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ヘイゼン・モロウ・ベリシティ

   
         
愚かな事こそが恥ずべき行為を生む。

  

 アンが衛視になる事で、ダイ家のささやかな問題と確執は解決するに違いない。と、今見たばかりの「キューブ」や「フィンチ」「ディアボロ」の事を興奮気味に話すマイクスの横顔を和やかな気持ちで見つめながら、アリスは思った。

「今日の結果は俺から室長に報告しとくけど、いい?」

「魔導師隊の件も一緒に報告願えるのかな、アイリー次長」

「ついでに」

「ついでか」

「うん、ついで」などとグランに吹っかけているミナミと、以前散々な目に合わせたタイスがマイクスの弟だと聞いて、全く誠意のない口調で「ああ、済まなかったな」と言い置くヒュー。魔導師隊もそれなりに大変な場所だったが、特務室はそれ以上に大変なのかもしれないと思って、アリスは小さく笑った。

 それでも、全員揃ってそこに行く。

 ひとりの不足もなく、陛下のお傍に仕える事になる。

「喜ばなくちゃね…。これから先何があっても、あたしは…後悔しないわよ」

 ひとりそう呟いて、アンをからかっているドレイクに視線を向けようとしたアリスの亜麻色の瞳が、一瞬、凍り付いた。

 ブルースが、あの赤銅色の双眸でハルヴァイトを見つめていたのだ。

 ブルース・アントラッド・ベリシティ。――――――。

 グランに整列を言い渡されて一旦壁際に並び、短い指示を受ける。現・第七小隊は明日から自由登城で執務室の移動。新・第七小隊は小隊長であるスーシェの指示で編成までに執務室を整え、事務官と砲撃手を加えた六名での顔合わせと、ブルースとイルシュには制服の採寸指示も出た。

「新設の電脳班には、後から召集命令出ると思う。班隊執務室はもうギイルが支度し始めてるから、私物の運び込みくれぇしかする事ねぇだろうし。あと、早速アンくんも制服の採寸に行かねぇと、辞令交付までに仕上がんねぇかもよ?」

 衛視の黒い制服は完全オーダーメイドで、基本サイズを手直しするだけでいい警備軍の制服とは訳が違うのだ。ベルトの長さや長靴(ちょうか)の丈まで、個人のサイズに合わせて見た目が均一になるよう細かく採寸される。

「…余談ですけど、ミナミさん…制服作るの大変じゃなかったですか?」

 とそこでアン少年が、真顔でそんな質問をミナミにしてきた。

 誰にも触れられない青年、ミナミ。制服の採寸など、もってのほかだろう。

「俺は初日からちゃんとあったよ、制服。採寸した記憶ねぇけど」

 そういえば、なんでだ? と首を傾げるミナミを笑顔で見つめていたグランが、わざとのように「うむ」と頷く。

「アイリー次長は、ストーカーに注意すべきのようだ」

「つか、そんな度胸のあるヤツいねぇと思う…」

 苦笑い、というよりも呆れた口調でミナミが言った途端、その場にいた誰もが、自然にハルヴァイトの涼しい横顔を見上げてしまった。

「いたら是非わたしに挨拶して欲しいですね」

「そんな命知らずもいねぇっての」

 いたら怖い。

「…わたしからの指示は以上だ。ゴッヘル、第九小隊の事務官推薦については、後日改めて報告するように」

 既にメリル・ルー・ダイの名を挙げられているにも関わらず、グランはいつものように威厳のある顔つきでそう言い残しただけで、それが誰か、という詳細までは口に上らせなかった。ここに居並ぶ魔導師連中には「意地悪中年」だとか言われていても、グラン・ガンは電脳魔導師隊大隊長であり、由緒正しいガン家の当主なのだ。一見無関係なマイクスがここに居て、スーシェの提示して来た次期事務官候補がルー・ダイ家の次男で、となれば、実はこのふたりに何か意図があってアンの兄を推して来た、くらいの想像は容易に付く。

 余計な事は、もう、言わない。

 今日のお節介は、もう、使い切った…。

 歳を取ったな。とグランは自分について思った。もしかしたら、自分が思うよりドレイクの件がこたえているのかもしれない、とも考えた。記憶の中で色褪せないダイアスが、少し羨ましくなった。

