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14.機械式曲技団

   
         
(34)

  

 イルシュたちの現在地が判らないという報告を受け、ドレイクは微かに眉を寄せた。

『ジョイ・エリアを出て隔壁区画方面へ向かったところまでは確認出来ている。その後、サーンスと、サーンスを追ったアイリー次長が今現在どこに居るのか、いくら調べても掴めない』

 ウロスからの緊急通信で「ヴリトラ」と「アルバトロス」逃走の報とともに告げられた不吉な内容に、ドレイクは思わず傍らのハルヴァイトを窺った。まさか、ここでミナミを探しに行くとは…。

「………行きませんよ。ご期待に添えなくて申し訳ないですけど」

 かなり渋い顔つきではあるが、ドレイクの言いたいことくらいお見通し、とでも言うように呟いてから、ハルヴァイトは短い溜め息を吐いた。

 ここにもし、五つの「未来の可能性」があるとしよう。

 結果がいいとか悪いとかはさて置き、選んで欲しくないと思うものがひとつだけ含まれているとして、そこに至るまでに通る様々な選択肢によって、それぞれの「未来の可能性」がゼロないし百に近付いて行くと仮定する。

 予言や予知ではなく複雑な数式が莫大に続く計算として、ハルヴァイトは未来さえも予測する。

 が。

 いくつかの条件を満たした所で手の中に残った「未来の可能性」はどうか。

 ミナミが絡むと、いつもこうだ。

 単純に数字に置き換え単純に計算を繰り返し単純に「そのひと」の行動パターンを入力して単純にエンターする。

 それがミナミには通用しない。

 判っている。それは仕方がない結果であって、様々な意味合いを込めて頻繁に使用されるのとは少々違ったニュアンスを含んだ凡庸な言葉で現すならば、誰も悪くない。

 こういう苛立ち方は身体にも神経にも悪い。と思いつつも、ハルヴァイトは冷静だった。

 未来の可能性…または確信…は読めている。イコールの先に、一番「考えたくない」答えを入れて、ハルヴァイトはその方程式を閉じた。

「わたしの知らない場所でミナミに何かあったとしたら、サーカスどころかジョイ・エリア丸ごと吹き飛ばす程度の不都合くらいしか起こりませんけどね」

「…つうかおめー、そういう物騒な事、にやにや笑いながら明後日の方向に呟くのやめろよ…」

 観客席用にと並べられたパイプ椅子の背凭れに軽く腰を下ろしたハルヴァイトの横顔を覗き込んで恐々と肩を竦めたドレイクに、そのひとは冷たく笑ってこう答えた。

「笑ってる? 冗談はよしてください、ドレイク。そんな余裕は、ありませんよ」

 データに出来ない恋人は、そうやって彼を……そのひとを…少しずつ狂わせて行く。

           

           

 消えて、二匹の炎の龍は刹那でこの世に舞い戻り、静寂は侵食を再開出来ないまままたも荒れ狂う熱線に焼かれ、雄々しい尾で叩かれ、破砕して散った。

 誰も問わないから誰も答えないのか、まるで拭ったように消失した二匹の龍が乗り越えられぬ隔てのような距離を取って忽然と姿を現し、再度ぶつかり絡み合う轟音に、電脳陣に巻かれたふたりの少年魔導師も、そのふたりを見守る衛視も動かない。

 当然と言うべきか? ルードリッヒには何が起こったのか一目瞭然だった。す、と空気の揺らぎのように動かした首、それから眼球が追うのは、イルシュの「サラマンドラ」が壁に身体を擦り付けて出来た真っ赤な筋。その痕跡がふっつりと途絶えているのは、自分たちの開け放してきた通路のドア直前だ。

 魔導機には、顕現有効範囲という超えられない制約がある。この有効範囲、一般的に制御系は広く攻撃系は狭いと言われており、今現在その常識を著しく逸脱しているのは、「直結開門式」なる禁呪で魔導師そのものが移動可能なハルヴァイト・ガリューだけだと認識されている。

 単純に、イルシュの「サラマンドラ」も相手「サラマンドラ」も、その有効範囲から出てしまっただけなのだ。だから現実面で形状が保てなくなり、瞬間的に臨界へ呼び戻されたが現実面に接触陣の陣影が残っているため、初期顕現領域に「戻された」。

