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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(3)

  

 お見舞いに行くならついでにこれ持ってって。とミナミがアンに示したのは、何枚かのデータディスクと古式ゆかしい書面による文書だった。

 そのてっぺんに書かれた「登城禁止命令」という文字列を目にして、アンがさっと蒼褪める。

 というか、なぜ?

「あの……すみませんが、ミナミさん…」

 大きな水色の瞳をますます見開いて、わざとミナミが一番上に載せて手渡した書類から目を離さない、アン少年。それを内心申し訳ないと思いつつもこれまた内心で笑う(……)ミナミはしかし、彼の殆どがそうであるように、無表情を保ったまま「何?」と素っ気無く答えた。

「どうしてその……ヒューさんに登城禁止命令なんですか…」

 生気のない呟きに、ミナミは殊更気安く頷いて見せる。

「つうか、登城出来たら俺は驚く、マジで」

「え?」

「すっげー単純にさ、ヒューにはちゃんとした入院と静養が必要で、でも本人はなんともねぇつって医療院の医者脅かしてさ、城の医務分室に通院だけで済まそうとしてるらしいんだけど…」

 とそこでついにミナミは、雑多に書類の散らかったヒュー・スレイサーのデスクに視線を落として、溜め息を吐いた。

「左肩の脱臼、打撲と裂傷は全身数十箇所、骨折はないらしいけど、それでも右のここ」

 自分の右手を握って一番固い骨のでっぱりを指差したミナミが、微かに眉を寄せて痛そうな顔をする。

「縦に何本か皹がさ、入ってるって。……つうか、機械式に魔導機まで入れて組み手したと思ったら、軽傷なのかもしんねぇけど」

 愕然とするアンの水色から視線を逸らしたミナミは、わざとのように肩を竦めた。

「だから登城禁止。そうでもしねぇと、事後処理だとかなんとか言って、明日にでもここに顔出しそうな勢い」

 こういう風にアンを脅かす必要はないとミナミにも判ってはいるが、自称「仕事好き」のヒューに大人しく休養を取らせようとするならば、本当に申し訳ないが、アンに泣いて(?)貰うしかないだろう。

 と、ミナミは言い、警護班の部下たちは唸り、ルードリッヒは無意味に弱った笑顔で賛成した。

「…こっちも色々ゴタついてて、直接行けないからさ、俺。悪ぃけど……」

 それまで逸らしていた視線を、完全に凍り付いた少年の横顔に戻したミナミは、ふと口を噤んだ。

 アンは、デスクの上に置かれた紙束とディスクを瞬きもせずに見つめていた。半ば俯いて、半ば呆然と、何か……、自分でもどういう表情をしていいのか判らない、とでもいうように無表情に、「登城禁止命令」という文字に視線を当てたままで。

「………あの…さ」

 呟いて、ミナミは迷った。

 何か、慰めでも口に上らせようとしているのか、それとも違うのか、ミナミ自身にもはっきりしない、何か。

「アンくんは………」

 問いかけようとして、しかしそれは自分の役目でないと思ったのか、ミナミは相変わらずの無表情を少年から逸らす。

「うん。アンくんはさ、別に責任みてぇなモン、感じなくていいと思うよ、俺は」

 その、ミナミらしからぬ冷たいくらいの言い方に、アンが顔を上げる。

「ヒューは、自分で納得行くようにやりたかっただけで、それが上手く行かなくて、結局、怪我しただけなんだろうから」

「……それは…、ミナミさん?」

「ぜってー答えねぇと俺は思うけど、行って訊いてみたらもしかして、教えてくれるかもよ。…ヒューはさ」

 電脳班執務室のドアを胡乱に見つめたまま、ミナミはなぜか、ふわりと微笑んだ。

 彼(か)の人は。

「半端でなく、強くあろうとしてんだよな、いつも」

 せめて、ではなく、確実に誰かを「安心」させられるだけの強さを、いつも欲している。

            

         

 それでやっとどうにかこうにか自分の中に燻る葛藤と手を組んでなかった事にし、つまりは、でき得る限り平然を装って上級居住区の片隅にある医療院をアン少年が訪ねたのは、昼を過ぎてからだった。

