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13.エンドレス

   
         
(7)

  

 その日アイゼン邸でミナミとミル=リーが何をどう約束したのか、残念ながら、それはウィドを交えた三人だけの秘密となった。

「…うん、ミラキ卿の方は大丈夫…だって、ミル=リーさんが約束してくれたよ」

 というのが、なぜだか非常に歯切れ悪くミナミが報告した全てであり、ミル=リーがどういった方法でミナミの「お願い」をきいてくれようとしているのかは、正直、ミナミ自身にも判らなかった。

「まぁ、あれから五日しか経ってませんし、ドレイクの方にも特別大きな動きはないようですから、まだ何も起こっていないのかもしれませんね」

 謹慎明けのハルヴァイトと一緒に、本丸大階段横にある階段を通って執務室へ向かう、ミナミ。

「結局、いい事なんかなんもなかった…つうほど、悪い休暇でもなかったかな…」

 溜め息みたいに吐き出したミナミを、傍らのハルヴァイトが微かに笑う。その笑みが何を含んでいるのか判らないミナミは無表情に恋人を睨み、睨まれた恋人は、得体の知れない鉛色の瞳で彼を見つめ返した。

 ミナミは、この眼に見つめられると時々思う事がある。…あの臨時議会の後は、頻繁に…。

 このひとは、全て「知っている」のではないか? その上で、何も言わないのではないか?

(……だったら、最悪だな)

「次に長期の休暇が取れたら、リゾート・エリアにでも行ってみましょうか。最近のミナミは、ちょっと気疲れし過ぎのようなので」

 無言でじっとハルヴァイトを見つめ返すミナミの、ダークブルー。その中で前より正体の判らなくなった恋人が、朗らかに微笑む。

 第十リゾート・エリアといえば、プラントのない純然たる娯楽施設の集合体で、面積が狭いながら、巨大なショッピングモールの他に、今や資料でしかお目にかかれない地表にあった古式ゆかしい町並みだとか、カジノだとか、庶民的なコンドミニアムから高級ホテル、果ては実物そっくり(だとは謳い文句であり、実際の「実物」はとうに地表で絶滅していると思われているが)の哺乳類や鳥類などが「機械式」で再現され、観覧出来るようにもなっている場所である。

 当然ミナミはそんな場所に行った事がなく、テレビ中継で見た知識程度はあったが実際に行く機会などないと思っていたので、正直、この恋人にそんな事を言われて、ちょっと、心が動いたりも…。

「つか混み過ぎ? 俺じゃ歩けねぇっての」

 軽く落胆。

「では、貸し切りで」

「……ホントにやりそうで怖いから、笑顔でそういう冗談言うなよ…、アンタ」

 自分でそう言って、ミナミは思わず笑ってしまった。

 俯いてくすくすと笑う、ミナミの横顔。冗談だと判ってはいるが、ハルヴァイトが言うと本当になりそうで、かなり怖い。

「…大丈夫ですよ…。何があっても、わたしが、あなたの手を握っていてあげます」

 やや薄暗い非常階段の途中、ミナミは手摺に片手を置いて、ふとハルヴァイトを見上げた。

 慣れた本丸のエレベーターさえまだまともに使えないミナミに、なぜハルヴァイトは平然とそんな事を言うのだろうか。城内や居住区の移動に同行してくれるヒューやルードリッヒ、クインズも、実は、ミナミと人通りの多い場所を歩く時には相当気を使っているらしく、傍らに居て…護られて居る…ミナミでさえも、彼らのぴりぴりした気配に声を掛け難いのに…。

 なのに恋人は、いつも平然と、泰然と、表通りさえ歩けなかったミナミをエスコートする。

 機械仕掛けのようであり、機械仕掛けでないから、そのひとは。

「………………うん」

 ほんの少し恥ずかしげに目を伏せたミナミが、足早に階段を駆け上がり昇降口の扉に手をかけようとした。

 刹那、それが開け放たれようとし、驚いたミナミが一歩後退するのと同時に、ハルヴァイトが開きかけたドアに掌を叩き付けて押し返す。

「開けるな」

 憮然と、一言。と、ドアの向こう側の驚いた気配がすぐに緩む。

「ああ、すまない。まさかこうタイミングよくお前たちが来るとは思わなかった」

 からかうような声は、なぜか、ヒュー・スレイサーだった。

「? ヒュー、もう下城したんじゃなかったっけ?」

「ナヴィに掴まって下働きさせられてる真っ最中だ。ここでお前たちを足止め出来なかったら、今日も寝る暇さえ取れなかったかもな」

 ヒューの気配がドアから離れてすぐ、ミナミは慌てて廊下に飛び込んだ。ヒューが何かやっていると言う事は、仕事がミナミの到着を待っているのではないかと思ったのだ。しかも、どうやら彼はミナミとハルヴァイトを待っていた(か、探していた)らしいし。

