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11.ホリデー モード      

   
         
(26)

  

 目の前で、大きくて重いドアがひっそりと閉じた。

 情けない話、たった今だというのに、最後に何を話したのか覚えていない。

 今日も完璧に整った白髪を手で掻き回そうとして思いとどまり、溜め息ひとつで気分を戻して、エントランスに向き直る。

 ドレイク・ミラキは。

 ドーム型の天井だけが吹き抜けになっているエントランスに突っ立って、ぼんやりとその天井を見上げる。光源を抑えたシャンデリアと毛足の長い絨毯。ドレイクにとってはありきたりの「家」だったこの場所だが、大抵の客人はそれを「落ち付いていて素晴らしい」と称し、そう言わなかったのはあの秘密の恋人と、あの…弟だけだった。

 一瞬で曖昧になった恋人の顔。なのに、あの弟のあの時の顔だけは、絶対に忘れられない。

 まだ兄弟だと知らなかった日。このエントランスで一度立ち止まり、ハルヴァイトは無言で周囲を見回した。

 興味なさそうに。

「なんだ?」と笑顔で問いかけたドレイクに彼は「別に」とだけ答え、それから数ヶ月後、同じ場所で、お前は俺の弟なんだよと告げた時、彼はやっぱり興味なさそうに「だから、なんだ?」と答えた。

 決死の覚悟だったのに。

 思わず込み上げて来た笑いを押し戻し、ドレイクは歩き出した。出来ればこのまま府抜けた気持ちで部屋に逃げ込みたいが、大勢の賓客を応接室に残したままではそうも行かない。

「……意外にキいてるな…」

 判っていたのだから、そう落ち込む事でもないだろうに。とドレイクは自分に言い聞かせる。

 判っていた。

 あの…恋人の望む通りになど、なる訳はなかった。

 ハルヴァイトの「本当の」出自が判らないままでは、例えばドレイクがいかに弟だと言ってもそこには「なんらかの秘密」が残る。ファイラン家というこの都市を治める王室と、貴族の中でも位の高いミラキ家の間で婚姻の話が持ち上がれば、その足下を掬いたい連中はいっとう先にハルヴァイトの出自からミラキ家をつついて来るだろう。

 判っている。

 ハルヴァイトの出生を明らかにして切り捨てれば、ルニの出現で最早世継ぎを残す必要のなくなったウォルは、問題なくミラキの家に入れたかもしれない事も。

 判っては貰えただろう。

 ドレイクには、それが出来なかった。

 あの気位の高い恋人が最後の最後で見せたのは優しさだったのか、無言で責められたのか、ドレイクには判らなかったが…。

 ウォルは、言わなかった。

 女王陛下の言う通り、いい加減終わりにしようと告げた。

 どんなに待ってもお終いはお終いでしかなく、到達点(ゴール)にはならない。

 だから、二度とここへは来るなと言った。

 今にも泣き出しそうな、痛ましい表情でドレイクを見上げても、ウォルは言わなかったのだ。

 自分と得体の知れない弟と、どっちが大事なんだ。と。

「判ってたのかもな…」

 欲張っちゃダメ。というルニの言葉を思い出した。そう長くない廊下をぐずぐずと歩きながら、ドレイクは自嘲気味に笑う。

 どっちじゃない。みんな大事だった。ウォルも、ハルヴァイトも、ミナミも、みんな…。

 いつだったかドレイクはアリスに「孤独を知らなかった」と言った事があったが、今日始めて彼は、「孤独に気付いていなかったのだ」と知った。

 大きな屋敷。

 待っても来ない父と、大好きだったひと。

 時折訪ねて来る母。決まって父は不在だった。

 時折訪ねて行く母。笑顔で抱き締めてくれた。

 毎日やって来る盲目の男。

 アリスは彼が帰るとき、決まって手を繋ぎ、はしゃぎながら門まで送っていった。

 それから、弟。

 笑ってもくれない弟。

 泣いてもくれない弟。

 怒っても罵ってもくれない弟。

「だから、なんだ」と…無関心に答えるだけ。

「いい大人が、情けねぇな…」

 ドレイクはよく、何か理由をつけては衣装室のクロゼットに閉じ篭った。その理由は自分に対する言い訳で、とどのつまり、広い屋敷で大勢の人に囲まれながらも感じていた孤独からひとりになる事で逃げていたのだろうと、今頃になって思う。

 最後にあのクロゼットに入ったのは、いつだったか。

 その中に寝転がり、ぼんやりと現を怨む自分を見つけたのは、誰だったのか。

 どこをどう探して来たのか全身泥まみれで、庭に穴でも掘ったのか、と訊いたドレイクを力任せにひっぱたいたのは…。

「想い出話しなんか、かっこ悪くて出来ねぇって」

 痺れた指先で自分の頬に触ったまま、ドレイクは溜め息のように呟き、ひっそりと笑った。

 欲張り過ぎたのか。

 今までの分をまとめて払い戻せると思っていたのに、失敗したのか。

 どちらにしても…。

「……………。明日からまた、編成変えだとかなんだとか、イルくんとかアンちゃんの様子も見なくちゃなんねぇし、忙しいな…」

 呟いて彼は、やっと、応接室のドアに手をかけた。

               