 先には別々に顕現した火龍が同時に現れ、瞬間も置かず空中で組み付く。絡まり合って急落し、イルシュが必死に体勢を立て直すのを阻むように武骨な龍が尾を薙ぎ払い、熱線を閃かせては少年魔導師を苦しめた。

 その熾烈な鬩ぎ合いを、人間どもはただ成す術なく室内に篭り、気配で探る事しか出来ない。細く長い廊下に出れば的にも邪魔にもなるだろうし、何よりミナミには、ここから立ち去る気も逃げる気もないのだから。

 見届ける。彼は今この時さえも、観察者。

 ブルースの「ドラゴンフライ」が突如顕現したのは、だんごのように縺れ合った二匹の火龍が急上昇し、勢い、かなり高い位置だろう天井にその体躯を叩きつけてバランスを崩した、まさにその時だった。今度はルードリッヒからの指示もなく、とりあえず自由にしていいのだと…なぜかブルースの方が衛視の気配を窺い…、予定通りの行動に出る。

「サーンス、そのまま垂直降下」

 裏返しの動体観測陣を見つめていたミナミが、何か言いたげに薄い唇を動かすと、ブルースはにこりともせず青年に答えた。

「どちらにも被害を出さないで時間を稼ぐ、いい手を思い付きました」

 言い終えて、瞬間、ドア正面の壁に皓々と浮かんだ臨界接触陣を突き破って顕現していた「ドラゴンフライ」のうち一機が、無謀にも、急速落下してくる龍だんごの真下に滑り込んだではないか。

「ブルース!」

「「サラマンドラ」指定方向に回頭。有効範囲を割れ」

 熱線砲で縦縞を穿かれた床面すれすれを飛翔した「ドラゴンフライ」の羽ばたく四枚の羽根に燦然と文字列が浮び、残影となって空間に取り残される。その文字列を押し潰すように落下して来た二匹の龍が床に叩きつけられる、間際、なぜか消えずに残る赤銅色の文字が、急激に膨張して弾け飛んだ。

 ブルースからの通信で指示されていた方向に首を向けていたイルシュの「サラマンドラ」は、膨れ上がった空気が一瞬で破裂した衝撃に乗って、相手「サラマンドラ」ごと顕現有効範囲を、また、割り込む。と、先ほどと同じに二匹は忽然と消え、忽然と初期位置に現れていた。

 エアード系のプラグインだ、とルードリッヒが納得する。二匹の初期顕現位置が遠い事を考えるなら、お互いをしつこくスタートラインに戻し続ければいい、とはかなり無茶で乱暴な方法だが、こちらから決定打が出せないこの状況を考えるならば悪い選択ではないし、空気の密度を変えるエアード系プラグインならば、魔導機が体当りしてもちょっと固めのクッションに受け止められた程度の衝撃しか感じないはずだ。

 悪くはないだろう…、確かに。二匹の火龍は縺れ合っていればいいのだ。しかし、この方法では「ドラゴンフライ」が危険過ぎる。

 左右の壁、それから床。臨機応変的確にプラグインを実行するためだろう、観測した動体データ他、諸々のデータを「ドラゴンフライ」の操作系に読み込ませてその先先へと回り込ませているこの状況では、いつ「ドラゴンフライ」が二匹の龍に押し潰されてもおかしくない。

 長時間は持たない。それは、ブルースにも判っている。

「…てか、ほかの「ドラゴンフライ」はどこ行ったんだ?」

 一旦は同時に飛び出し廊下の上空を飛び回っていた機影が消えている事を訝しんだミナミが呟き、ブルースはそれにも冷静に答えた。

「三機は帰還させました。もう一機は、下です」

 下、という少年の言葉に、ルードリッヒとミナミが顔を見合わせ、それから、床に穿かれた漆黒の穴を見遣る。

「相手魔導師は意図的に文字通信を切断してきてます。ぼくでは…これ以上の割り込みは無理です。だから、もっと単純に」

 ブルースは、不安そうな表情で見つめてくるイルシュに視線を移し、ちょっとだけ口元を引き上げて笑って見せた。

「話を…しようと思ってさ」

         

         

 天井の穴から階下に出た「ドラゴンフライ」は、何かを探すように、戸惑うようにあちこちを飛び回った。こちらは上の階と違って足元の非常灯以外に灯りはなく、カメラ・アイの露光を上げても薄っすらとしか周囲の状況が見通せない。

