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15.赤イ、毒ニ濡レタ月

   
         
(4)

  

 ジョイ・エリアに隣接する違法施設のおおまかな見取り図を収めたディスクを大量に抱えたアリスが電脳班の執務室に戻ったのは、その日の夕暮れ近くだった。

「あら? 今日の留守番はデリなの? 他の連中はどこ行った訳?」

 抱えた箱から零れ落ちそうなディスクをしきりに気にしつつ部屋に入り、はしたなくも足でドアを後に蹴って閉ざしたアリスを、居残りのデリラが笑う。

「ボウヤは第ニ会議室の設備点検に行ったよ。…医療院から戻って、具合が悪ぃつって青い顔してたけどね、少し休ませたらもう大丈夫だって言い張ってね」

 医療院、という言葉に微か表情を曇らせたアリスの手から資料満載の箱を奪い取って応接セットのテーブルに載せたデリラが、中を掻き回しながら続ける。

「大将とダンナは、入れ替わりに医療院行ったしね。戻ったら会議だつってったから、準備しとかねぇと煩いだろうね」

 どさりとソファに腰を落ち付けたデリラは、アリスの方を見もせずに手際良く資料を整頓し始めた。閑散とした室内に響く軽いプラスティックの触れ合う音。タグを貼り忘れたディスクを分別する白手袋に視線を据えたまま、赤い髪の美女は密かに嘆息した。

「班長、どうなの?」

「良くねぇって」

「良くないって…」

 慌ててソファに飛び込んだアリスの亜麻色に座った目つきで頷き返し、デリラもふっと息を吐いて背凭れに身体を預ける。

「怪我ぁ大した事ねぇらしいけどね」

 その一言で何に気付いたのか、アリスは難しい顔で長い髪を梳き、諦めたように肩を竦めた。

「それじゃどうしようもないわね。あんまりアンに心配かけないでって言いたいけど、まさかぶっ飛ばす訳にもいかないし」

 ヒューがもしかしたら自分を責めて(?)いるのかもしれないと、アリスは薄々感付いていたのだ。それが確定なら、傷心の怪我人に乱暴を働くような真似は出来ない。

 それでも言ってやりたいとは思う。ヒューが自分をふがいないと思えば思うほど、その責任を感じる人間がここに居ると。

「………………ところで、ハルとドレイクは、なんで医療院に行ったの?」

 とそこで彼女は小首を傾げた。ドレイクは単純にハルヴァイトのおまけだとしても、あの、消毒液の臭いだけで機嫌が三十度は傾くハルヴァイトが、自ら進んで爪先を向けたとは思えない。

「スゥに呼ばれてだよ」

「スゥ?」

 意外にも淡々としたデリラの返答に、アリスはますます首を傾げた。

「意識が戻ったの? スゥ」

 何気無いアリスの問いに、デリラが少し渋い顔で頷く。

「昨日ね」

 短か過ぎるセリフを溜め息のように吐き出してから、デリラはソファの背凭れを肩で突き放し、目前に広げられたディスクの山に手を伸ばした。

 何かを振り切るような唐突さで作業に戻ったデリラの顔を見つめていたアリスが、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。その奇妙な反応と戸惑うような空気に、デリラが小さく失笑した。

「…ねぇ、ひめ。どう思う? おれは、ダメな人間かね」

「………………」

「覚悟はね、もちろん…ああいう伴侶を貰おうってんだからさ、してたつもりなんだよね。でも、本当に「それ」が目の前に突き付けられた時にね、おれはどうしようもなくがっかりしたし、ちょっとは思ったよね」

 立場は違えど、アリスにも覚えのある虚無感。

「所詮おれはさ」

「デリ」

 俯いたまま無意味にディスクを掻き回すデリラの手元から視線を逸らしたアリスは、一度瞼を閉じた。

 認めてはいけない。抗わなければならない。そうではないのだ。そう信じるのだ。

 そして。

 アリスは閉じていた瞼を持ち上げ、亜麻色の瞳でデリラを見つめた。

「あたしたちは、彼らのためにも「こちら側」で踏み止まらなくちゃならないのよ、デリ。あたしたちには一生判らないだろう不安と恐怖に彼らが潰されないために、あたしたちは居るの。

 デリだって、そう思ったから、スゥを好きになったんでしょう?」

 電脳魔導師という「彼ら」は、しかし何も別の生き物ではないのだ。例えば彼らがそう言ったとしても、他の誰かがそう言ったのだとしても、彼らに近しいアリスやデリラだからこそ、それを認めてはいけない。