 特務室に篭っているとどうも時間感覚が麻痺してくるらしく、時計を見て次の会議の開始時間を確認しても、それが「一日」という生活単位に当て嵌められなくなる。だから、気付けば夕方だったり夜だったりするものの、それで寝ようとか、食事をしようとかいう気は起こらなかった。

「やっぱり、疲れてるのかな…」

 呟いて、角を曲がる。

「ウィニー。もう、いい加減にしろよ、お前。仕事が出来ないなら帰れ。……。なぁ、判るだろう? そりゃお前にもプライベートがあるってのは重々承知してるけど、今のお前は医療院の看護師で……」

 すると、深刻そうな顔で何かを諭している看護師と、その看護師に諭されているらしい小柄な看護師の前を……非常に気まずくも……通り過ぎるハメになった。

 壁際に追い詰められている小さい方のひとりはすっかりとうな垂れ、顔までは見えない。何を話していたのか、彼を追い詰めていたやや背の高い看護師は、通り過ぎようとするアンに気付いてバツ悪そうに口篭もり、言い争っている細かな内容までは判らないままだった。

 失礼にも、ちょっと興味が沸く。別れ話かな、などと暢気な感想を抱いたりする。

 しかしアンは微かな靴音だけを廊下に響かせて、彼らの前を行き過ぎた。なんとなく、公には看護師でもそれが「個人」である以上こういう時もあるんだな、などと思いながら。

 無関心ではないが、無関係に。

 すれ違う。

 看護師のカップルから離れて、少し。わざとのようにネームプレートの外された病室の前に立ち、番号を確認してからドアに向き直って、アンは深呼吸した。

 驚くなよと自分に言い聞かせる。

 泣いたりするなよと懇願する。

 そのひとはきっと今、誰よりも「自分」を責めているはずなのだから。

 固く握った拳で軽くドアをノックし、少し待っても応えがないのに微かな当惑と安堵を感じながら、そっとすりガラス張りのスライドドアを引き開ける。

「…………………」

 そこでアンの視界に飛び込んだのは、ベッドに横たわるヒュー・スレイサーではなく、乳白色の衝立と貼り紙だった。

 殆どドアを塞ぐように、下手をしたら突っ込んでしまいそうな位置にでんと置かれた衝立と、その、ちょうど顔の高さ(アンには少し高かったが)に貼り出された一枚の紙には、乱暴ながら綺麗な文字で、ものすごい脅迫文が綴ってあった。

                 

『特務室及びヒュー・スレイサーの関係者に告ぐ。

  この仕事バカを病室から一歩でも出したら、問答無用で開腹し内臓を掻き回してやるから覚悟しろ。

  わたしは嘘は嫌いだ。

  怪我人らしくない怪我人も嫌いだ。

  横暴結構。

  文句があるなら完全健康体で来い』

           

「………ドクター・ステラ・ノーキアス? …。なんか……………すごい気迫の篭った張り紙だなぁ…」

 ドクターの名前に覚えはなかったが、アンは無意味に感心ながら唸りつつ、手にした書類の束を抱え直し衝立を廻り込んだ。

「そう思うならこのバカに仕事なんか見せるな、ルー・ダイ魔導師」

「………」

 咎めるような口調で吐き付けられたアンがぎょっとして目を向けた、窓際のソファ。そこには、白衣を着込んだ見知らぬ女性と、渋い顔のヒューが低いテーブルを挟んで向かい合うように座っていた。

 華奢で小柄ながら、周囲を威圧する確固たる雰囲気を纏った白衣の女性。短い髪は鮮やかなオレンジ色で、褐色の肌に埋め込まれたいかにも気の強そうな翡翠の瞳はアンに向けられておらず、なぜか、苦虫を噛み潰したような表情のヒューを睨んでいる。

 下手な行動を取ったら本当に開腹されて内臓を掻き回されるっ! と、反射的にアンは、書類のてっぺんに載せていた登城禁止命令書を、ソファの背凭れに腕を這わせて足を組み、渋い表情でソッポを向いたヒューを監視している白衣の女性に差し出した。