「……急いでんなら電信で…」

「いや。そこまで重大でもない。が、出来ればお前たちが執務室に入る前に納得しておきたい事があると、電脳班のひめ様が仰ってな」

 納得しておきたい? とヒューが何を言っているのかさっぱり判らないミナミがハルヴァイトを見上げると、彼は微かに笑みを零していた。

 笑っている。ミナミのやや後ろに佇み、相変らず偉そうに腕を組んで、…何もかも判っていた、とでもいうような顔で。

「……いや、今更だし…」

 恋人はーーーーーー。

「とにかく、執務室に顔を出す前に一緒に来てくれ。登城の確認は取れているから、少しくらいミーティングに遅れても構わないだろう?」

 ハルヴァイトを見上げて黙り込んだミナミを奇妙な顔で見ながらそう言って、ヒューも、何か言いたげにちらりとハルヴァイトに視線を流す。

「構いませんよ。それに、ちょっとミーティングに遅れてクラバインに小言を頂くよりも、ウチのひめにひっぱたかれる方がずっと怖いですからね」

 恋人は。

「マジだろな…これは…」

 朗らかにすっとぼけた事をほざいた。

          

        

 もしかしたらドレイクやアリスという彼…ハルヴァイト・ガリュー…に最も近しいひとでさえ、こんな疑惑を抱いたりしないのではないか、とその時もミナミは思った。

 それとも、ミナミがハルヴァイトを判っていないだけだろうか。

 もしその「疑惑」をミナミが誰かに相談したなら、その誰かは即座に「そんな事があっていいものか!」とミナミの落ち付かない気持ちを否定してくれただろう。

 だから、ミナミは間違っていなかったのだ。

 ただし、事態の終焉がハルヴァイトの「知っていた通り」だったのか、はたまた「予想した幾つかの中のひとつに過ぎなかった」のかは、永劫誰にも判らないが。

 ノックもしないで会議室に入ったハルヴァイトとミナミ、勢いで着いて来てしまったヒューの到着を待っていたアリスは、なんだか難しい、どうも釈然としないという顔つきで、彼らに手招きした。

「急でごめんね、ミナミ。…別に君を責めようとか、そういうつもりじゃないんだけど…」

「? って、俺、なんかしたっけ?」

 いや、したような気も…しないでもないが…。

「ただ、どうしてああなったのか、あたしに説明してくれない?」

「ああ」と言われても、何がどう「ああ」なのかさえ判らないミナミに答えられる訳もなく、彼は、彼以上に当惑しているらしい赤い髪の美女にとりあえず座れと手で示した。

「うん、あのさ、アリス。俺はなんでアリスに呼ばれたのか、よく判ってねぇんだよ。でも、まぁ…予想は着いてる、気はする」

 多分?

「ミル=リーさんの事? もしかして」

 アリスの傍に椅子を引き寄せて自分も座ったミナミが、テーブルに片肘を着き小首を傾げる。その、奇妙に落ち付いた仕草になぜか…ほっと安堵の吐息を漏らしたアリスが、改めてミナミとハルヴァイト、こちらはテーブルに軽く寄りかかって腕を組んだままの上官を見上げ、そうよ、と頷いた。

「じゃぁもしかして、君たち、何も知らないの?」

「俺は、知らねぇ」

 では、ハルヴァイトは?

「さぁ、なんの事でしょう」

 窓の外、今日はやけに青色が清々しい天蓋の向こうに鉛色の瞳を向けたまま、ハルヴァイトは素っ気無くそう言った。

「結果だけを言うなら、って、何が結果なのかあたしにもよく判らないけど、とにかく、ハスマ卿が駆け込んで来た話の結果だけなら、グレースとドレイクの間には何もなかったし、彼らは正式に「友人」として知られてしまって、今後、グレースがドレイクに言い寄る隙は……世間的に、なくなったと言っていいでしょうね」

 漆黒の制服に映える真っ赤な髪を手で払うアリスの、奇妙な顔つき。

「でも、それだけじゃねぇんだ」

「そう…。そうね、すぐにふたりの耳にも入るでしょうから、先にあたしが教えておく。

 グレースは、一年程前に「不肖の弟」絡みで関係のぎくしゃくしていたミラキ家とアイゼン家の…つまりはミル=リーとドレイクなんだけど、その仲を友好的に取り持った事で、サロンでも貴族会でも一目置かれるに至った、って寸法」

「………………え?」

 淡々としたアリスの言葉に、今度はミナミが…ぎょっとした。

「その時、ドレイクはふたりのお嬢様方に「お幸せなご結婚が巡りますように」って言ったらしいのよ。それってつまり、まぁ、自分はその対象から外れたって意思表示で、だからこの先、ミル=リーもグレースも、ミラキ家に対してどちらかが抜け駆けするのを許されなくなった。ミル=リーの方は以前破談を受け入れてるからいいものの、グレースの思惑はつまり…」

