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14.機械式曲技団

   
         
(37)

  

 気になる事はいくつもあった。

 しかし、自分の抱えた疑問や疑念、自分に対する当惑さえ解決する暇もなく、サーカス主天幕内の衛視や警備兵たちは、与えられた任務を遂行しなければならない。

 という訳で。

「タマリは、記憶操作された可能性のあるサーカス団員の初期診断を。デリはすぐ戻って、スゥを至急王下医療院に運び込んでください。それから……」

 珍しく、というか恐ろしく冷静に指示を出すハルヴァイトの横顔を、アリスが唖然と見上げている。どう考えても、何も言わずにミナミを探しに行くのではないかと誰もが思っていたのにも関わらず、彼はその場から動こうとしなかったのだ。

 奇跡というより、異常事態。もしかして、どこか悪いのか?

「リリス・ヘイワードは?」

 ふと、上空を流れた鉛色の瞳が急落し、当惑する亜麻色を捉える。それに慌てたアリスが天幕出入り口付近に居るリリスとアンに手を挙げて呼び寄せる間、それまで押し黙り、じっとハルヴァイトを見つめていたドレイクが、ついに口を開いた。

「おめーよ、ミナミは、いいのか?」

「……ルードとクインズ君が一緒でしょう? それに、さっきの連中がミナミについて何も言ってなかったんですから、きっと大丈夫ですよ」

 破壊された客席。二匹の悪魔が荒れ狂った痕跡は、わざとのように散らかった椅子と床材の破片だけで、どこか、現実味がない。

「相変わらず、訳の判らねぇヤツだな、まったく。普段はああも過保護にしてるくせして、こんな時に限ってほったらかしかよ」

「…………」

 どこか不満げな溜め息と伴に吐き出されたセリフを受けて、ハルヴァイトは思わず溜め息で答えそうになった。しかし、そういう意思の表し方が不適当なのだと、ようやく、学習した悪魔は、いきなり考えを改めたらしく、真顔で傍らのドレイクに向き直る。

「こんな時だからこそ、ミナミを信用するべきでしょう? もし何かがあり、自分たちではどうしようもないと判断すればミナミはちゃんと戻って来たでしょうし、ルードやクインズ君だってミナミを停めたでしょうし、そうでないなら…」

「つか、誰があのミナミを停められるよ」

「………」

「何があってもやるつったらやんだろうが、ミナミはよ」

 ぶっきらぼうにそう言われて、急に、不安になった。

 その場に硬直したハルヴァイトを放置したドレイクが、サーカス団員の移動を指示する。その頃にはシネマ・エリアでの警備を終えたギイルたちも戻っており、天幕内の調査を開始しようとしていた。

 ハルヴァイトが機能停止に陥ったせいで、呼び寄せられたリリスとアン、リリスにしっかり捕まえられて引っ張ってこられたヒューも、何をどうしていいのか判らず顔を見合わせてその場に立ち尽くしてしまう。

「あーのー、はんちょーー」

 アンがそーっと下から声をかけてみても、ハルヴァイトは床の一点を見つめたままで動こうとしない。

「…ガリューに何があった、ミラキ…」

 イヤな感じのにやにや笑いをハルヴァイトの背中に吐き付けているドレイクを捕まえたヒューがげんなり問いかけると、意地の悪い兄は「さーね」と大仰に肩を竦めて、またにやにやと笑った。

「正直言わせてもらえば、俺は立ってるのもやっとなんだがな?」

 などと、横柄に腕を組んで小首を傾げたヒューを、アン少年がぎょっと振り仰ぐ。が、どう見ても「やっと」とは思えない偉そうな態度に、なんとも複雑な表情になった。

 確かに、全身傷だらけ、痣だらけで、手に縛り付けられた包帯? みたいな布にも所々血が滲んでいたり、切れた唇だとか顎だとかにも薄っすら真新しい血の痕が浮いていたりはするし、外れた肩を無理やり嵌め、直後にマネキンを殴り付けて粉砕するという暴挙に出たせいで、左腕が痛くて動かせない、などと先ほどは言っていたが…。

 大丈夫ですか? と問うのもばかばかしいほど、ヒューの様子はいつもと変わりない。

「ところでナヴィ、ハチヤはどこに消えたんだ?」

 当惑するアンをわざと無視する形で、ヒューはアリスに視線を移した。

「ハチくん? ギイルに呼ばれて合流したわよ。彼、君より軽傷だったからね」

 呆然自失のハルヴァイト復帰を待ちながら、慌しい周囲に多少申し訳ないと思いつつも暢気な会話を交わす。実際、アンとデート、という名目で訳も判らないままリゾート・エリアに来てしまったヒューは、今日ここで何があったのかいまひとつ理解出来ていなかったのだ。