「? ああ。そういう事か。ならいい。

 はじめましてだな、ルー・ダイ魔導師。わたしがステラ・ノーキアス。このバカとは切っても切れない腐れ縁の哀れな外科医だ、よろしく」

 言いながら白衣の裾を捌いて立ち上がったステラは、小柄なアンと大差ない身長ながらその異様なまでの存在感で完全に少年を威圧し、華やかに笑った。

「アリスが、いじめないでね、なんて電信を寄越したからどんなちびっこが来るのかと思ったら、なかなかどうして、いい顔つきの青年じゃないか」

 完全にハマった男言葉と、乱暴且つ失礼な物言い。

「はじめまして、ドクター・ノーキアス。お仕事ご苦労様です」

 がしかし、アンは威圧されている事になど気づいていないような朗らかな笑顔で、ステラに握手を求めた。

「…………、おい、スレイサー」

「なんだ」

「貰って帰っていいか? このコ」

 言うなりステラは両腕を伸ばし、思いの他ふくよかな胸にぎゅっとアン少年を抱き締めて、くりっとヒューに顔だけを向けたのだ。

「○▲▽×+! ☆◎&%‘’#◆!!!!!!!!!!!!」

 咄嗟の事で今度こそ動転したのか、アンの手から全ての書類が床にばら撒かれ、ばたばたと派手な音を立てる。まさか力任せに引き剥がす訳にも行かないのだろうアンは、意味不明の悲鳴を上げながらステラの白衣をおっかなびっくり引っ張って暴れ、ソファの背凭れに肘を突いて腰を浮かせたヒューは、どうしていいのか判らず口をぱくぱくさせた。

「物凄いかわいい。おねーさんはときめいた」

「いじめるなとナヴィに言われたんだろう、お前! 放してやれ!」

「いじめてないじゃないか、別に。上限いっぱい愛でてるだけだ」

 それがいじめなんだよ、お前の場合! と失礼にも怒鳴り付けられたステラが、渋々アンを解放する。

「…怪我して運び込まれたら、是非わたしを指名してくれ、ルー・ダイ魔導師。大丈夫だ。怪我してるうちは悪さしない」

 じゃぁ治ったらするんですかぁぁぁ! と内心半泣きで悲鳴を上げるも、アンはその場に座り込んで怯えたようにステラを見上げただけで、抗議するには至らなかった。

 正直に言う。アンに、女性に抱きかかえられた経験がない訳ではない。というか、アリスという同僚に抱き付いたりとか、抱き付かれたりとか、締め落とされたり(…)とか日常茶飯事なのだから、動揺する事自体おかしい。しかしそれは気心の知れたアリスだから平気であって、見ず知らずの女性にいきなり抱擁を強制されたら、アンだって驚く。

 しかも。

「………………まったく!」

 誰かの目の前だし。

 くすん、と嘘泣きしながら床に散らばった書類とディスクを拾い集めるアンを見下ろしていたステラが、わざとのように「ふふふ」と笑う。何者、この女医さんは。と降って来る視線を極力無視する、アン。

「とまぁ、八割方本気の冗談はさて置き」

「うう…、それって、ほとんど本気じゃないですかぁ」

 思わず抗議してしまってから少年は、またもや書類を床にばら撒いてヒューのソファに転がり込んだ。

「…。そんなバカよりわたしの方が絶対優しいぞ」

 どうやらそれが気に食わなかったらしいステラが、俄かに細い眉を吊り上げアンを咎めるように見つめた。

「全てにおいて」

「…………………」

「???????」

 さて。この「全て」はなんなのか。言い終えてすぐ、ステラの口元には意味ありげな薄笑みが浮かび、ヒューは無言でステラを睨み、アンがきょときょととふたりの顔を見比べる。

「初々しいな」

「帰れ。そして二度と顔を見せるな、ステラ。俺の健康のために」

「お前が健康になったらファイランが墜落し兼ねない。だから明日も検診に来るから、安静にしていろ、スレイサー。今までの無茶が祟って身体中にガタが来てるんだからな、お前は。せめて平熱に戻るまでは、衛視をニ・三人解剖するハメになっても退院させないぞ」

