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14.機械式曲技団

   
         
(32)

  

 果たしてどこから現れたのか、真紅の文字列を燃え盛る炎のように纏った龍は、狭い廊下のあちこちに激突しては壁面を抉り出しながら、猛然と突き進んで来た。

 逃げるという意識は、不思議にも、働かない。

 微かな振動と轟音に、イルシュが全身を硬直させた。少年と膝を突き合わせるようにしていたブルースもはっと顔を上げて、ドアの外に佇んでいるミナミの横顔に視線を送る。

「なんつうか、すげぇヤべぇ状況? つうの?」

「なんて暢気に言ってる場合じゃないと思います、次長」

 一応ミナミに注意してみたものの、言ったクインズも腰の拳銃に手を伸ばしてはいるが一歩も動こうとしていなかった。無言のルードリッヒに至っては既に両の拳を握り締め、気持ち的に迎撃態勢万全?

「てか、いくらなんでも素手は無理だろ…。ヒューじゃねぇんだし」

 突進してくる、「サラマンドラ」。しかし余程遠いのか、それとも向こうがこちらを警戒しているのか、左右の壁を激しく打ち据えながらのたうつ赤い龍の到達は、まだ少し先のように思える。

 ミナミは、ちょっとアレを叱ってみようかと本気で考えた。

「モデリングが最初に見たイルくんの「サラマンドラ」と同じって事はさ、もしかしたら有効かも」

「そういう幸運は二度ないと思え、というのが…ローエンスの弁ですけど…」

「……「アルバトロス」に会ったらぜってーなんかしてやる…」

 この状況でなんとも緊張感のない会話を交わす、ミナミとルードリッヒ。

「真面目にやってください、次長。ルードも」

 クインズはそこでも一応注意した。

 しかし、ブルースはそうも行かない。高速で今の事態を分析し、どう行動すればいいのか必死になって考える。イルシュは今だ動こうとせず、瓦解音は確実に近付いているのだ。

 ブルースは、イルシュの前から離れないままバックボーンで索敵陣を立ち上げ、そこでやっと…悲鳴を上げた。

「ってそんな暢気な事言ってる場合じゃないでしょう! 体長十メートルもある「サラマンドラ」相手に、何するつもりなんです! あんたらは!」

……ブルース少年、ちょっとキレ気味。

 思わずミナミの横顔に指を突きつけて叫んだブルースの顔を、イルシュがぼんやりと見上げる。しかしブルースはそれに気付かず、きょとんと無表情に見つめてくるミナミを睨んだ。

「もうちょい時間欲しいからさ、ちょっと待ってて貰いてーなとか思ってんだけど?」

「聞いてくれる訳ないじゃないか!」

「なんで?」

 問われて、ブルースは唖然とした。

「魔導機って頭いいんだよ、ホントにさ。俺たちの言う事きちんと理解してるし、自我も…あるはず。イルくんの「サラマンドラ」ん時思ったんだけど、魔導機ってのは目的があってこっちの世界に「来てる」んだよ、多分。その目的ってのは魔導師を護ることだったり、協力する事だったりいろいろなんだけど、とにかくさ…」

 ミナミはそこで一旦言葉を切り、ブルースから正面に視線を戻す。

「利害関係の一致がありゃぁ、こっちの要求を一方的に蹴ってはこねぇよ」

 多分。という不安なセリフをなかった事にして、ミナミは一歩踏み出した。

 荒れ狂う「サラマンドラ」に向かって。

 すぐに、ダメかもしれないと思ったが…。

「サラマンドラ」はミナミが動いた途端に暴れるのを辞め、アーモンド型の目でじっと青年を睨んだのだ。その視線。漆黒の瞳から、巨躯から噴出するのは、反抗的な感情。苛立ち。憤り。憎しみ。悲しみ…。それらは一方的にミナミたちを焼き尽くそうとしてばかりいて、こちらの言葉に耳を傾けてくれそうにはない。

 気配を感じた。絡み付いて来るような気配を。

「でも、逃げられねぇよ、俺はさ。イルくんがそこから出るまでは」

 だからミナミは、ごそりと身じろいだ「サラマンドラ」の周囲で小さな赤い光が瞬いた時も、絶対に、目を閉じようとしなかった。

           

            