 全てが判らない訳ではない。

 自分が勢い魔導機と組み手した理由は、さっぱり判らなかったが。

「つまり、俺は思いっきりガリューに振り回されたんじゃないか? とも思うんだが」

 うーむ。と難しい顔で眉間に皺を寄せたヒューの横顔を、傍らに佇むリリスが睨む。

「だからさ、ヒュー。お前は一体何をやってどうなってそんなに怪我…」

 と。またも殴りかかりそうな勢いのリリスと素知らぬ振りを決め込んだヒューの間に、アンが慌てて割り込む。

「落ち着いてくださいっ、リリスさん! ヒューさんも、なんとか言ってあげたらいいじゃないですか! リリスさん、心配してるんですよ!」

「ボクは充分落ち着いてるよ、アンくん」

 背中でリリスを押し留めつつヒューを注意するアンの華奢な胴体に、なぜか、リリスの腕が巻きつく。それで、仲睦まじくもリリスに背後から抱き締められる格好になったアンと、ぎょっとしたヒューが顔を見合わせる。

 ミナミがもしこの場にいたら嬉々として無表情に突っ込んでくれそうな状況にも、辺りは静まり返ったきりで、無反応。こういう場合、徹底的に突っ込んでくれた方が当事者としては気楽に笑い飛ばせるのだが、真摯に受け入れ尚且つ流されたりすると、どうしていいのか判らないのが人間なのだと、ヒューもアンも改めて思った。

 結果。

 ハルヴァイトの不安とは別な意味で、リリスに抱きすくめられたアンと、そのアンを見つめるヒューも、ミナミ! と内心悲鳴を上げる。

 新たな膠着状態の中で唯一マイペースを崩さないリリス・ヘイワードは、小柄なアンを後からぎゅ☆ と抱き締めたまま、これまた薄っぺらい少年の肩に細い顎を軽く乗せて、淡い栗色に近い細眉を吊り上げヒューを睨んでしきりに何かをぼやいていた。長いという印象はないが密集した睫と目尻のつり上がった大きな瞳と、細い鼻梁。それから、ふっくら弧を描いた唇、という部品(パーツ)はよく見れば「リリス・ヘイワード」と似ていたが、アンとアリスに連れられたこの青年が「本物の」リリスだとは、迂闊にもアンが「リリスさん」と呼びかけるまで誰も思っていなかっただろう。

 なぜならば。

 強烈な印象の底光りする緑の瞳と、腰まで長い亜麻色のストレート。というリリスの特徴を、「彼」は備えていないのだから。

「聞いてんのかよ、ヒュー!」

 ついに、アンに抱き付いたままの青年が声を荒げて一歩踏み出そうとする。それに押されて前のめりに倒れかけた少年魔導師を器用に引っ張り寄せたムービースター? は、淡い栗色のボウズ頭に、テラつくような栗色の瞳をしていたのだ。

「あの…リリスさん………」

 当惑のアンが引きつった表情でリリスを振り返ると。

「セイルだよ、アンくん。ボクの名前は、セイル・スレイサー」

 リリス改めセイルが、ときめくような笑顔で答えた。

………………。

 笑顔のセイルとうろたえるアンを見つめていたヒューが、眉間で蠢く頭痛に微か眉を寄せる。

 最悪だった。

 特務室でもクラバインしか知らないトップシークレット扱いだった、この「不肖の弟」の正体がこうも派手に露見するなど、誰が考えていただろう。

 徐々に、ヒュー・スレイサーの機嫌も傾く。全身の骨がぎしぎし言うわ、頭痛はどんどんと酷くなるわ、それなのにハルヴァイトは復旧しないわで…。

 そこでヒューは、今日、この全ての元凶はハルヴァイトだと断定した。

 目的くらい明かしておいてくれれば、ヒューだってそれなりの心構えが出来ただろうし、第一、リリス・ヘイワードのイベントとかち合わないようにする事だって出来た。それに、もしどうしても今日でなければならないにしても、事前準備だとかなんだとか手を回して、とにかく、リリス・ヘイワードをこの場に居合わせないようする事くらいは出来たはずだ。

 つまり?

 一言くらい俺に何か言っておけ。か?

 不意にヒューが、佇むハルヴァイトを振り向く。彼は相変わらず床の一点を見つめていて、未だ機能停止状態のままだった。

「おい、ガリュー」

 かなり刺のある声で呼び捨てられて、ようやくハルヴァイトが顔を上げる。何か考え込んでいるらしい無感情な鉛色の瞳に見据えられるなり、上官のそういう表情に慣れているはずのアンでさえ、ぎくりと背筋を震わせた。がしかし、こちらもやや頭に血が上っているのか、ヒューは怯んだ様子もなく、横柄に腕を組んでハルヴァイトに向き直り、アンに抱き付いたままのリリスを顎でしゃくってから、「用事があるんじゃないのか?」と平坦な口調で訊く。いつもならここでミナミが適当に突っ込み、適当にハルヴァイトの人間性が再構築されて事無きを得るのだが、残念ながらミナミは未だ行方知れずで、だから、この張り詰めた空気を打破できる人間は、この場所に存在していない。

 なんとなくアンはその様子に、「なつかしい雰囲気だな、これ」などと思い浮かべた。ミナミが特務室勤務になるより以前、ハルヴァイトとヒューは顔を合わせればこんな風に、冷ややかにいがみ合っていたような気がする。