 ドレイクは…。

 ハルヴァイトは…。

 アンは…。

 スーシェは…。

 マイクスは…。

 ミナミは…。

 アリスは…。

 タマリは…。

 イルシュは…。

 ブルースは…。

「コルソン」

「?」

 敬礼を受けて緋色の豪奢なマントを翻し、グランは溜め息のように呟いた。

「お前が警備軍に入りその後わたしの部下になった事を、感謝している」

「自分も、大隊長の部下でいられた事を誇りに思います」

 再度敬礼し直したデリラの横顔と退室して行くグランの背中を見比べ、ミナミが微かに眉を寄せる。

 一般警備部で除隊させられそうになったデリラをグランが魔導師隊に編入させた、というのは、先にギイルと話した通りだったから知っている。しかし今の会話は、どこかおかしくないだろうか?

 デリラ除隊の原因になった「実体のない幽霊事件」とグランに関わりが?

 誰かに何かを訊くつもりはないにせよ、ミナミは少し戸惑ってしまった。それで隊列に目を向ければ、誰も彼も押し黙り……。

 スーシェが、そっとタマリに微笑みかけていた。

「……おっさん、辛気臭ぇ話しなんか最後にすんじゃねぇのって。まーったくー」

 それを受けて、今にも崩壊しそうな笑顔で軽口を叩く、タマリ。色褪せた緑の瞳が所在無くスーシェから逃げ、デリラのにやにや笑いからも逃げ、自分の爪先に落ちる。

「ここは大人の礼儀だね。大隊長は、タマリと違って礼儀正しいからね」

「むむ。そんじゃまるでタマリが礼儀知らずみたいじゃんか!」

「おや、知ってたのかね? お前。そんな単語さ」

「つか、問題は中身で単語じゃねぇだろ」

 デリラの飄々とした口調を耳にしてタマリはすぐに顔を上げ、先と同じにくるくるとよく変わる少女のような表情でデリラに食ってかかった。それで一瞬降りた重苦しい空気が霧散し、スーシェが短い安堵の息を吐く。

 ミナミは、いつものように素っ気無く突っ込みつつも、観察する。

 今このフィールドに幾つの絡まりあった糸があるのか、見極めようとする。

 しかし。

「ミナミ、一旦特務室に戻って報告する時間だぞ」

 ヒューが無情にも退場を勧告した。

「…そうだった。昼前に新しい衛視に顔見せすんだっけ、俺」

 今回の再編で特務室も増員されている。既に新しい衛視たちは職務に着いており、ミナミの事情を説明されているのだ。今後彼が正常勤務で登城するようになる前に、挨拶しておけなければならない。

 気がかりは、残る。なのにミナミがそれにばかり構っていられない立場になってしまったのも、事実だった。

「時間あんなら、アンくんたちは早速衣装部行って採寸するように」

 平素と変わらぬ無表情でそう言い残し、ミナミとヒューが隊列を離れようとした間際、なぜか、ブルースがさっさと踵を返し、さっさとドアに向かって歩き出したのだ。

「アントラッドくん…。アイリー次長退室までは動かないで下さい」

 上官になるスーシェに咎められたブルースが、無言で傍らに退去し会釈する。いかに魔導師隊といえどもあの緋色のマントを授与されていなければ、衛視に対して失礼な振舞いをさせる訳には行かない。

 何か不可解な雰囲気。それでもミナミは平然とブルースの前を横切り、ヒューもそれに続いた。

 何か、不可解…。

「衣装部ってどこにあんの? アンさん」

「イルくん知らないんだ。じゃ、ぼくが案内してあげるよ」

「うん。ブルースも一緒に…」

「勝手に行け。僕はひとりで行けるし、……お前と四六時中くっついて歩くつもりはない」

 スライドドアに手をかけたミナミは、そのブルースの冷たい声に振り返った。

「先に言っておくけどな、サーンス。確かにお前が僕を選んだから僕は誰より早く魔導師隊に編成されたかもしれないが、僕は、お前に感謝なんかしてないからな」

 振り返ったミナミとヒューの位置からでは、イルシュに向けたブルースの顔を見る事は出来ない。だが、言い放たれた途端に青くなって目を見開いたイルシュの顔つきとブルースの口調で、それが決して友好的なものではないというのだけは判った。