 相手魔導師が、上の状況を設置された監視カメラで視認している事は判っていた。単独で充分戦えるだけの実力があるのか、それとも人手不足なのかは判らなかったが、ここにいるのはたったひとりの攻撃系魔導師だけだというのも、ブルースには判った。

 何をどう訴えれば敵意がないと判ってもらえるのか。それは、本当に判らないままだったが…。

 それでも「ドラゴンフライ」は、暗くて細い廊下を行ったり来たりして何かを探した。二匹の「サラマンドラ」は組み付いて縺れ合い、何度も初期位置に戻されてはまた組み付くという果てしなく無謀な攻防を繰り返しており、そのお終いがいつなのかは、階下を彷徨う「ドラゴンフライ」にかかっている。

 二つ以上の思考を脳内で処理するブルースの焦りと疲労は、予想外の早さで少年を苦しめようとしていた。無駄な力が全身に入っている。必要以上に、緊張している。

 特定している相手魔導師の位置を施設構造に重ね合わせて割り出した部屋には、ドアらしいものがなかった。何度観測し直してもその場所には出入り口とおぼしき記号がなく、だから、「ドラゴンフライ」は戸惑うように廊下を漂うしかない。

 そこに行かなくてはならない。

 脅迫的に自分を叱責し、しかし、現状を打破すべき効果的な手立てがなくて、ブルースは薄っすらと額に汗を浮かべ唇を噛んだ。入り口がない。判らない。上に戻って監視カメラに割り込み、相手にこちらの意思を伝える事も考えたが、この状態でハッキングプログラムを作動させるのは難し過ぎる。

 自分が何をしているのか判らなくなってくる。混乱か。全く別の目的で動き回る二機の「ドラゴンフライ」をひとつの脳で操作するには、ブルースの経験は浅過ぎた。

 だから、なのか、天使と悪魔のいたずらか、導きか…、ブルースはそこで幸運な間違いを犯してしまったのだ。

 ぶつかり合って飛び離れた二匹の「サラマンドラ」。その様子をワイヤフレームで確認するイルシュの陣に、全く別の光景が割り込む。並んで投影されたニ箇所の映像を無言で眺め小首を傾げた少年の琥珀に、「ごめん。間違った」という苦笑混じりの文字列が飛び込み、瞬間、イルシュは「待って!」と声を張り上げていた。

「この四角って部屋だよね? ここに読み込み不良の「*」があるけど、それ、そのまま投影してみて」

 間違ってイルシュの陣に送信してしまった、階下のワイヤフレーム。そのほぼ中央に位置する正方形の区切りと赤い点、それから、読み込み不良を示す「*」を見た瞬間、少年は気がついたのだ。

 書き換えて来た、隠し通路の入り口。データを騙すために置かれていたのは、燃え上がる炎に似た意味不明の記号だった。

「ウツロ」という文字。

 イルシュの眼前を、猛烈な勢いで文字列が流れた。

「ブルース! その記号のある場所に飛び込んで! そこには…何もない!」

 壁面を表す数字の羅列に混ざる、「*」。余白。観測するデータは読み込み不良記号の含まれた壁面だとその場所を分析したが、イルシュはそこが、開け放たれたままの空白だとブルースに伝えた。

 意識が逸れたからなのか、イルシュの「サラマンドラ」が相手「サラマンドラ」の尾に打ち据えられて急落し、床に叩き付けられる。歪んで崩壊しようとする陣を切り捨てて再構築する刹那の時間を稼ぐため、ブルースは相手「サラマンドラ」の直前に「ドラゴンフライ」を飛び込ませた。

 床にだらしなく伸びてもがく「サラマンドラ」と、その赤い龍を庇うように滞空した華奢な「ドラゴンフライ」。天井近くから二機を睥睨した武骨な「サラマンドラ」の熱線砲射出機関が力を蓄え、浮遊する球体が一斉にノズルを解放した。