 真っ赤な光が眼底を焼く。怒号が鼓膜を震わせる前に、爆音が全てを飲み込んだ。

 背後に控えていたルードリッヒとクインズの事が心配だったが、振り返る余裕はなかった。ただ動かず、身じろぎもせず、真紅の光が空気と壁を焦がし過ぎるのを待つ。

 確信があった訳ではない。しかし、ここが…アドオル・ウインの「世界」だとしたら、という仮定はあった。

 アドオル・ウインは、絶対にミナミを傷付けなかった。あの部屋に押し込まれていた時でさえ、そうだった。彼を怯えさせそれを愉しんでいたヘイルハム・ロッソーは時折、他の少年たち…ミナミのように取引されていた…がどんな事をさせられているのか、どんな仕打ちにあっているのか、誇張して彼に聞かせては、そういう目に遭いたくなかったら大人しくしていろと言った。

 覚えている。忘れる訳がない。…忘れたくても、忘れられない。

 思い出すのはイヤだった。ここでそんな、過去の記録に震え上がっている暇はない。

 とにかく、ミナミはヘイルハム・ロッソーの言う少年たちのような、手酷い扱いを受けた試しはなかった。それが、アドオル・ウインの出した条件だったからだ。

 では、ここではどうか。

 ミナミは賭けた。

 アドオル・ウインは、ミナミを取り戻したいと言った。そして、伴に滅びたいと。

 そのアドオル直轄の「施設」に匿われていたのなら、あの「サラマンドラ」を操る魔導師も、ミナミに危害を加えられないはずだ。

 灼熱した壁面素材が軟体動物のようにぐにゃりと身悶えて落下する。もうもうと上がる焦げた臭いの煙が排気ダクトに吸い込まれて収束するのを視界の全部に収めながら、その中心で滞空する真っ赤な龍を睨んだまま、ミナミは身じろぎもせずに佇んでいた。

「次長!」

 逼迫したクインズの悲鳴に微か眼球だけを動かして背後を窺ったミナミは、短く、鋭く、「こっち来んな」とだけ吐き棄ててまた正面に視線を据え直した。

 出来の悪いモデリングの「サラマンドラ」はまだそこに居た。苛立つように左右の壁をその巨体で打ち据え鎌首を擡げたが、近寄ってくる気配はない。

 射出された熱線は左右に並ぶドアや愛想のない白い壁をチーズか何かのように溶かして、しかしミナミに危害を加える事無く走り抜けた。動かない青年の背中を護っていたルードリッヒとクインズは、真紅の光を目にした瞬間イルシュとブルースの居る室内に転がり込んでおりどちらも無傷ではあったが、逆にそれで廊下に出るタイミングを失ったのか咄嗟にミナミの安否を確認する事しか出来ず、手にした拳銃の安全装置を解除したまま半壊したドアの左右に張り付いて息を詰め、結局、当惑するように室内に視線を移す。

 片膝を床に突いて今にも腰を上げそうなブルースの硬い表情と、轟音と吹き込んで来た熱風に怯えて、ますます身を縮めたイルシュ。

 その、縋るようなルードリッヒとクインズの視線に晒されたブルースは見た。

 もうもうと白煙を上げる溶け崩れたドアと壁面。渦巻く熱風に煽られて巻き上がる金色の髪と、長上着の裾。白い壁に落ちる闇のような漆黒の中、そこだけ嫌に眩しい白手袋が、硬く握り締められている。

 怖くない訳はないのだ、ミナミにしても。

「……俺にはさ、絶対出来ねぇんだよ…。イルくんの手を握ってやる事も、その部屋から連れ出してやる事も、絶対に出来ねぇ。それは誰のせいでもなくて、俺の…俺がダメだからで…、でももし俺に今、少しだけ時間稼ぎが出来るんなら、せめて…それしか出来ないんならさ…」

 自分に言い聞かせるように呟く、ミナミ。

「ここに居るだけでいいなら」

 あの「サラマンドラ」を、止められるのなら。

 ミナミは。

「何があっても、俺は許す」

 許し尽くす。

「………サーンス」

 またどこかで壁の崩落する破壊音と、微かな揺れ。俄かに緊張したルードリッヒとクインズが目配せしあうのと、その向こうにただ泰然と佇むミナミを視界に入れたまま、ブルースは震える声で呟いた。

 恐怖にではなく、悔しさに震える声で。

「頼むよ…。…いや、いい加減にしろよ…。お願いだから、もう、判ったから。違う…。まだぼくは何も判ってないのかもしれないけど、判ろうとするから…、…だから…」

 瓦解音が迫ってくる。徐々に。熱線砲での攻撃は、まだない。

「ゆっくりでいいよ。また何度でも付き合ってやるよ。ここに戻って蹲って怖くて泣いてそれでもお前がここから出ようとしてくれるなら何百回でも一緒に来てずっとずっと待っててやるよ! でも、頼むから、今はっ!」

