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14.機械式曲技団

   
         
(27)

  

 そこに到着するまでの間、イルシュは何度か足を停め、確かめるようにジョイ・エリアサーカス・ブロックを仰ぎ見ては、反対側の外壁を見上げた。

 途中、サーカス・ブロックのライトがダウンしたのを確認した。内部で何が起こっているのか気にはなったが、通信機が正常に稼働していないのでウロスとの連絡も取れない。一旦戻って状況を確認し、再度来る事も出来ただろうが、少年はそれをしなかった。

 向こうは、気付いているはずだ。

 だとしたら、戻っている時間はない。

 何かに突き動かされるように走り、振り返り、仰ぎ見て、イルシュは、ふととある場所で足を停めた。

 右手にサーカスの主天幕が見える。それは随分離れていて、自分との間には何もない空間が広がっていた。支柱と隔壁があるこういった余白は、王城エリアでは珍しい。円形の都市中心に位置する王城エリアも円形で隔壁区画はスラムの外にしかなく、支柱の周囲は公園広場になっている。

 王城エリアの支柱に関してイルシュは、この数ヶ月で殆ど全てを見て回った。監禁されていた場所から「広場」らしい場所が見えた、と証言したからなのだが、ドレイクやアンに付き添われて見回った支柱を囲む広場に、うろ覚えの記憶に合致する場所はなかった。

 距離は少々あるものの、サーカス主天幕裏手に位置する場所で足を停めたイルシュは、ぼんやりとそこに立ったまま外壁に顔だけを向けた。緩やかにラウンドして立ち上がる、鋼色の壁。継ぎ目とボルト剥き出しのそれを舐めるように上まで眺め、少年は一歩踏み出す。

           

「…嘘だ。嘘…。あいつが生きて戻って来るなんて、嘘だ! おれを殺しに来たなんて嘘だ! でも…でも……」

         

 イルシュは深呼吸した。毛先の乱れたざんばらの髪を振り払い、膝を叩くような深緑色の制服を整えて、背筋を伸ばす。

 少年は、あの「noise」事件の後保護されてミラキ邸に世話になってから、ずっと誰かに助けられて過ごしていた。

 ドレイクやアン、デリラ、アリス…。ハルヴァイトとは、最近ようやく、普通に顔を合わせて、普通に話しが出来るようになった。それから、ミナミ。最初は冷たいと思っていた無表情が、実は彼が彼を護るための「鎧」なのだと気付いてからは、無表情の裏に隠れた微かな変化を空気で読む事にも慣れて来た。

 ミラキ邸の使用人たち。執事頭のリインは行儀作法に厳しく何度も叱られたが、そのたび彼は少年に「あなたもミラキの家の者なのですから、旦那様のためにも、きちんとしなければなりません」と言い、戸惑うイルシュをこっそりと励ましてくれるのはいつも、執事のアスカとコックのロワイエだった。

 まだいる。

 城門警備部の兵士たち。あの臨時議会の日、中に入れてくれと訴えたイルシュ少年を黙って招き入れてくれたのがなんという名の兵士なのか、少年は知らない。しかし彼らは議会の中継とイルシュの青ざめた表情、それから、自分のためではなくミナミとハルヴァイトのために行かなくてはならない、という少年の懇願に、黙って通用門を開いてくれた。

 思い出す。全ての人。

 スーシェ、タマリ、ウロス、ケイン。ブルース…。第七小隊の仲間たち。ギイルと、電脳班直属部隊の兵士たち………。

 陛下。

 内緒で屋敷にやって来て、ドレイクには秘密だよ、と笑いながら少年にこっそり耳打ちした人は、陛下よりももっときれいで幸せそうだった。

         

 ぼくは多分ね、「ぼく」を犠牲にしてもいいと思えるくらい、ドレイクを愛してるんだよ。

       

