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14.機械式曲技団

   
         
(17)

  

 身に着けた衣装のせいで意外にも間抜けな「ぼて!」という音を響かせた、最後の機械式ピエロが床に転がる。

 それで、もう自分の他に立って歩けるものはないと判断したヒュー・スレイサーは、握った形を記憶してしまった両の拳に視線を落とし、誰もここにいなくてよかった、と本気で失笑した。

 周囲に転がるピエロの群れは、まだ果敢にも動き出そうとぎこちなくもがいている。自分の拳からまたもやそれらに視線を流し、なんとかかんとか、無理矢理、折り曲げた指を掌から気合だけでひっぺがしつつ、ヒューは肩を竦めて首を傾げた。

「いい加減にしてくれ、もう…。お前らと違って、俺はヤワなんだからな」

 今にも笑い出しそうな膝に動けと命令する。しかし、すぐには動き出せない。恐ろしいまでの失態だし消耗だし、元より、機械式と素手で殴り合おうなんて我ながらばかだな、と溜め息も出ないまま、ヒューは。

 切れた唇をなんとか持ち上げた右手の甲でぐいっと拭い、ぎちぎち軋む脚と腕の痛みを無視して、倒れた白い布を跨ぎ越えその場から離れようとした。

「……今なら、五センチの段差から転落して腕か脚の骨を折る自信があるぞ…俺には」

 そう太くない鉄骨に絡み付いて折り重なった十数センチの布の束が、越えられない。床に転がる都合九体の機械式ピエロ。その全てが全て、見事に脚の関節と腕の関節を逆にへし折られ、仰向け、うつ伏せ、横たわったまま、悶えるようにがしゃがしゃと無駄な動きを繰り返している。

 急に動き出した、ピエロたち。それをこの展示天幕から一歩も外へ出してはならない、と自分に科したヒューが選んだのは、弱い接合部分を壊し、外し、動きを停める事だったのだ。

 考えるのは簡単で、言うだけならもっと簡単で、しかし、相手は固い金属製の機械式。いかに接合部が他より脆いとは言え、こちらは素手で、相手は強固に抵抗してくる。となれば当然簡単である訳もなく、ヤワな人間のヒューは多大な犠牲を…払った。

 全身痣だらけ、裂傷と擦過傷。ピエロの振り回す腕をまともに食らった左腕はもう持ち上げる事さえ出来ず、足腰はがたがた。

 鉄骨相手に組手しても、もうちょっとマシかもしれないと溜め息も出る。

 倒れた鉄柱と布を躱して立ち去ろうとするヒューが不吉な軋みを聞いたのは、ピエロの群れから少し離れ、展示されたままだったグロテスクな天使と悪魔の前を行き過ぎてすぐだった。

 咄嗟に頭を低くして床に転がったヒューの左肩に、鋭い痛み。まさか悲鳴を上げるような醜態を晒すつもりのない彼は、うつ伏せに倒れた背中を何かが踏みつけ冷たい五指に手首を掴まれた、刹那、奥歯をぎゅっと噛み締めて呼吸を、止めた。

 捻り上げられた、動かない左腕。相手は誰だ。ではなく、どちらだ、と短い思考が脳裏に浮ぶまでのコンマ数秒に割って入る、激痛と意識を奪う真っ白なハレーション。

「!」

 バキン! と呆気ない音が頭蓋骨内に反響し、放り出されて、ヒューは左肩を押さえその場に蹲った。

 全身にイヤな粘ついた汗が噴き出す。肩から先が消失してしまう恐怖は瞬き一回ももたず、すぐ、鈍く重苦しい痛みが白濁した脳を激烈に覚醒させる。

 ギギギギギ…。

 不吉な物音に霞む目を向ければ、そこには…。

 腐れかけの天使が、剥き出しの骨さえ折れ曲がった無残な羽根を広げて、あのガラクタのステージに繋がるワイヤーとぼろぼろのローブを床に引きずりながら、ヒューに襲いかかろうとしていた。