 半ば脅迫するように言い捨ててから、ステラはアンにだけ本当に朗らかな笑みを向けた。

「また遊びにおいで、ルー・ダイ魔導師。今度はそこの小姑抜きで、お茶をご馳走するよ」

 白衣のポケットに手を突っ込んでウインクを投げたステラの小さな背中が、衝立の後ろに消える。時置かずスライドドアの開閉する音。それから…。

「ん? まだこんな所でゴネてるのか! ウィニー・メイスン! 貴様は、薬科に行って倉庫に篭ってろと言っただろう!」

 物凄い怒声が聞えてきた。

「く…口の悪い方なんですね、ドクター・ノーキアスって…」

「気の短いヤツなんだよ。医者として腕がいいとは思うが、人としてはかなり問題ある」

 人として問題あるのには慣れているつもりのアンでも、怯んでしまうほど、か?

「ところでアンくんは…」

 言いかけたヒューをソファに残したアンが音もなく立ち上がり、床に散乱しているディスクを再度拾い始める。ドアを開ける前はもっと緊張していたはずなのに、女医さんのおかげでそういう余分な力が抜けたのには感謝したい気持ちだと少年は思ったが、素直に受け入れられないのも事実だった。

 ヒューとは腐れ縁だという、小柄な女性。

 散らかった書類を黙々と集めるアンの背中に据えていた視線を窓の外に流したヒューが、ちょっと疲れた溜め息を、少年には気付かれないよう吐く。ソファの背凭れに身体を預けると、背中の真ん中から沈むような感覚があった。

 疲れていて当然だった。ジョイ・エリアから戻って、強制的に医療院に送られた直後から、微熱が下がらない。その原因の大半は精神的な疲労と肉体的な疲労だが、幾ばくかは、駆使し過ぎた身体が限界を訴えて休む事を要求しているのだとステラは言った。

 ソファの下にまで滑り込んでいたディスクをようやく回収し終えたアンが、腕の中のそれらを数えながら、床に膝を突いたまま顔を上げた。それにヒューは気付かなかったのか、微かに滲んだサファイヤ色の双眸を窓の外に向けたまま、だらしなく肱掛椅子に身体を預けて…………本当に小さく、息を吐いた。

 そこで少年がふと気付く。

 ヒューが身につけているのは、首の部分を水平に切りっぱなした白いプルオーバーに、かなりゆったりした黒いパンツ。愛想のない灰色のスリッパを突っかけた足元は裸足で、知らない者が見ればラフな私服とも思えるだろうが、特別官舎住まいの衛視ならば、廊下で騒ぐ部下を寝不足で締め落としに来る時の服装だとすぐに判るだろう。

 単純に、パジャマなのだが?

「ヒューさん」

 自分でも驚くほど小さな掠れた声で囁いて、アンは戸惑った。答えの代わりに向けられたのは、視線と、微かに首を傾げる仕草。

「寝てたんじゃないんですか?」

 だったらどうしたいのか、ヒューにどうして欲しいのか判らないまま、アンは書類を抱え直した。

 ぎゅっと。

「君は俺に用事があって来たんだろう?」

 床に膝を突いたまま、何か咎めるように眉を寄せてじっと見つめてくる水色に、知らずヒューの唇から苦笑が漏れる。

 いつもならここで「ああ、そうでした!」と慌ててテーブルにしがみ付き書類を広げるだろうアンは、しかし、俯いてのろのろと立ち上がり、そのままヒューの顔を見ようともせずに書類をテーブルの端に載せた。その不自然さをからかってやろうとも思ったが、ヒューは結局、そうしなかった。

 出来なかったのか。

 判っていたのか。

 自分はなんて無様なのかと、思ったのか…。

 アンは書類の中から「登城禁止命令書」を引っ張り出して内容を改めるようにと小声で弱々しく呟いてから、ヒューにサインを促した。言われた通りに書面にサインし、「禁止命令じゃ抵抗しても無駄だな。これで、暫くステラのご機嫌を窺うハメになった」と言ってみたが、アンはそれにも答えてはくれなかった。

「………………」

 何か言おうとして唇を動かし、しかし何も言う事が出来なくて、ヒューもまた黙り込む。俯いたままのアンの視線がテーブルに載った自分の手に注がれていると知って、彼はそっと、真白い包帯で包まれた腕を引っ込めた。