「最初(はな)から潰された訳ですね……。多分、ミル=リー嬢の策略で」

 呆気に取られるミナミの代わりにハルヴァイトが呟き、ついに、アリスも椅子の背凭れに身体を預けて肩を竦めてしまった。

「策略って言い方やめてよ、ハル」

「では、思惑通り?」

「誰の」

「彼女のでしょう?」

「……だから、それをあたしはミナミに訊きたいのよ。

 ねぇ、ミナミ、君、あの日彼女に、何をどう頼んだの?」

 返答次第では代わりにハルヴァイトをひっぱたきそうな顔つきで睨まれたミナミが、短く息を吐いてからアリスに身体ごと向き直る。きちんと座り直し、ダークブルーの双眸で赤色の美女を見つめた綺麗な青年は、うん、と頷いてから薄い唇を開いた。

「訳は「まだ」話せねぇ。でも俺はミラキ卿にすごく感謝してて、みんなに助けて貰って…幸せに…なったから、今度はみんなに幸せになって貰いたいと、ホントにそう思ってる。だから、今はミラキ卿の周囲に「余計な」噂が立つのを阻止したい。つって、グレース嬢の話ししただけ」

「それだけ?」

 少し眼を見張ったアリスに、ミナミはもう一度頷いて見せた。

「それだけ、つったら嘘かもしれねぇけど、そこは、俺とハスマ卿とミル=リーさんの秘密で、ここじゃ話せねぇよ。それ、ミル=リーさんとの約束だし」

 内緒?

「とにかく、俺がグレース嬢についてミル=リーさんに言ったのはそれだけ。ハスマ卿に至っては、フェロウ邸でしたミラキ卿とグレース嬢の話を彼女に聞かせただけで、やっぱ、それ以上何も言わなかった」

 ミナミは嘘を言っていない。それは、判る。

 では、一年も前の騒ぎを再燃させたのは、ミル=リー自身なのか?

 アリスは黙って唇を引き結び、ミナミと、その後ろに佇むハルヴァイトを見つめた。

「ミナミは「だから何をしてくれ」と彼女に言わなかったし、ハスマ卿も「だからこうしてくれ」とは言わなかった。となれば、今回の一件はミル=リー嬢が自ら仕掛けたんでしょうね。そう、例えば、グレース嬢の評判もドレイクの評判も下げる事なく、それどころか、今後彼女が再度ドレイクに近付く隙を与えずにノックス家の株を上げる方法としては、捨て身ですが…上出来なんじゃないですか?」

 捨て身…。

「ちなみにさ、ドレイクとミル=リーさんの間って、そんなぎくしゃくしてたの?」

「してないわよ。だって、ミル=リーがマーリィに会ってみたいって言うから家に招待した時、偶然ドレイクが来て、暢気にお茶飲みながら「誰かいいひとでも出来ましたか?」なんて話を当のミル=リーとして帰ったもの」

 では?

「虚飾。噂好きな周囲にもっともな「理由」を与えて納得させるには、有効な手口だな」

 などとヒューが口を挟み、なぜかアリスに…睨まれた。

「それでなぜナヴィ嬢の機嫌が傾いてるのか、って話だよ」

 さてこちらは、虚飾、捨て身、策略に有効な手口を得意とする特務室勤務のスレイサー衛視が、ハルヴァイトばりの偉そうな態度で首を傾げる。次こそ組み手で床に転がしてやるわよ、と言わんばかりに突き刺さってくる視線に苦笑いを漏らしたが、彼はアリスから目を逸らさなかった。

「それが噂にせよ事実にせよ、出所がアイゼン嬢自身だとすれば謎でもなんでもないじゃないか。ノックス嬢がミラキに会うらしいという話を聞きつけた彼女が、一年前の件で関係が思わしくないから仲を取り持って欲しいとノックス嬢に泣き付いて、ノックス嬢の方も、ミラキと過去に破談しているミル=リーならば同行しても問題はないし、ここで両家の関係修復に一役買ったとなれば、自分の評判も上がる。しかもミル=リー嬢はミラキと顔見知りだ、話題にも事欠かないだろう」

 涼しい顔で平然と言う、ヒュー。ハルヴァイトは小さく笑ってそれを肯定し、ミナミは…。

「過剰サービス……だな、こりゃ」

 ハルヴァイト並にすっとぼけた事を言った。

「それは何よ、ミナミ…」

「ん? ああ、こっちの話。

 策略、ってのはあんまりだとしても、今回の件は多分ミル=リーさんが自分の判断で仕掛けたモンじゃねぇかと、俺も思うよ、アリス。でも、さ…。これはつまり、アリスが思ってるほど悪い方法じゃねぇ」