 いいや、と少年は、すぐにそれを否定した。ヒューとハルヴァイトはいがみ合っていたのではなく、世の中全てに感心のないハルヴァイトに、ヒューが苛立っていただけだ。

 半ばを捧げ、半ば自己を鍛練せよ。という教えに従って、世界のひとつに身を置くべく生きるヒュー・スレイサーは、世界など無関係なのだと「自分を切り捨てている」ハルヴァイトが、許せなかったのか。

「…………」

 ヒューに、失礼にも、顎で示されたセイルを、ハルヴァイトの鉛色が動いて見つめる。大抵の事なら平気だし、見た目に見合わず腕っ節の強いセイルですら、その冷え切った表情と気配に、思わず後退りそうになった。

 それだけではない。セイルは、見たのだ。

 あの、悪魔、が、この、ハルヴァイト、と、同じに、笑い、荒れ狂う、様、を。

 見たのだ。

「…王下特務衛視団電脳班班長の、ハルヴァイト・ガリューです。ご協力を感謝します、リリス・ヘイワードさん」

 当たり障りなく抑揚もなく言い切って、ハルヴァイトが礼儀的に会釈する。ここで、「リリス・ヘイワード」と眼前で凝り固まっている青年の外観が大幅に違う事を疑問に思ったり質問したりするのが一般的対応であり常識的反応だと周囲の誰もが思ったが、残念ながらハルヴァイトはそんな素振りさえ見せてはくれなかった。

 第一彼は、本物の「リリス・ヘイワード」を知らないのかもしれないし…。

 こちらは本物の、掛け値なし正真証明の「ハルヴァイト・ガリュー」を間近で見たセイルの方はそうも行かず、会釈を返すどころか完全に凍結し呼吸さえも止まりそうだった。鋼鉄製だと言われたり、先日王の強行した貴族院解散の原因ではないかと報じられたり、そもそも、忘れた頃になるとどこからともなく不吉な噂の沸いてくる警備軍一の正体不明が、事もあろうに目の前にいて会釈して来たのだ、注意を向けられている、という状況にすぐさま対応出来なくても、致し方ないのか。

 アンが電脳陣を張り「キューブ」を動かしているのを見ても、正直、セイルは何も感じなかった。風評として、魔導師というのは性格と生活態度に難のある欠陥人間が多いといわれていたが、アンはそれに当てはまりそうもない。先にシネマ・エリアで会ったローエンスは、噂が噂でなく真実と本人も公言して憚らないし、まず、現れて協力してくれる態度そのものが大いに偉ぶっていて、いかにも噂通りの人、という印象ではあったが、だからといって全てをローエンスに代表される「魔導師」に当てはめないのは、セイルの美徳でもあるだろう。

 だから余計に、青年は「ハルヴァイト・ガリュー」に対してどういう感想を抱けばいのか、迷った。

 当惑するセイルの視線さえどうでもいいもののような顔つきで、ハルヴァイトはやや離れた位置に控えているドレイクを手で呼び寄せた。既にアリスには別の仕事が待っていたらしく、気がつけば、彼女の姿はどこにもない。

「リリス・ヘイワードさんに事情を説明して、サーカス団員の確認をして貰ってください」

 冷淡というか素っ気無くというか心ここにあらずというか、とにかくそういった風に言い置いたハルヴァイトが、無言でどこかへ行こうとする。ヒューの憮然とした顔つきとドレイクのにやにや笑い、何か思い出したように辺りをきょろきょろと見回すアンのアンバランスさに、セイルはますます困惑する。

 音速で主天幕内部を跳ね回り、床の半分以上を踏み荒らしたあの鋼色の魔導機とイコールであってどこか違う、ハルヴァイト。部下なのだろうか、呼び寄せられた漆黒と真紅の制服を白髪で飾った男はイヤに平然とし、アン少年もハルヴァイトの暴挙には取り立てて何かを感じている様子はないが、その他の衛視たちはなぜか、何か恐ろしいものでも見るような、目を合わせてはいけないような表情で、泰然とするハルヴァイトから顔を背けている。

 このひとは、なんなのだろうとセイルは思った。

「で? 班長殿はどちらへ?」

 わざとのように問いかけたドレイクを零下の瞳で見据えたハルヴァイトが、足を停める。

「どこへって…」

 どこへ行けばいいのか判る訳ないじゃないか。と言いたそうなハルヴァイトの視線が、不意に主天幕入り口に向けられる。

「………行きませんよ、どこにも」

 そう彼が呟き、刹那だけ口元に浮んだ複雑な笑み。その笑みの向けられた先に視線を転じたセイルは、凍り付いた全ての時間と重苦しい空気が一瞬で淡く溶かされ、都市の漂う蒼穹に昇華した瞬間を感じた。

 滞った緊張。

 それが弾け、また、新たな緊張が主天幕に降りた瞬間。

 リリス・ヘイワードという虚飾のムービースターは、見た。

 開け放たれた主天幕出入り口を通り抜けて燦然と現れた、盛大に毛先の跳ね上がった素晴らしい金髪と深いダークブルーの瞳で全てを見透かす、本物の「天使」を。

  

   
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