 選択肢は、ふたつ。

 逃げるか。

 戦うか。

「ここで逃げたら、フォンソルに殺されるだろう?」

 苦しい息の下でそう吐き棄て、ヒューは立ち上がった。

「お前に殺されるより、本気で怒ったフォンソルの方が数百倍恐ろしいぞ」

 あの道楽親父は、手加減を、知らない。

 くっついているだけの左腕を庇い、握った右の拳をガラクタの山から降りて来た悪魔に向け、同時、右足を一歩踏み出す。これは、完全な攻撃体勢。軽く頭を振って気合を入れ直したヒューは、そのまま重心を垂直に下げた。

 生きているのは右手、両足。踏み込んで、打ち据えて、自分の身体は…どれだけもつのか。

 サファイアの瞳に狂気の光が返って来る。攻撃は最大の防御。やられる前にやれ。と、フォンソル・スレイサーは息子に教えた。

            

「護るために勝ちなさい。勝つために戦いなさい。戦って勝てないなら、負ける。負ければ、何も護れない。護れなければ、戦う事しか出来ないお前など意味がない。

          

 意味がないなら、死んでしまえ」

          

「!」

 動き出し、腕を伸ばしてヒューに掴みかかってきた天使はピエロよりも背が低く、衣装を着けていない分防御性が悪そうに見えた。だからといって金属の強度に変わりはないのだから、今更、満身創痍のヒューが素手で抵抗し勝てるのかどうかは、甚だ疑問だったが。

 ぎらつく青い瞳で天使を睨んだまま、ヒューは低く深く一歩だけ踏み込んだ。頭上から覆い被さるように襲い来る不出来な天使は内部構造剥き出しの両手をがっちり組み合わせ、ヒューの背骨を狙って金属の拳を振り下ろす。

 天使の身体が前に傾ぐ。重心が前に倒れる。機械式の安定性が悪い事はピエロで確認している。そしてこの天使には「意味のない」翼の残骸が、背中にあるのだ。

 意味がないなら、死んでしまえ。

 ヒューは天使の重心が前傾した空気を読むなり、握っていた右の拳を開いて腹部から垂れ下がっているコードの束を引っ掴むと、背中に振り下ろされようとする固い拳を避けるため強引に体を右に捻って、その勢いを殺さず不気味な天使を巻き添えに床に転がったではないか。

 転がろうとする力。叩き付けようとする力。最後までコードの束を放さなければ天使はヒューを下敷きにしたかもしれないが、天使が前のめりに倒れる、刹那で、彼はそのコードからわざと手を放した。

 ぐしゃりと無様につんのめった天使が、胸で床に激突。悲鳴のような金属音を床に叩き付けられながらもしっかり聞き取ったヒューは、動かない左肩で強引に床を突き放し、跳ね起きて、うつ伏せの姿勢から起き上がろうと腕立て伏せの要領で床に両腕を突いたニセモノ天使の背中、折れ曲がり、破れて皮膜も垂れ下がり、それでも尚その身体にしがみ付いている翼の残骸に右腕を絡めると、それに全体重を預け、一気に胴体に押し込んだのだ。

 小骨のように生えた細かい針金が皮膚を切り裂き、鮮血を噴き出させる。それでもヒューは一向に構わず、両腕を床に突っ張ったまま仰け反った天使の背中に翼の残骸、つまりは鉄の棒をぎりぎりと刺し込んだ。

 目の奥が痛むような一際甲高い音が、ピエロたちのばたつく空間を引き裂く。それで、だからどうするのだ、と問われても判らなかったがヒューは、何もしないで黙ってやられるのだけは断る、と強固に「勝ち」に執着した男は、ついに、機械式天使の翼を無残に崩れた胴体に突き刺し、捻じ込み、ショックでぎくりと跳ねた悪趣味な人形からのろのろと離れて、数歩後退った。

