏わりつかせたウォルに顔を向けてやっと思い出したように言う。

 それになぜかミナミが一瞬身を固くしハルヴァイトの手を握る指先に力を込めたのに、恋人はそっと微笑んでその手を握り返した。

「…………。父上と母上に、お願いがございます」

 促される形でカウチにルニを残して立ち上がったウォルが、両親の前に進み出る。

「行く末ルニがシステムを受け持ち、僕が都市の安寧だけを念頭において政を治め、更に行く行く、ルニの夫となる者が王室に参政した暁には……」

 見えなかったお終い。

 アリスは、微かに口元を綻ばせてマーリィに視線を送り、それから、その視線をドレイクに向けた。

 ハルヴァイトもミナミも幸せになった。

 次にウォルが幸せになって、全て丸く収まるのだ。

…………絶対。

「僕を、ファイラン家から当代ミラキ卿の伴侶として、喜んで送り出してはくださいませんか」

…………多分。

「許さない」

………………。

 答えたのはキャレだった。

 取り付く島もなく斬り捨てられて、ウォルが凍り付く。

 キャレの黒い瞳がウォルを冷たく見つめている。和みかけた空気が一気に零下まで急落し、誰も彼もがぴたりと動きを止めた。

「ウル。わたしは母として、お前には幸せになって欲しいと切に思う。今までの人生、お前は過分な役目を全てこなしてきた。わたしや猊下の期待以上に、だ。だから、どんな我が侭も聞いてやろう。

 しかし、ミラキの家に入る事だけは許さない。

 判るか? ウル。

 わたしはお前に幸せになって欲しいんだぞ。

 自分の子供を顧みずスラムになど置き去りにした母と、その子の存在を知っていながら引き取ろうともしなかった父を持ったミラキに、果たして「家族」がなんたるか判るのだろうか?

 確かにそれはミラキの責任ではない。

 だがな、ウル。

 例えそれがミラキの責任ではないにせよ、そういう父と母を持った男にお前を任せてお前が幸せになれなかった時、だからあの時わたしはやめろと言ったんだ、なんてお前を慰めてやれるほど、わたしは寛大ではない」

 一体このひとは何を言っているのだろう、とウォルは思った。

 一体そのひとは何を言いたいのだろう。とミナミは、思った。

 アイシアスが、ミナミを見つめている。

「ミラキの人柄を見れば、それはないのかもしれない。

 お前が「好きだ」というんだ、わたしも信じてやりたいとは思う。

 しかし、ウル…。

 ミラキはさっきわたしに言ったぞ、そんな父と母とガリューの存在を知っていながらそ知らぬふりをしていだろう連中を、「許せない」とな。ガリューは「必要とあらば許せる」と言ったのに、この強情で融通の利かない兄は、既に死した両親さえ許せないと…。

 黙して語らぬ死者さえ許せぬとああもきっぱり言うような心の狭い男に、大切な息子を渡す訳には行かん」

 キャレの瞳が、ウォルからハルヴァイトに移った。

「しかもだ、その不肖の弟はといえば、父親はどこの馬の骨とも知らん正体不明ではないか。聞けば今までに何度も警備軍内部で問題を起こしたというし、スラムにいた頃は収容所の顔馴染みだったらしいしな。その弟を庇い立てるのに日々奔走する頭の悪い兄貴になどさっさと愛想を尽かして、他の誰かを探す方が幸せになれよう?」

 当たっているだけに言い返せない、と…ハルヴァイトは暢気に思った…。

「だからこの話しは終わりだ、ウル。さっさと下がれ」

「………………」

 ウォルは、一歩も動かなかった。

 誰も、少しも動かなかった。

 ミナミは呆然とウォルの背中を見つめ。

 アイシアスは…ミナミを見ている。

「下がれ、ウル。わたしに逆らう事は許さない。

 それとも、暫く会わないうちに頭が悪くなったのか?

 わたしの言っている事が理解出来ないのか?

 わたしは、

 出自も判らん弟を護ろうとしてばかりの臆病な男に大事なお前を渡すつもりはない。

 と言っている」

「……それは…母上といえども黙って聞き入れる訳には行きません!」

 ぎゅっと握り拳を固めたウォルが、眦を吊り上げてキャレを睨んだ。

「ミラキ、ではお前はどう思う?