 重苦しい静寂を振り払うに至らず、抑え付けられたまま必死になって、抑揚なくミナミからの伝言をヒューに伝える、アン。その時少年が何を思っていたのか、ヒューは知りたくないと思う。

 一通り書類の説明が終わると、アンはやっと顔を上げた。いつもより疲れたヒューの顔を見るのは嫌だったし、あちこちに貼られた湿布や包帯、痣や切り傷を見るのは、もっと嫌だった。

 しかし、笑わなければならないと思う。

 懇願する。

 アンがアンに。

 頼むから、これ以上そのひとを、傷付けないでと。

「それじゃぁぼく、会議があるんでもう戻りますね。ドクター・ノーキアスの言う事ちゃんと利いてくださいよ、ヒューさん」

 言ってアンは、なんとか、笑った。

 つもりだった。そうしたと思った。本当は、ぎゅっと目を閉じ、唇を引き結び、何かを…必死になって抑えているような表情しか出来ていなかったが。

 ぺこりと頭を下げて逃げるように病室を後にし、廊下に飛び出す。直前、ドアを塞ぐ衝立にぶつかりそうになった。

 邪魔な衝立。

 室内を隠すように置かれた、衝立。

 その「理由」を少年が漠然とながら理解したのは、細長いくねった廊下を病院特有の匂いに悩まされながらとぼとぼと歩き、外来患者用の待合室に出る直前で、まるでアンを待っていたかのように佇んでいる小柄な人影に呼びとめられた瞬間だった。

 開け放たれた外界へのドア。解放された待合室。その柔らかな空気を遮るのは、廊下の真ん中、白衣のポケットに手を突っ込んで佇んでいる、ステラ。

 彼女の背後を右から左、左から右に歩き過ぎる患者たちと看護士たち。逆光の中で薄っすら微笑んだステラはアン少年を呼びとめて手招きし、ふと穏やかに微笑み直した。

「どうだ? わたしはいい医者だろう?」

「……………はい」

 肩を落とした少年が立ち止まるのを待って、ステラが言い放つ。相変わらずのぶっきらぼうな男言葉だったが、今はそれが有り難かった。

「やつとは、あいつが一般警備兵で、わたしが警備部の医務室詰めだった頃からの知り合いでな、訓練中に落とした同僚やら後輩やらをやたらと担いで来るものだから、ちょっとは手加減しろとかなんだとか、よく喧嘩したものだ」

 懐かしむようにでもなく言うステラの表情を見つめる、色の薄い瞳。

「でも、あいつが、あんなみっともない姿で担ぎ込まれたのは始めてで」

 オレンジ色の唇が、残酷に紡ぐ言葉。

「本当なら、面会謝絶でもいいくらいだよ」

 挑むようなステラの口調に一瞬表情を強張らせたものの、アンはそこで大きく息を吸い込み、胸を張って、微笑むのをやめた彼女を見つめ返した。

「はい」

 ボロボロの。

「君はいいコだな。あんな格闘技バカには勿体無い」

 立ち直る時間を。

「ありがとうございます」

 アンは答えて、少し固い笑みをステラに向けてから深く頭を下げた。

「判ったら、わたしの許可が出るまでここには来るなよ。個人的に、わたしのオフィスにお茶を飲みに来るのは大歓迎だけどな」

 言いながらステラはアン少年の後頭部をぽんと掌で軽く叩いて、行き過ぎようとする。

「あの、ドクター!」

 慌てて顔を上げたアンに呼び止められて、ステラは肩越しに振り返った。

「ヒューさんは…」

「ああ、別に、どこかに後遺症みたいなものも傷も残らない。一番心配なのはあの…城の尖塔よりも上にあったプライドが地面に叩き付けられた事なんだが、あの衝立が特効薬になるだろうとわたしは信じてる」

 無様なヒュー・スレイサーをこれ見よがしに隔離した、あの衝立。

「なぁ、アンくん…。わたしは、時々思うんだよ。自分の人生をハードにするのは、他人なんかではなく自分じゃないかって」

 ステラは不思議そうな顔のアンに軽く手を振り、ハイヒールの踵を鳴らして歩き始めた。

  

   
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