            

 大扉を開けて室内に入り、キャレとアイシアスに一礼して、手近な肱掛椅子に腰を据える。なんとも言えない微妙に重い空気が室内に沈殿しているのをドレイクは、普段と変わらない飄々とした笑いで吹き飛ばし、肘掛に頬杖を付いて待った。

 頼むからそんな顔すんなよ。と言いたいのは、抑える。

 多分、判っているはずだ。

 ミナミは。

「で? その青痣は一体なんなんだよ、ミラキ卿」

 予想通り平然と突っ込んで来たミナミに苦笑いを向けたドレイクが、すっかり痣になってしまった左の頬を押さえる。

「思いっきりひっぱたかれたんだよ、どこぞの陛下にな。ま、ハルにぶん殴られたと思やぁ、痛くも痒くもねぇけどよ」

「? アリスよりはマシ、じゃないんですか?」

「……ハル、殴るわよ」

 剣呑な視線を突き刺してくるアリスから視線を逃がしたハルヴァイトが、わざとのように怖々と肩を竦めてから苦笑いした。

「ウルにーさまは、ドレイクがキライになったの? 」

 そんな短い会話をきょとんと見つめていたルニの唐突な、屈託ない質問に、ドレイクが薄笑みで頷く。

「そうだよ」

「じゃぁ、ルニはドレイクが好きになったわ。だって、ルニのウルにーさまをひとり占めしないんだもの」

「それはそれは、光栄です」

 ふざけて姿勢を正し会釈して見せる、ドレイク。その頭上から離れないアイシアスとキャレの視線をやり過ごし、彼はまた疲れたように背凭れに沈んだ。

「………そろそろ僕たちもお暇しようか、アチェ」

「ああ、そうだな」

 立ち上がったアイシアスとキャレを見送るために、ドレイクもまた立ち上がった。それに続いて旧・第一小隊の面々も立ち上がり、なんとなく、アリスやマーリィも顔を見合わせる。

「本日はおいでくださいまし、誠に有り難うございました」

 ドレイクが大扉の前に立ってそう告げると、間を置かずリインが外側からドアを開け放つ。今までどこに居たのか、相変わらずの完璧な執事ぶりにミナミは感心し、ハルヴァイトがあの鉛色の瞳を向ける。

 無言でそれを受け取り、頷くリイン・キーツ。

 疑念は、最早「疑念」で済まされない。

「リイン、猊下と奥様とルニ様をお送りして差し上げろ」

 玄関ホールまで出たところで、ドレイクがドアの横に退去しそう執事頭に申し付ける。それに会釈して先に立ったリインの背中を追いかけドレイクの前を行き過ぎるキャレとアイシアスは何も言わず、ルニだけが、にこにことスカートの裾を摘んで覚えたての挨拶をした。

「また遊びに来てもいい? ドレイク」

「はい。どうぞ」

 薄っぺらな笑みで答える、ドレイク。

 置き去りにされそうなルニが慌てて駆け出していくのに軽く手を振り、それから、進み出て来たグラン、ローエンス、エンデルスとウィド、フランチェスカには、無言で頭を下げる。今更取り繕う事もなくなってしまってありきたりの挨拶を向けたドレイクに、彼らもまたありきたりの労い程度に会釈し、さっさと屋敷から出ていく。

「ドレイク」

 しかし、最後のフランチェスカだけが意を決して足を停めた。

「…叔父上には改めてお話に上がります。……………百年先かもしれませんが…」

 申し訳なさそうなドレイクの表情に、フランチェスカは小さく首を横に振った。

「では、わたしは百年お前を待っているよ」

 そう言い置いてドレイクの肩を叩いたフランチェスカの背中が、とぼとぼと暗闇に消える。それを見送るドレイクの顔は誰からも見えなかったが、その場に残った誰もが、きっと彼が「後悔」しているのだと思った。

「…そういう顔しないでよ。君は間違ってないわ。そう言えってあたしに言ったじゃないの。だから、落ち込んでいいのは今日だけだからね、ドレイク」

 マーリィを伴ったアリスが進み出て、そっとドレイクの頬に手を当てる。それに苦笑いを向け、すぐに灰色の瞳で不安そうなマーリィを捉えたドレイクは、ふと微笑んで少女の真白い髪に手を置いた。