 あの柔らかな笑顔。

「…陛下に…生涯忠誠を…。おれは……」

 王都警備軍電脳魔導師隊第七小隊魔導師として、イルシュ・サーンスは踏み出した。

      

      

 ややあって。

 ミナミ、ルードリッヒ、クインズが隔壁エリア外壁のメンテナンス・ハッチが開け放たれているその場所に着いた時、付近に人影はなかった。

「内部に侵入したようです。応援を要請しますか? アイリー次長」

 ぽつんと口を開けたハッチの周囲を見回っていたルードリッヒとクインズがミナミの元へ戻って来ると、ミナミは、あのダークブルーの双眸で外壁を見上げたまま、首を横に振った。

「時間ねぇよ、待ってらんねぇ」

 即決。ミナミは唖然とするふたりを置き去りにして、さっさとハッチへ爪先を向けてしまう。

「待ってください、次長! 何があるのか判らないんです、ここには。危険ですよ!」

「大丈夫、逃げ足には自信ある」

「じゃなくてですね!」

 言い募ろうとするクインズを、ミナミが振り返った。

「イルくんは迷ってねぇよ、クインズ。だったら、俺も迷う事ねぇし、迷ってもいられねぇ」

 ここに何があっても。

 それだけを言い置いたミナミが、平然と身を屈めハッチの中に滑り込む。引き止めようにもその手立てはなく、ミナミには、誰も触れてはいけない。

「……物凄く強情なんだってよ? アイリー次長って」

「ルードまで…」

 呆れたように肩を竦めて見せたルードリッヒがミナミを追いかけてハッチに取り付くと、クインズはがっくり肩を落として溜め息を吐いた。

「どうする? クインズ。君は、行くの? 行かないの?」

 一旦は姿の消えたルードリッヒが、ひょこ、とハッチから顔を出してにこにこと笑う。ちくしょうめこの隠れエスト卿が! と内心苦々しく思いつつも、クインズは盛大な嘆息とともに荒々しい動作でハッチに滑り込み、狭くて細い通路の足下を照らすオレンジ色の非常照明に浮かんだミナミとルードリッヒに、ふん、と鼻を鳴らしてから言ってやった。

「次長とルードを放っておいたら何をしでかすか判らないので、お伴させていただきますよ!」

 それに思わず、ミナミとルードリッヒが顔を見合わせる。

「何しでかすか判らねぇってよ、ルード」

「次長がでしょう?」

「………………そう言われたのは、始めてだな」

 いや、多分思ってたひとは多いと思うけどさ。とちょっと不満げに付け足したミナミがあまりにも可笑しくて、クインズはつい、吹き出してしまった。

       

         

 そこで何があったのだろう。

 ここで何があったのだろう。

 そこに何があるのだろう。

 ここに何があるのだろう。

 恐怖か。

 失望か。

 絶望か。

 希望か。

        

        

 観測している数値を変換しなければ現実面に何が存在するのか正確には判らない。イルシュがそれを知ったのは、「外」に出てからだった。

 陽炎のような文字列と歪んだ風景。

 きっとそれが今ならば、文字列を現実面において展開し三次元構築、大まかではあるが自分を取り囲む「世界」の形状を把握してから、臨界脳の復旧を待つだろうか。

 もし、ここに居た決して短くはない時間にそれが出来ていたとしたら、この場所を探すのは容易だっただろうと少年は思った。

 窓ではなかった。

 これは…。

「外壁監視用モニターの映像を壁面に投影して見せてただけなんだ…」

 ずっと、窓だと思っていた。その可能性にしがみついていたら、イルシュはまだあの作業用通路を彷徨っていたかもしれない。しかし少年は、途中何度も解析陣を立ち上げては周囲の構造物データを確認するうちに、一個の「エラー」に気付いた。

 意味のない記号が等間隔で紛れ込んでいたのだ、壁面に。観測結果に間違いがあるのだろうか、とその記号を消去したバーチャル・マップを別ウインドウで展開し発見した、抜け穴。現実面における実測データには表示されない臨界式文字だったからこそ、少年はその「抜け穴」を発見できたのか。