「スゥだって、今は少し混乱してるのよ。ウロスとケインの報告にもあったじゃない。スゥに意識のない状態で「スペクター」が動くなんて、常識的には考えられないって。でも、それを見たハルとドレイクは、報告事例が少ないだけって言ったわ。

 だから、ねぇ? デリ。

 自分はスゥの力になってやれないんだなんて、勝手に思わないで。確かにあたしたちは、魔導師としての彼らの力にはなれない。でも、人としてのハルやスゥを支えてるのは、ミナミやデリでしょう?」

 アリスにも覚えのある喪失感。

 あれはまだアリスが少女で、ドレイクが少年で、姉弟のように暮らしていた頃だっただろうか。

 原因がなんだったのか、今でもアリスには判らない。しかしドレイクはある日突然、笑う事も、話す事もやめた。日がな一日私室のソファに蹲り、何もせず、何も問わず、答えもせず、ただ虚空を見つめていた。

 どうしたのかと訊いた。毎日訊いていたと思う。何日目かにやっと口を開いたドレイクは…………。

       

 何も知らないアリスに、話す事なんかない。

        

 冷たい答え。

 酷い思い出。

「あのドレイクがあたしにそんな風に言うなんて、最初は信じられなかった。それからリインに屋敷に帰るよう諭されて、カインくんが迎えに来てくれて、久しぶりに家に帰って父と母と姉たちの顔を見た途端、あたし、物凄く悲しくなった」

 呟いて、アリスはふと口元を綻ばせた。

「泣いたわ。小さい子供みたいに、わんわん泣いた。家中のみんながあたしに、何があったのか話してごらんて言ってくれて、優しくしてくれて、だから余計に悲しくて、何日も泣いた。

 でも、散々泣いて、もう空っぽになって、判ったの」

 幼いアリスが、決めた瞬間。

「あたしは魔導師じゃない。だからなんだって。魔導師がなによってね。ただちょっと器用なだけの「人間」じゃないのよって思ったら、今度は猛烈にハラが立って、どうしてあたしがドレイクのためにこんな悲しい思いして泣き暮らさなくちゃならないのって。

 それからドレイクのところにすっ飛んで行って、手が腫れ上がるまでドア叩きながらね、知らないののどこが悪いのよ、判らなくて何が悪いのよ、あたしがどれだけ心配して泣いたのか、ドレイクだって知らないじゃないの、って…我ながら無茶苦茶な事言ったわ」

 今思えば、とアリスは、何かを懐かしむように目を細めた。

       

「魔導師だからっていい気になんじゃないわよ、ドレイクのばか! ドレイクがなんだって、イヤだって言ったって、あんたはあたしの「弟」なんだからね!」

         

 あの時ドレイクは「魔導師」である自分に戸惑い、思い知り、アリスは「魔導師」という「人ならざるもの」に憧憬する事を、やめた。

 凄くイヤな思い出だわ。と呟いたアリスの亜麻色が、デリラを優しく見つめ返す。

「魔導師としてのスゥには、ハルやドレイクが力を貸してくれる。それが終わったらデリの番でしょう? だからしっかりしなさいよ。そんな顔してたら、スゥに嫌われるわよ」

 言って小首を傾げたアリスに、デリラが曖昧な笑みを返す。判ってはいるけれど、というニュアンスのそれにアリスは、懐から通信端末を取り出しながら頷いて見せた。

「とはいえ、納得したいデリの気持ちも判らないでもないわ、あたしだって。だからここはちょっとズルして、講師を呼びましょう」

 その奇妙なアリスの言い方に首を捻ったデリラを無視して、彼女は誰かの電信番号を打ち込んだ。

 二言三言話してから、通信を切断。すぐに来るそうだからそれまでに会議の準備を終わらせようという事になって、慌ててディスクの分別を再開する。

「…あのねぇ、ひめ。講師ってのは、誰かね」

「? 誰って、ミナミに決まってるじゃない。きっとミナミは、スゥに何が起こったのか知ってるわ」

 その確信的なアリスの言い方に、デリラが眉を寄せる。確かにミナミは「魔導師」について余程詳しいようだし、今日の午前にここでヘイゼンと交わした会話を考えても、下手をしたら「魔導師」よりも「魔導師」を理解しているようではある。

 しかし、スーシェはデリラに、「関係ない」としか言わなかったのだ。果たしていかにミナミといえども、たったそれだけで何が判るというのだろうか。

 デリラの不安など知ってか知らずか、アリスはなぜかうきうきとディスクの分別に精を出していた。

  

   
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