「お祝いしないとな、マーリィのよ」

「……はい」

「がんばれよ」

 小さく手を降って行き過ぎる、赤い美女と真白い少女。次に進み出てきたクラバインとレジーナは何も言わずにただ会釈しただけだったが、一旦はそれをやり過ごそうとしたものの、ドレイクは思い直してクラバインを呼びとめた。

「今までいろいろと苦労かけたな、クラバイン。…あいつ……しばらくは大荒れだろうが、これで俺の頼みは最後だと思って、付き合ってやってくれ」

「はい」

 短く答えて会釈したクラバインに頭を下げ、レジーナに「おめでとう」を言い、立ち塞がったギイルの分厚い胸板を握り拳で叩く。

「お前とガリューが上官だなんて、嘘みてぇね」

「嘘じゃねぇんだから、なんつって部下黙らせるかよく考えとけよ、ギイル」

「はいよ」と気さくに笑って手を挙げ、ギイルが出て行く。それに続いてスーシェの腕を取ったデリラが現れるとドレイクは、深々とふたりに頭を下げた。

「勝手な事決めちまって悪かったな、スゥ。ただ、どうしてもよ、「第七小隊」ってのを…誰かに任せる気が起きなくってな、俺に」

「陣地の守りに手駒置いたって感じスかね、ダンナ」

「ま、そんなトコだ。電脳班は一時措置扱いだからな、そのうち…ウインの事件が解決すれば、また俺達も魔導師に戻される事になってんだよ」

「じゃぁ、ぼくはイルくんと留守番だね。それなりに…がんばってみるよ」

「……………てかダンナ、もしかしてスゥが階級復帰するって事ぁ、タマリ…呼び戻すんスか?」

「…………………」

「黙んねぇでくださいよ、ダンナ…」

 誰の事を言っているのか、デリラは極めてげんなりと肩を落とし、スーシェが苦笑いする。

「追って通達、だ」

 引きつった顔で早く行け、と手で促す、ドレイク。それでデリラとスーシェが追い払われて、次はなぜかアンとヒューだった。

「一緒に帰んのか?」

「ああ、官舎だからな。行き先が一緒だ」

「ふーん、おめーら意外と仲良しなのな」

 ふたりが一緒に来た事を知らなかったドレイクが不思議そうにするのを、冷たい表情で受け流すヒュー。そのスカした横顔をじっと見つめたまま、当代ミラキ卿が微かに口の端を持ち上げる。

「……スレイサー衛視…って呼ばなくて済むのは、嬉しいな。本気でよ」

「俺はいたって残念だよ。まぁ、元々カスほども上位扱いされた事はないんだから、今更だがな」

 にやにやしながら言ったドレイクにちょっと笑って答えたヒューを見上げ、アン少年が「あっそっか」と呟く。

「練習しなくちゃ。ヒューさんって呼ぶの」

「つうか、おめーはまず別の事を練習しろ」

「? 小隊長を班長って呼ぶ練習ですか?」

 わざとぽんぽん言い返すアンの額を平手でひっぱたき、ドレイクが笑う。

「うーーー。…それで、ドレイク副長。ぼく、明日からさっそく訓練校のフィールド使っていいんですか?」

「ああ。話は通ってるからな。制服着てけよ」

「了解です。本日はお招きありがとうございました。では、また」

 ぺこり、と頭を下げたアン少年が、先に立って待っていたヒューを追いかけ、小走りに庭へと出て行く。

 そして最後に、ハルヴァイトとミナミが残った。

 ドレイクは振り返らなかった。佇むハルヴァイトに背中を向けたまま、聞き取り難い小さな声で、「なぁ、ハル」と呼びかける。

「それ以上何か言ったら本気でぶん殴りますよ、ドレイク。

 わたしはあなたと兄弟であった事を、感謝してます」

 到底感謝しているとは思えない口調で言い捨てたハルヴァイトが、大股でドレイクを追い越し庭へ降りる。その背中を見送り、溜め息を吐いてようやく振り返ったドレイクを待っていたのは、あの観察者の瞳だった。

 不思議な光を湛えたダークブルー。

「ミラキ卿。…俺もさ、ミラキ卿に感謝してるよ。ホントに…」

 呟いて、ミナミはふわりと微笑んだ。

「どれが欠けても、俺はあのひとに出会ってなかったんだって、そう思ってる」

 じゃね。と言い置いて、ミナミはドレイクをその場に残し玄関を閉じた。

 外界と屋敷を隔てる、分厚いドア。ふっと息を吐いてそのドアに背中を預け、ドレイクはそのままずるずるとその場に座り込んだ。

 酷い耳鳴り。

 酷い眩暈。

 間違っていないと思っているのに。

 酷い後悔。

 ドレイクは固く瞼を閉じて両腕で頭を抱え込み、その場に小さくなった。

「大人げねぇつってんだろ、ちくしょう…」

 上げられなかった悲痛な叫びの代りに、ホールの上空で真っ赤な荷電粒子が…爆裂した。

  

   
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