 その記号の持つ意味を、少年は知らなかった。まるで「燃え上がる炎に似た」記号だとは思ったが、それが第一期臨界式文字と呼ばれる基底プログラム言語で、単体で「ウツロ」という余白を示すものだとは知らなかった。

 イルシュは結局、今はその「ウツロ」の存在を誰にも語る事はない。彼がもし「燃え上がる炎に似た」記号の形状をミナミに教えていたのならば、あの青年は、この施設に秘匿された重大な意味を知り得たのかもしれないが…。

 なんにせよ、少年はその無意味な記号の記録されたマップを、第十エリア隔壁システムに直接アクセスして訂正してしまったのだ。なんらかの痕跡を証拠として残す、という頭が働かなかったのは、この後、彼ら…王都警備軍ないし王下特務衛視団に持ち上がる重大な事件の解決を大幅に遅らせ、全てを全て、取り返しのつかない「悲劇」に擬装してしまう事になるのだが、今は、それに気付く者はない。

 壁面から余分なデータを取り除いて正常なマップを表示させてみると、隔壁内部には相当数の「空間」があると判った。確か隔壁の構造事態蜂の巣のようなものなのだから、元々空洞になっている部分も多いはずだが、今イルシュの脳内で展開しているマップ上の「空間」は、全て繋がっているようだった。

 では、これをどう解釈すればいいのか。

 蜂というより、蟻の巣。というのがイルシュの感想だった。

 先にもミナミが述べた通り、外壁事態多重構造になっており、それぞれが分厚い合金で出来ている。透明度の高い素材を使って陽光を取り入れる工夫はなされているが、それはあくまでも内部で人間が生活している部分の話しであって、外壁間近に来てみれば、見上げるほどの高さまで鋼鉄の頑強な壁が立ち上がり、その上に透明素材が連結していた。ちなみに、浮遊都市そのものの形は真上から見て円形、横から見ると、ひっくり返した四角錘の上にドームを載せたようになっている。下層の殆どは都市の動力部などになっており、つまりそこに陽光は必要ない。

 最初に見つけた入り口は作業用通路の行き止まり、少し手前に倉庫らしい小部屋がある奥だった。

 一見するとなんの変哲もない壁なのだが、そっと手を伸ばしてみると、そこはあっさりと少年を暗闇の中に招き入れた。

 マップでは何もないと表示されている、暗がり。だからここに見知らぬ空間が口を開けていても、わざわざ奥まで入り込んで暗闇が暗闇だと確かめる人間もいない、という事なのか…。

 イルシュは、今にも口から飛び出しそうな心臓を無理矢理飲み下し、その暗闇に紛れ込んだ。

 手探りで少し進む。すぐ、壁らしいものに行き当った。左右の壁を探っても何もなかったが、微かに動かした爪先の下で空洞感のある音がしたのにしゃがみ込んだ少年が、頼りない指先で床を探る。

 何かに触れた。固くて冷たい感触だった。

 その「何か」を両手でまさぐり、形状を確かめる。取っ手のようなものか? 少年は真っ暗闇の中で目を見開き、見えない取っ手を手探りで握って引っ張り上げた。

 ギィ。と物悲しい音が足下でささやかに呟き、少年が全身を震わせる。怖い。怖くない。進め。もう進みたくない。

 相反する戸惑いを深呼吸で抑え付け、イルシュは引っ張り上げた蓋らしいものを傍らに置き、穴倉のようなますますの暗がりに目を凝らした。

 仄かな薄緑色の光が下方で明滅している。垂直に下っているというなら、梯子か何かがあるのだろうか? と手探りで孔の縁をなぞってみたが、小さなひっかかりさえ見つけ出せなかった。