 瞬間。

 真っ暗闇の片隅に蹲った白っぽい人影の目前に、プラズマ翼から淡い光を撒き散らす「ドラゴンフライ」が滑り込んだ。

「ぼくらは!」

「……………」

 階下。床に座り込んだ、それ、の目の高さまでゆっくりと降下した「ドラゴンフライ」が、ブルースの声で叫ぶ。

「戦うべきじゃないし、意味もないんだ!」

 明る過ぎる廊下。睨む「サラマンドラ」から「サラマンドラ」を護るように滞空した「ドラゴンフライ」が上昇し、旋廻する。

「…………」

「君のドアは、開いてるんだ」

 何を言えばいいのか戸惑いながらも、ブルースは必死に言葉を探した。この場を切り抜ける、ではなく、壁一枚隔てた場所に囚われていると思い込んでいる「彼」を、救い出すために。

「だから君は、ひとりでそこから出られるんだよ」

 イルシュのように開かないドアに囚われる事もなく、ミナミのようにドアが開くたび悪夢に蹂躙される事もなく。

 世界は。

「…出て、どうする。どうなる。オレは」

 苦悩する軋んだ声と伴に、それ、は仄灯りを放つような自分の身体を見下ろした。

「…どうせ…」

 落胆と憤懣の滲む声音を拾い、そちらに「ドラゴンフライ」のカメラを向けたブルースははっと息を飲んだ。しかし、複雑に錯綜する戸惑いや不安を表に出さない平坦な声で、彼はその問い…または自責の呟き…に答えた。

「判らないよ。でも、失望するのはこれからでも遅くない」

 膠着した空気がひとの存在する二つの空間を占める。荒れ狂っていた「サラマンドラ」は未だ憤激の気配を放ちつつも空中で凍り付き、だから、イルシュの「サラマンドラ」も「ドラゴンフライ」も動きを止めていた。

「間違った答え……」

 そこでふと、イルシュとブルースの間に座り込んでいたミナミが呟いた。

「世界はデータで出来ている」

 しかし。

「完璧なデータなんか、どこにもない」

 青年は何かを確かめるように口の中でそう繰り返しながら、両手を冷えた床に突いて立ち上がった。今なら出来ると思う事がある。この空間に在る全てがミナミに注視している今ならば、青年…データに変換されない恋人…または…最強最悪の天使は、この世の全てに君臨…出来る。

 なぜなら彼は、臨界に君臨する悪魔を傅かせた、唯一なのだから。

「憎む事は隔絶する事に似ている」

 呪文のように呟くミナミは、無言で見送るクインズとルードリッヒの肩先を躱して平然と廊下に出た。そこには二種類三機の魔導機が緊張を纏って対峙していたが、青年は無表情にそれらを見上げ、それから、薄っすらと微笑んだのだ。

「隔絶は、振り翳す孤独」

 溜め息のように囁き、唇を閉ざす。

         

 孤独は、保てない幻の楼閣。

        

「頭の悪いお前は、何しにここに来たんだよ。お前は、孤独でそのコを縛りに来たのかよ。そうじゃねぇなら」

 ハルヴァイト・ガリューでさえ、長く付き合い続けられなかったもの。

 孤独は。

「思い出せ」

 短い呟きとともに、あのダークブルーが虚空を睨む。

 三人の魔導師を包む電脳陣に異変が起こったのは、直後の事だった。

 何の指示も出されていない陣がひとりでに回転を再開し、AI自由領域の拡大を受諾。行動制限を大幅解除した魔導機たちが、一斉に動き出す。

 滑らかな胴体をくねらせたイルシュの「サラマンドラ」が、床すれすれを這うように進み佇むミナミの足元でとぐろを巻く。不測の事態に備えて彼を…更にはその背後に居るだろうイルシュたちを護るつもりなのだろうか、回転する文字式として顕現させた熱線砲射出口を上空に待機させる。

 天井付近の「ドラゴンフライ」は、身じろいだ武骨な「サラマンドラ」に進路を示すよう道を開け、そのまま勝手に立ち上がった臨界接触陣へと飛び込んでしまう。と、ほぼ同時に階下に残された残りの一機が「彼」の眼前から飛び去って天井の穴を通り抜け、明るい廊下へと舞い戻った。

 刹那戸惑うようにその二種を見つめていた荒いモデリングの「サラマンドラ」が、意を決して尾を翻し、垂直に床の穴へと身を躍らせる。イルシュの「サラマンドラ」が最初に開けた穴は意外にも大きく、かなり太い火龍でも難なくそこを通り抜けられた。

 魔導機たちは自由に行動し、魔導師たちは戸惑う。

 何せ、魔導機というものに口頭での指示? が通用するとは誰も思っていなかったのだ。しかし、当のミナミは平然として何かを待ち、クインズとルードリッヒは「慣れた」とでも言うように苦笑しつつ肩を竦め合っている。