 イマ、は。

「アイリー次長を上に………。ガリュー小隊長のところにちゃんと帰せるのは、お前だけなんだよ!」

 例えば「牙」に憧れた。

 例えば「姿」に憧れた。

 誰も持ち得ない強い「力」を傍に控えさせ、それでも何かが不満足だという斜に構えた態度に、少年は強く惹かれた。

 ヘイゼン・モロウ・ベリシティ。

 生まれて、気が付いたら、「魔導師」になるのだと思っていた。それに不満はなかった。ブルースは、ブルースがまだ今よりずっと幼い少年であった時から魔導師であり、数多の魔導師たちさえ道を開けるような強大な…「ヴリトラ」と並ぶ臨界第一位という魔導機を操る従兄弟に、心底憧れていたのだ。

 そして、自分も「そう」なるのだと信じた。

 しかし、蓋を開けてみれば、だ。ヘイゼンはあっさりと魔導師を辞めていて、自分に残されたのはただ上空をうろうろと飛び回り、監視するだけの不恰好な「ドラゴンフライ」が五機。ヘイゼン退役の報を聞き、何か釈然としないながらも訓練校に入って、それでもあの優美で凶悪な魔導機が付き従ってくれるのならば、と燻る不安と焦燥をなかった事にして来たブルースを完全に叩きのめしたのは、訓練校のフィールドであの…銀色のトンボを見たのと同じ日、魔導機顕現に伴いいつか編成されるだろう魔導師隊の訓練映像を見せられた瞬間だった。

 不恰好なトンボ。監視するだけのトンボ。出来の悪い平和主義者。

 少年が憧れた「牙」を持ち、爪を持ち、角と尾と、威圧的で攻撃的な「姿」だったのは、ブルースとヘイゼンを同じフィールドに立たせてくれなかった、あの「悪魔」。

 愕然とした。自分の中で何かが瓦解した。どうして自分はああなれないのかと、自分を憐れんだ。

 与えられたものの意味さえ考えず。

 魔導師隊に編成されるとリーディーに告げられた時、ブルースは狼狽した。まさか、あんな無様な「ドラゴンフライ」を「サラマンドラ」が選ぶとは思っていなかったのだ。

 そして。

 訓練校のフィールドで見た「サラマンドラ」を思い出し、今度は…惨めになった。

 ブルースが魔導師隊大隊長グラン・ガンの前で「ドラゴンフライ」を出す日、同じフィールドには魔導師隊でも異色且つ異様で桁外れに優美な魔導機が、わざとらしくも集められたのだから。

 だからブルースは、孤独で自分を護ろうとしたのか…。

 同じ魔導師でありながら、まったく別の者たち。

 少年が憧れて憧れて手に入れられなかったものを、いともたやすく手にした者たち。

 本当は、しかし。

 あの日、あのフィールドにひとり残されたブルースは、理解した。

 彼らは、多大な犠牲を払っている。多分、生きている間、魔導師である間、彼らがその犠牲を払い続けるだろう事も。

 だからブルースは、第七小隊に正式編成されてからは目立ってイルシュに冷たくする事もなく、タマリとケンカはするものの、何事もなくやって来た…つもりだった。

 今日、イルシュに「一緒に行かない」と言われるまでは。

 ローエンスにイルシュの話を聴くまでは。

 卑屈にも。

 シンクロ陣の立ち上がりミスを繰り返し、イルシュがコンビを解消すると言い出すのを待っていたのかもしれない。

 卑怯にも。

 全ての責任をイルシュに任せようとして。

 だがここに来て、いや、来ようとして、聡い少年は、結局あのヘイゼン・モロウ・ベリシティと同じ血筋のどこかに存在している少年は、戸惑いながらもその卑屈で卑怯な自分に決着をつけなければならないのだと悟る。

 イルシュはブルースに助けを求めたのではないか。そう言ったのはローエンスだった。

            

 望む事の意味を知っているかい? アントラッド。望むと言うのは、関わろうとする事だよ。好むと好まざると巻き込まれる方は堪ったものではないかもしれないが、望もうとする者は、望む者に勝手に何かを期待するのだ。

 平穏無事に拗ねて生きて来た君に、判るかい?

 それまで望んでも望んでも手に入らなかったものを与えられて、戸惑って、しかし関わらなければそれが逃げてしまうと判って、関わろうと望む者の決意が。

 君は拒否した。振り払った。

 望む事を再開したサーンスを。

 判るかい?

 望む事を自ら放棄したタマリが。

 判るかい?

 望まないのに関わらなければならないガリューが。

 判るかい?

 望んでいるのに、関わっているのに、触れられないミナミくんが。

 判るかい?