「あ…の……、おれ、別に感謝されたいとかそんな…!」

「だったら僕に構うな。僕は、………………お前と友達になりたいなんてこれっぽっちも思ってない」

 握り締めた拳を胸に掻き抱き、イルシュは必死に何かを訴えようとしていた。しかしなぜそんな風に言われるのか判らない少年は唇を震わせるばかりで、言葉が出てこないようだった。

 そこでミナミは、ふとこの異変に気付く。

 ブルースの暴言。イルシュの戸惑い。

 ではない。

 おかしいのは、ドレイクだった。

 ドレイクが、こういう時真っ先にイルシュとブルースの間に割って入るだろうあのお節介が、渋い顔でブルースを見つめているばかりで口を開こうとしない。それを疑問に思ったのはミナミだけでなくヒューもだったが、なぜかそれ以外の誰も、不思議そうではなかった。

 だから、おかしい。

 何もかもがおかしい。

 全てが。

 噛み合っているのに、判り合っていない。関わり合っていない。

 全てが。

 同列にある謎。

 ミナミはあのダークブルーの双眸を、佇むハルヴァイトに向けた。

 無表情にイルシュの背中を見つめているハルヴァイトは、ミナミの視線に気付いていないようだった。不透明な鉛色の瞳。固く引き結んだ唇。額にかかる鋼色の髪が微かに揺れ、観察者である恋人は静かに首を横に振る。

「こういう時最初に口開いていいなんて思ってないけどさ、でも、きっとこれってアタシの役割なんだろうからはっきり言うけど? クソガキ。

 あんたのそれ…ヘイゼンは許してんの?

 あのヘイゼンがよ? なんでもかんでも全てお見通しってしたり顔して生きるのに命賭けてるヘイゼンが! なーんも知らないちっこいイルちゃんにあんたが冷たく当るのを黙って許してるのかっつってんだよ!」

 タマリはガラ悪く長上着のポケットに手を突っ込んだまま、じろりとブルースを睨んだ。

「…………」

 その彼を、ブルースが睨み返す。

「ああ? なんだ? そのツラはさ。なんか文句あんの? アタシ何か間違ってる? それともあんた、ヘイゼンが誰だか判んねぇの? ヘイゼンだよ、ヘイゼン! フルネーム教える?

 ヘイゼン・モロウ・ベリシティ!

 元・第五小隊の小隊長で、今は第七エリアでエリア制御室の整備と調整しながらやたら説教臭ぇ事ばっか並べてるあいつ!」

 ヘイゼン・モロウ・ベリシティ。

 ミナミは、無意識に視線をタマリからハルヴァイトに戻した。

 元・第五小隊。ハルヴァイトが……………。

「偉そうに言わないでください、タマリ魔導師。ヘイゼンは僕の親戚で、誰に教えて貰わなくても、僕は」

 そこで一度言葉を切ったブルースが、赤銅色の瞳をハルヴァイトに向ける。

「ヘイゼンの事を一番よく知ってる」

 突き刺すような視線の赤い瞳。

 まるでなんの感情も見せようとしない、鉛色の瞳。

 そのふたつが中空でぶつかりあって、ブルースは尚も何かを言い募ろうとし、ハルヴァイトは無言のまま少年を見つめる。

 冷ややかに。

 冷ややかに。

 ただ…冷ややかに…。

 ではなく。

 複雑に絡み合った内情の片鱗さえ見せないように、無感情に、瞬きさえせず静かにブルースの吐く毒を受け止めて、やり過ごすのではなく、その全てを受けとって、その上でハルヴァイトは少年から目を逸らそうとしないのだ。

「知ってる? ああ、そうだろうね。でもあんた、ヘイゼンの事知ってるだけで、解っちゃいないよ」

 凍り付いてしまった時間を強制的に進めるのは、刺のあるタマリの声だけ。当時同じ小隊に属しヘイゼンの部下だったはずのドレイクとアリスは黙して語らず、詳細までは知らないもののハルヴァイトの起こした事故を知るスーシェ、デリラ、アンは口を閉ざし、まったく事情の判らないイルシュがおろおろと周囲を見回す。

 そして、ミナミは静謐な観察者。スライドドアの前に佇み、じっとフィールドを見つめるだけの…第三者。

「解ってない。ヘイゼンはあんたの事、解ってたみたいだけどさ」

 そして、タマリは。

「言ってたものね、あいつ。

 あんたは………哀れだって」

 タマリはそう疲れたように呟き、色彩の枯れた緑色の瞳をデリラに向けた。

  

   
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