 これはわたしの横暴か?

 それとも、子を思う母の思いやりか?」

 アイシアスは、見ている。

 キャレも、見ている。

 ドレイクでなく、ハルヴァイトの手を握り締めたまま無表情に室内を観察する、あのダークブルーの瞳の青年を。

 キャレに問われて、ドレイクは…口元に薄い笑みを…今まで誰も見た事がないような冷たい笑みを浮かべて、立ち上がった。

「子の幸せを願うのは母として当然でございましょう、キャレ様。

 ごもっともでございます。

 あなた様のおっしゃる通り、弟、ハルヴァイトの父親は未だ不明のままであり、わたしに…それを付き止める意思はない。

 そしてわたしは、永劫、父と母を許そうとはしないでしょう」

 ウォルは気付いていないのか。

「…陛下はご気分が優れないようだ。どうやら…お城にお帰り願う時間ですな」

 ドレイクはすぐに判ったのに。

「アスカ。陛下をお送りする支度をしろ。

 陛下。本日晩餐への列席誠にありがとうございました。追って、ご家族を城までお送り致します」

 長上着の裾を捌いてウォルの傍まで進み出たドレイクは、にこりともせずにウォルの腕を引っつかみ、キャレとアイシアスに申し訳程度の会釈をして部屋から出ていった。

 この明らかな不機嫌の理由はなんだろう、とミナミはドレイクの背中と小さくなって震えていたウォルの背中を思い出しながら考える。

 そんな男とはさっさと別れろ、と言われた事なのか、それとも…ハルヴァイトを侮辱されたからなのか。

「…………………」

 キャレは、見ている。

 アイシアスは、見ている。

 ミナミを。

「でもおかしーわ、おかーさま? おにーさまが幸せになれるのは、きっとドレイクのお家に来て「家族」になったらなんだって、ルニは思うのに」

「ああ、そうだな、ルニ」

「じゃぁ、なんであんな風におにーさまをいじめるの? おかーさま、ドレイクが嫌いなの?」

「いいや。ミラキの母、マーガレッティアとは一番の仲良しだったよ。そのマルガルが「あの子を頼む」って言ったんだ、キライな訳ないだろう」

「なら、どうしてそんな事言うの?」

 なら、どうして?

 それならばどうして。

 なぜ、キャレとアイシアスは、ミナミを見つめているのか…。

「わたしは、みんなに幸せになって欲しいんだよ、ルニ」

 幸せに。

 どう? 幸せって、何?

 好きなひとの傍に居て?

 それだけが、幸せ?

「……違う…よな」

 なぜ、ミナミなのか。

「喜んで、ウルを送り出してやりたいんだ」

 ミナミは、見ている。

「相手がスラムの花売りだって貴族だって構わない。ウルが幸せになれるのなら、な」

 陛下。

 さっきから…ドレイクが父と母を「許さない」と言った瞬間から押し黙っていたフランチェスカが、険しい顔つきでキャレを睨む。しかしそれは「ダメ」なのだと反射的にミナミは、戸惑いながらもハルヴァイトの手を握り締め、フランチェスカを抑えるように「あのさ…」と声を上げた。刹那。

「聞いてよ、アイリー。これは僕の独り言だけどね。

 マルガルはね、病に倒れてからたった一度だけ、僕とアチェに会いたいと言って来た事があるんだ。キレイな女性でね、色の薄い金髪に紺色の瞳の、本当にきれいな女性。でも、気が強くて、プライドが高くて、アチェ並に手のつけられない女性でもあった。

 彼女が泣いたのを僕が見たのは、その時が最初で最後だったよ…。

 マルガルは僕とアチェの手を握って言ったんだ。

「わたしは生涯にたったひとりの男の子しか儲けなかった。後悔している」ってさ」

 アイシアスの独白は静かに、重く室内に降りた。

「…………………。判った。…ごめん」

 ミナミは不意に顔を上げ、出鼻をくじかれた形で唇を引き結んだフランチェスカを一度だけ見遣り、見つめてくるキャレとアイシアスから意識を引き剥がして、傍らのハルヴァイトを見上げた。