 初対面で「ディアボロ」に触り、暴れる「サラマンドラ」を叱り付け、あまつさえ脅迫し、実はそれ以外にも、ミナミが魔導機相手に起こした行動は数多いのだから。

「スペクター」の尻尾を掴んだり。

「アゲハ」を全身に纏わり付かせたり。

「ダコン」に「お手」を強要したり。

「キューブ」を一個つついて百六十個全部をふるふるさせたり。

 極め付けは。

 かの「ヴリトラ」に抱き付いてふざけているうちに、ミナミの腕より数倍は太い前足に抱え込まれて逃げられなくなったり…。

 仕事が忙しくなり気持ちが荒んで来ると人知れず演習室に行って魔導機相手にそういった奇行を繰り返すものだから、衛視たちはすっかりそれに慣れてしまっていたし、いちいち騒ぎ立てるには頻度が高過ぎる。

 魔導機のAIというのは、魔導師や臨界の理を読み解こうとする者たちの予想以上に自律神経が発達しているものらしい、とミナミが知ったのは、ハルヴァイトに手渡されたあの赤い表紙の本を読み進めているうちだった。ページ数が若いうちは脚色された物語であったり、ちんぷんかんぷんな数字の羅列であったりした本が「本」らしく青年に知識を与え始めてからミナミは、入手出来るありったけの臨界関係文書を辞書代わりに、必死になって記された内容を理解しようとした。

 記されているのは、事実。それから、少しの想像力と、多大なる記憶力が必要。それらに恵まれたミナミはそのうち、とある仮説に辿り付く。

 最初の魔導師。最初の魔導機…Ai。それは果たして、<か? >か? =か。

 世界と臨界。それは果たして、<か? >か? =か…。

 耳に痛い静寂は陰陰と過ぎ、息を詰めて事の推移を見守るひとたちの前に、それは唐突に姿を見せる。

 ごそり、と床に穿かれた穴から顔だけを覗かせた「サラマンドラ」の胴体を伝って這い登って来たのだろう、焼き切れた床にかかる、透けるように白い繊細な指先。そっと押し上げられて全身を晒した…それ…の姿を目にしても、ミナミは表情ひとつ変えようとしなかった。

 何があっても驚かないと決めていた。

「……………」

 見つめてくる大きな瞳に仄かな笑みを向けてから、ミナミは、ちょこんと床から顔を出している「サラマンドラ」に視線を移し、頷いて見せた。

 立ち上がった接触陣に消えていく「サラマンドラ」と、「サラマンドラ」と「ドラゴンフライ」。

 何が言いたげに、苛立った風に引き結ばれていた唇が開かれるのを遮るように、青年は床に座り込んだ、それ、にも頷いてから、思い出したようにぺこりと頭を下げたではないか。

 普通に。

「始めまして? だよな、当然」

「…………」

「一応形式だからさ、名前だけでも教えてくれると助かんだけど?」

「…お前………」

「? なに?」

 転がるように小さな部屋から飛び出して来たルードリッヒとクインズが、ぎょっと目を剥きその場に硬直する。

「天使」

 急に停止した衛視の背中に突っ込んでしまった少年魔導師たちが、勢い、押し戻されてひっくり返り、情けない悲鳴を上げた。

「…それ、さ」

 ふたりは、無表情に見つめ合う。

「違うよ。俺は、ミナミ・アイリー。王下特務衛視団準長官、ミナミ・アイリー」

「……………」

 それ、が押し黙る。

「君と同じ、王都民だよ」

 静寂がまたも時間を食い潰そうとする眩しい廊下に、ルードリッヒとクインズを押し退けたイルシュが飛び出し、続けて、ブルースも転がり出る。

 細長く、やけに天井ばかりが高い白の閉める廊下に、見開かれた琥珀。

「………イルシュ?」

 問いかけるような平坦な声にイルシュは何度も首を縦に振り、それから、不意に表情を崩し、泣きそうな顔で搾り出すようにこう言った。

「ジュメール? おれ、その…」

 ずっと会ってみたいって思ってた。とイルシュ少年は、座り込んだジュメールの膝元に滑り込んで縋り付き、ついに、小さな子供のように涙を流した。

  

   
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