            

「ぼくじゃだめなんだよ。ぼくには何も出来ないんだ。ぼくの「ドラゴンフライ」は見てるだけなんだ。ただ見て、判っても、見てるだけなんだ…。

 戦えないんだよ。護れないんだ。ぼくには何も護れない。ヘイゼンやガリュー小隊長みたいに強くないんだ。アイリー次長みたいに時間も稼げないんだ。エスコー衛視やモルノドール衛視みたいに、戦おうとさえ出来ないんだ。

 ぼくは…………。

 臆病だから、見てる事しか出来ないんだよ!」

 迫る瓦解音。ミナミは動かない。

 苦々しく眉をひそめたブルースが、怯える、というよりは、瞬きもせずに見上げて来るイルシュの膝元に膝を突いたまま、白手袋の両手を握り締める。

「本当はあの日、ぼくは全部判ってたんだ。判ってたけど、認めたくなかったんだ。ヘイゼンが軍を辞めた理由も、ガリュー小隊長が原因じゃないって、知ってた。でもぼくはどうしていいのか判らなかった。みすぼらしい魔導機抱えて、それでなんでぼくがそこに居るのか、……怖かったんだよ…。

 みんながぼくを、笑ってるんじゃないのかって」

 だから自分で線を引くように、わざと不機嫌な顔をして、わざとハルヴァイトに食ってかかって、わざと嫌われて。わざと。

「何も知らない憐れな子供だってヘイゼンが言ってたのを聞いて、ぼくは逃げ出したくなった。ヘイゼンは、判ってたんだ。退役してから一度も会ってないのに、ヘイゼンは…お見通しだった」

 ブルースが、ヘイゼンを振り翳して孤独で身を護ろうとする事さえ見通した、ヘイゼン・モロウ・ベリシティ。

「…こんなぼくだから、本当はすぐに逃げ出そうとする臆病者には「ドラゴンフライ」がお似合いなんだ。ただ見てるだけで、何も出来ない。すぐ誰かのせいにして、自分は悪くないって顔する…。

 そう判ってるから。ぼくはちゃんと、本当は判ってるから。

 頼むから。

 立ち上がってみんなを護ってくれよ、サーンス!」

 感情的でありながら決して荒げない、搾り出すような声に反応して、イルシュはなぜか…ドアの外に佇むミナミに顔を向けた。

 それをブルースはどう取ったのか。しかし、この緊迫した状況でありながらも微か口元に笑みを浮かべたミナミの横顔に、少年は当惑する。

「違うよ、ブルースくん」

 何を見ているのか、ミナミは真っ直ぐ正面に顔を向けたまま、呟いた。

「「だから」きみには「ドラゴンフライ」でさ、あのひとには「ディアボロ」で、ミラキ卿には「フィンチ」で、スゥさんやナイ卿が攻撃系なんじゃねぇ?」

 言われて、ルードリッヒとクインズも思わず顔を見合わせる。ハルヴァイトはいいにしても、スーシェやイムデ少年は一見して攻撃系だと判り難いのではないだろうか?

「臨界は…つか、魔導機たちかな、はさ、みんな…判ってるんだよな」

 ふと、ミナミの口元に浮んでいた笑みが柔らかく、濃くなる。

 ガガン! と一際大きな瓦解音とともに、狭い室内が軋む。もう時間はない。「サラマンドラ」はすぐそこまで迫っている。意味深なミナミの言葉も気にはなるが、今はそれを問いただしている場合ではなかった。

「………」

 不意に、がたがた震えていたイルシュがミナミからもブルースからも目を逸らし、這うようにして部屋の奥へと逃げる。それに一瞥くれて、意外にも、落胆の溜め息さえ吐かず、ブルースは黙って立ち上がった。

「……エスコー衛視とモルノドール衛視は、アイリー次長とサーンスを連れて逃げてください。「サラマンドラ」の足は、ぼくが停めます」

 何がどこまで出来るのかは、判らないけれど。

「ぼくは王都警備軍電脳魔導師隊の魔導師です」

 言い切って、ブルース少年はイルシュとは反対の壁際につかつかと歩み寄り陣の展開領域を確保。「ドラゴンフライ」を顕現させずに相手魔導機への命令系統をジャックするか、操作不良を起こすか、と考えを巡らせる。

「………アントラッド魔導師」

 とそこで、ルードリッヒが、笑っていない時のローエンスによく似た声で少年を呼んだ。

「初期索敵を開始。周囲の施設構造及び敵対象魔導機の行動有効範囲及び操作源を特定」

「え?」

 その、今度は微かに笑いを含んだ指示にぎょっとして振り返ったブルースが見たものは、立ち上がってドアを睨むイルシュの身体を取り巻いた、あの、真紅の立体陣だった。

  

   
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