 緊張したような顔つきで見つめてみても、ハルヴァイトは穏やかに微笑んでいるばかり。

「俺さ…、ホントは、衛視辞めてずっと家に居ようって、そう思ってたんだよ。アンタが帰って来んのだけ待って、……最初に守れなかった約束さ、今からでも遅くねぇからやり直そうって、本当に、思ってた。

 でも、ごめん…。

 今から俺はまた少しの間勝手な事して、その約束先延ばしになるけど、アンタは…まだ俺に傍に居ていいって、そう言う?」

「そうですね。

 では、ミナミの前にわたしが勝手な事をする、というのでどうでしょうか?」

 言ってハルヴァイトは、ぎょっとしたミナミの手をそっと振り解き、肱掛椅子から立ち上がった。

「猊下と奥様に申し上げておく事がございます」

 停める間も問いただす間もなく、ハルヴァイトはいつものように横柄に腕を組み、口調だけは目上の者に対するようにして、言い放った。

「ドレイクがやらぬと言うのであれば、わたしがやるまでだ。あなた様方のお知りになりたいのはわたしの父親ではなく、なぜ母がそのような告白をしたかであって、死出の旅路に着こうかという母が「後悔している」と言ったその後悔を取り払う事にある」

 確信的な言い方に、キャレが苦笑を漏らす。

「なぜそう思う? ガリュー」

「さぁ、なぜでしょうね。……あなたが、母と「仲良しだった」とルニ様に仰ったからでしょうか」

「それだけか? お前は、それだけで…やっと手に入れた兄をまた手放すハメになるかもしれないんだぞ」

「あれは「兄」であろうがなかろうが、お節介でやかましいわたしの部下であり、近しい友人であり、何より、わたしの信頼する「魔導師」です」

 唯一、ハルヴァイト・ガリューに追い付ける天才。

「それにですね」

 ふと、ハルヴァイトが俯いてくすくすと笑い出す。それがなんだかとても楽しそうで、これまでの展開に戸惑っていたアリスが、やっと、吸い込んだきりの息を吐いた。

「もし他人でも、どうでもいいじゃないですか。元よりわたしには、この世に「他人」しかいなかったんですから。「他人」という識別出来ないデータと陽炎、それしかなかった。

 兄だと言われて最初に感じたのは、「だからなんだ?」でした。兄だろうがなんだろうがわたしにとってはデータでしかなく、それ以上でも以下でもなかった。

 ただし、本当に他人だったとしたら、今度はわたしがお願いしようと思います、ドレイクに。

「あなた以上に兄らしい兄はいないので、どうでしょう、「兄」が空席になってしまうので、そのまま居るつもりはないですか?」とか」

 ね? と小首を傾げる、ハルヴァイト。

「……このごに及んで緊張感ねぇな…」

 ない。全く。

 しかしその緊張感のなさが、今は有り難かった。

「多分今日まで、わたしはドレイクに迷惑を掛け通しだった。だから、今ここで彼に返せるものがあるのならばそれこそお節介だと言われようが叱られようが、返しておくべきだと思う。

 あなた様方の質問に、わたしが答えましょう。

 それでもしも…何か重大な秘密が明らかになって「ミラキ」の名前が消えても、わたしは後悔しない」

 ハルヴァイトはそうきっぱりと言い切って、組んでいた腕を解いた。

「ですので、猊下、奥様にも、どうぞ、あなた様方の疑念が晴れた暁には、陛下を…自由にしてはくださいませんか?」

 自由に。

「……………本当に、ミラキの家を取り潰す事になってもか」

 口を閉ざしたキャレに変わって、威厳ある声で問う、アイシアス。それにつと頭を…奇跡的に完璧な動作で…下げ、ハルヴァイトは笑いを含んだ声でこう答えた。

「零落した家名に取り憑かれても、ドレイクとわたしが「最強」である事に変わりはない」

 呆れるような自信たっぷりのいい方に、さすがのミナミも突っ込み損ねた…。

  

   
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