 言って、ミナミはアリスに微笑んで見せた。

「違ってたらごめん。でも、アリスさ、ミル=リーさんがそういう、自分の噂を利用してまで俺の頼みをきく必要があったのかとか、なんで自分から痛くもねぇハラ探られるようなマネしたのかとか、そういうの…気にしてるつうか、こう、釈然としねぇつうか、そういう風に俺は思うんだけど、なんだろな……、きっと、ミル=リーさんは、ミラキ卿も俺も…みんながさ、この噂つうか話が耳に入った時、ミル=リーさんが判っててやったんだって、すぐに気付くって信じて無茶してくれたんだと、俺は思う」

 ミナミは言って俯き、ここに居ないミル=リーに向けてふわりと微笑んでみせた。

「結果的にグレース嬢の評判は上がった。ミル=リー嬢とドレイクの仲は正式に「友人」として知れた。それで外野が昔の事を持ち出してどう騒ごうが、当事者は誰も被害らしい被害を被らなかったのですから、いいんじゃないんですか?」

「…アンタはその、タマリみたいな究極の結果オーライ発言をやめろ」

         

         

「ふえっくしゅ!」

「? タマリさん、風邪?」

「うむー。さすがに、ベッドもない官舎で床に寝たのが悪かったかなぁ。…って事でさ、今度の休みはイルくん家(ち)泊まりに行ってもいいかな?」

「……いいけど、おれのベッドに潜り込んで来るの、やめてくれる?」

「えー、なにー、いいじゃーんべっつにぃ。えっちなコトしないんだからさぁ」

「………」

「…アントラッド…、デスクに珈琲を零さないでくれないかい? なぜだかこの小隊は、小隊長のぼくに掃除させるんだから…」

「家事全般で、スゥより出際よく且つ美しい仕上がりを誇るものが居ないからです。何せあなた以外はみな、ガリュー班長並に生活能力がない」

「…………自慢できん…」

         

          

「………? どうかした?」

 ミナミに突っ込まれたハルヴァイトが、眉を寄せて口元に手を置く…。

「急にくしゃみが…」

「どっかで噂されてんじゃねぇの?」

「だったら四六時中くしゃみが停まりそうにないな、お前の場合」

 肩を震わせて笑うヒューを、ハルヴァイトがじろりと睨む。

「つかそこ、ふざけるならあっちでやってくんねぇ?」

 自分で誘っておきながらかなり薄情な事をほざいたミナミを、それまで硬い表情のままだったアリスが笑う。

「でも、まぁ、ハルの言う通りでもあるわ。結果は悪くなかったけど、もしも…この噂がミル=リーの意志でなくミナミやハスマ卿の指示だったら、ちょっとシメてやろうと思っただけだし」

「……シメ…………」

 無表情に背筋を凍らせるミナミ。死ぬ。ちょっとでも、多分…。

「全部ガリューに任せた」

「それより、班長と本気で組み手する方が相手になっていいのでは?」

「つうか、押し付けあってどうすんだよ、アンタらは…」

 疲れる。

「いいわ、判った。ミル=リーにも余計な事は訊かないし、これ以上この話題には…」

「あ、いや。アリスにはさ、それに絡んで最後にいっこだけお願いがあんだけど、いいかな」

 これで話はおしまい、とでも言うように笑って立ち上がろうとしたアリスを、今度はミナミが引き止めた。

「お願い、なぁに? 見返りに、ミナミとデートさせてくれるならいいわよ。当然、ハル抜きで」

 赤い唇が婉然と弧を描き、それまでヒューに構っていたハルヴァイトが、慌ててアリスに引きつった笑みを向けた、途端。

「うん。そのつもりだし、最初から」

「!」

 ミナミは平然とそう言い置き、アリスは咄嗟に耳を塞いで頭を抱え、ヒューだけが、天井付近で爆裂した真白い荷電粒子に驚かされた。

「なんてな」

 珍しく機嫌(というか、気分?)のいいらしいミナミは薄く笑いながらそう付け足し、呆気に取られて天井を見上げているヒューと、唖然とミナミを見つめているハルヴァイトに、なぜか…またもやなぜなのか…、出て行け、と手を振った。

「こっからはアリスと俺の内緒話だから、アンタとヒューは仕事に行け」

「というか、俺は官舎に帰って寝る時間なんだが…な、ミナミ…。頼むから、謹慎明けのガリューをまた自宅に逆戻りさせたくないなら、あれを…なんとかしてやれよ…」

 言ってヒューは、今だ天井付近でぱちぱちと散る火花を指差し、ミナミに苦笑いを向けた。

「久しぶりに見たな……あれ…」

  

   
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