「!!!!!」

「おい、大丈夫か」

「…うん……。大した事ないけど、あいつ…やってくれんじゃん…」

「接続復帰出来るのか?」

「出来るよ、すぐに。なんでもねぇよ、このくらい…。ピエロどもと同じだって思ってくれればよかったのに、なんであいつ、アレだけは壊そうとしてんだ?」

「判らんな。いや…判っているから、か…」

         

        

 息が上がる。もう、右手の感覚も怪しい。なんとなく目を向けてみると、天使の羽根の小骨が掌を貫通して、甲まで突き抜けているところがある。そうでなくても傷だらけで、現実味のない鮮血が掌から手首にまで伝っている。

 不自然なほど、痛みを感じない。

「…………」

 ヒューは血塗れの手から動きを止めた天使に視線を移し、ふっと短く息を吐いた。

 これには、勝てないと思った。

 絶対に、勝てない。

 笑いたくなるほど、勝ちが見えない。

 なぜなのか。

 どうしてなのか。

 絶対に、勝てない…。

 瞬間、うつ伏せに倒れていた天使が…ごそりと…起き上がった。

          

         

 攻撃系魔導機の稼働確認。

 及び、プラグインによる未確認端末の操作確認。

 システムアカウント「ディアボロ」により、強制切断。

           

           

 更に数歩ふらふらと後退したヒューが、展示天幕の外周に背中をぶつけて、ついにその場に座り込む。その間に身じろいで立ち上がった天使が崩れかけた面で疲れ切った彼を睨み、ヒューは、薄く笑った。

「ここまでか…。とにかく、アンくんは無事のようだし、それで、俺の意味もあったかもな」

 彼が溜め息のように呟いた、刹那、床に倒れてもがいていたピエロどもがびくりと痙攣し、仰け反って跳ね上がるなり、そのまま、ぐったりと動きを止めてしまった。

 しかし。

「……………」

 それ以上に奇怪な現象に目を奪われていたヒューは、ピエロの変化に気付いていなかった。

 そんな、ちゃちな機械式になど構っていられないような、とんでもない事。

 というか。

「………………は…」

 笑っておこうと、思った。

 ピエロたちがその動きを止めた、まさにその瞬間、ヒューに襲いかかろうと胸から突き出した羽の残骸に手をかけて引き抜く仕草をしたあの天使の背後に、真紅の光を纏った純白の電脳陣が出現し、天使は一瞬でその姿を文字列に分解され、陣に吸い込まれてしまったのだ。

 音もなく、衝撃もなく、ヒューの目前で電脳陣が爆裂する。何度も見た光景。これはたしか、接触陣とかいうのが切断される時の現象じゃないのか? と自分に問い、そうだったかもな、と答えてからヒューは、血塗れの手を額に当てて、座り込んだままげたげた笑い出した。

 勝てなくていい。

 勝ったら問題がある。

 問題じゃない。

「あんなものに勝てたら、人間じゃないぞ」

 素手で勝っていいものではなかったのだ、あれは。

「スレイサーさん! …………? ???」

 比較的怪我は少ないものの、それなりに善戦したのだろうハチヤが飛び込んで来た時もまだ、ヒューは座り込んで笑っていた。

「あの…あ…? これ、ヒューさんが全部…やったんですか?」

 床に累々と転がる機械式ピエロの残骸を恐々見回しながら、擦り傷だらけのハチヤが唖然と呟く。

「? ああ。そうだ。それが何か?」

 やたら晴れやかにそう言って微笑み、ヒューはようやく…気付いた。

「あすこのじゃない「天使」は、バラし損ねたがな」

 そう。

 ガラクタのステージに居た天使は、まだしっかりと悪魔に手を伸べてそこに居たのだ。

 少しも前と変わらず。

 世の中の事などまるで無関心に。

 悪魔を、見つめている。

 ヒューは分厚い天幕に背中を預けた姿勢のまま、呆れて物も言えない、とでも言うように素っ気無く肩を竦め、口元に薄笑みを浮かべた。

「…戻ったら、ナヴィに感謝のキスを押し付けるのを忘れないでおこう…」

  

   
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