 ここは。

 入り口であって出口ではなく、入ったら、終わりかもしれない。

 それでもイルシュは震える手で孔の縁に掴まり、そろそろと開口部に身体を滑り込ませた。目前に迫る暗い壁面に息が詰まりそうになり、苦しげに小さく咳き込んだりもした。

 停まるなと命令する。

 怯むなと命令する。

 逃げるなと命令する。

 大丈夫と繰り返す。

「おれは」

 付近の状況をデータで取得。脳内にマップとして展開し、とりあえずの危険がない事を確認、覚悟を決めて孔の縁を離して垂直に真下へ飛び降りる。

 半ば転がるようにして着地したその場所は、上の通路を逆行するように作られた細長い廊下だった。

 それをどうさ迷ってその場所に行き付いたのか、イルシュの記憶は既に定かでない。とにかく、どれくらいかの時間少年はその薄暗がりを歩き回り、何度か縦に細長いドアを通って、徐々に下降する通路に不安を掻き立てられながら、しきりに後を振り返りながらも、奥へと進んだのだ。

 誘い込まれるように。

 まるで、見知った場所を見知った場所に向かって無意識に進むように。

 両脇から迫ってくる、天井ばかりが高い通路。両腕を伸ばせないほど狭く、等間隔に設置された足元の照明が漂う人魂のように進路を照らす。

 イルシュは、何も考えていなかった。何時の間にか。何も…。

 ただ薄闇の支配する静寂に、真新しい長靴が床を叩く音だけが呪詛のように反響するその場所が急に途切れる。ぴたりと足を止め、追いかけてきていた自身の足音も黙するのを待つ少年は、暗い琥珀の瞳で正面を見据え、震える唇からひび割れた吐息を漏らした。

 それなのにイルシュは、無造作とも取れるぞんざいな動作で、何もない正面の壁を押した。

 突如、光が満ちる。

 眩しさに目を細め、顔の前に腕を翳す。

 そう、ここはそういう場所だった。

 ここは…。

 くっきりとした光と闇との境目を踏み越えて、イルシュはその空間に入った。天井が、高い。いいや。高いのではない。上空から続く無数の仕切りが透明度の高い合成金属だから、天上にまします太陽の光があちらこちらに乱反射しながらここまで届いているのだろう。

 少年が立ち止まる。表情の死んだ顔で周囲を見回しながら、ゆっくりと右手を挙げる。

 光が、溢れていた。

「…………………」

 何も考えていない。空洞のような生気ない瞳でだたっぴろい空間を眺めながら、イルシュは。

 広げた掌で思い切り自分のほっぺたをひっぱたいた。

 ぎりっと奥歯を噛み締める。しっかりしろと自分を奮い立たせる。俄かに生気を取り戻した琥珀で周囲を睨み据え、こんなところで立ち止まるなと叱責する。

 陛下が好きだろ? とイルシュは自分に質問した。それ以上に「ウォル様」が好きなんだと答えた。だったらこんな場所で立ち止まっている暇はない。自分に怯えている暇はない。過去の記憶とはさっさと手を切って、明日を…。

          

「朝日よりも夕暮れの方が好きなんだよ、僕。なんでって? だって、暮れなきゃ明日は来ないじゃない?」

         

 笑いながらそう言ったウォルに、ドレイクは「そういう考え方もあるんだろうけどよ、それは随分ヒネてんじゃねぇのか?」と呆れた笑顔で答えた。

 泣きたいくらいに平凡な、そんなリビング。

「周囲のマップを取得…。当然だけど、ここいらのデータはなしか。じゃぁ、とりあえず読み取れる範囲だけを計測して、記録して、上に戻ったら報告すればいいよね。今まで通って来た経路は自動記録してあるし」

 内心の不安と恐怖を隠すようにわざと大声で呟きながら、イルシュは計測陣を立ち上げた。

          

         

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

          

            

 そして少年は、ついに……その場所と対面する。

 陽炎のような文字列と、歪んだ風景の。

  

   
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