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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(15)

  

 膠着した二十四時間を経て、ハルヴァイトが忽然と姿を消した二日後の朝。

 騒ぎは急展開する。

       

       

 丸一日たっぷり休養を取ったタマリが、鼻歌交じりに執務室に姿を現す。相変らず遅刻ぎりぎりながら、彼はいつも通り余裕綽々だった。

「おっはっよーん、と」

「…おはようございます、タマリま」

「それ以上言ったらこっろーす!」

 朝一番で日課の言い争いを始めそうな勢いで睨み合ったタマリとブルースの額を、わざと二人を押し退けて間を通り過ぎたスーシェが平手でひっぱたく。それで、仲良く額を抑えた制御系コンビがその場に蹲り、不機嫌オーラ全開の小隊長が奥の小部屋に消えるのを待って、部屋の片隅で震えていたイルシュと、ソファに座っていたジュメールがやっと溜め息を吐いた。

「空気読んでよ、ふたりとも…」

「うむー。それ苦手なのよ、タマリさんは」

「……」

 というか、なんでブルースもタマリさんの挑発に乗るかな。とジュメールは思ったが、あえて口には出さなかった。ただ、ルビーみたいな赤い目を眇めて苦笑を漏らし、短くカッとされてすっきりしてしまった髪を、癖のように手で梳いただけ。

「つうか、今日のすーちゃん手加減なしじゃね?」

「…それはタマリさんがあまりにも能天気すぎるからじゃないんですか?」

 とんだとばっちりだ、と明らかに抗議する視線が赤銅色の両眼から放たれて、それに射殺されたらしいタマリが「ぐああ」と意味不明の呻きを上げ床にばったり倒れ伏す。

 きっと、タマリさんは重くなりがちな空気をなんとかしようとしてるんだろうけど、スゥ小隊長にしてみれば、心情としてそれに乗るのも不謹慎だから、というところかな。と、ジュメールはやっぱり思ったが、それも口に上らせようとはしなかった。

「…つか、やっぱジューくんてどっかハルちゃんに似てるわ」

 急に、ムク、と身を起こしたタマリが床に胡坐をかいて両の足首を手で引き寄せ、きょとんとするジュメールににこにこと笑いかける。

「なんかさ、空気として、色々考えてんだろなーって思うのに、何も言わないじゃん。んで、こうやって急に話しかけられても、返事とかしないし」

 ね? と小首を傾げるタマリに、弱った笑みを向ける、ジュメール。

「でも、そゆとこまるで違うんだよね。だから、ジューくんはやっぱハルちゃんじゃないんだ」

 別人なのだ。

 どんなにあの男が「ハルヴァイト・ガリュー」と「ディアボロ」を欲しても。

 それは無理なのだ。

           

 あの、ミナミと同じ顔をした青年が「ミナミ」でないように。

         

「…アタシの憶えてる昔のハルちゃんてさ、今のじゅーくんみたいに、何か考えて、ひとりで解決して、その上で何があってもロクに口開かないヤなヤツだったよ? じゅーくんみたいに相手してくれようって素振りもないんだから、当然、会えば喧嘩になった。

 そのうちさー、もームカつくから、顔見たら蹴っ飛ばすのよ、アタシが。

 でも、ハルちゃんは迷惑そうな顔するけど、やり返しては来ないのね。

 それがまたハラ立つから、アタシはいっつもわざとハルちゃんの後ろくっついて歩って、ぐちぐち文句言って…。

 でも、そういうのも無視出来るすげーヤツだった。

 こころが広いんじゃなくて」

 床に胡座をかいたままがしがしと黄緑色のショートボブを掻き回していたタマリが、ふと俯いて、可憐な唇を笑みの形に引き上げる。

「全部が全部、自分の中で終わってる顔してたよ」

 付け足された一言に何か憶えがあるのか、ソファの背凭れ越しにイルシュの頭をぐりぐりと撫でていたウロスと、自分のデスクに着いてモニターを立ち上げていたケインが無言で小さく頷く。

「……………だからかなー。

 変な話なんだけどね、勝手に無茶苦茶しやがってこんなに騒がせられて、それなのに、なんつうかあんまハラ立たないんだよね、アタシ。昨日部屋でくつろぎながら思ったんだけどさぁ、もしもハルちゃんがアタシの知ってる「まま」のハルちゃんだったら、こんな風に、周り騒がしたりしなかったかもって」

 自己を肯定し周囲を否定せず、全て己の中で完結して。

「正直、タマリさんとしてはそのギャップに面食らっちゃってるんだけどさ」

 にぱ。と色彩の枯れた笑みを満面に浮かべたタマリに、イルシュが首を傾げて見せる。

「ギャップって、どんなギャップ? なの? タマリさん」

 よいしょと気の抜けた掛け声と伴に立ち上がり、スラックスと長上着をぱたぱた叩きながらタマリは自分のデスクに爪先を向けた。

「超絶にわがままで負けず嫌いでなんでもかんでも自分で解決出来て譲れないモンは死んでも譲らねーって、昔からちっとも変わってない部分と、この世は自分の中で解決していい簡単なモンじゃなくて、ハルちゃんの周りにもたくさんの「意思のある人間」が存在してるって理解した、天地がひっくり返る勢いで変わっちゃった部分が」

 彼の人は。

「今のハルちゃんには、同居してんの」

「それ故ガリュー班長は周囲の巻き込み方を憶えた、という所か。いいとか悪いとかいう冷静で悪意のない第三者的な意見ではなく、折に触れ巻き込まれる被害者的発想ないし意見でよいと言うのなら、僕にもひとつ判った事がある」

 目前を通り過ぎるタマリではなく、きょとんとしているイルシュに微笑みかけたケインがそこで、呆れたように肩を竦める。

「それは何かな、けーちゃん。上手く言えたらごほーびにちゅーしちゃうぞ」

 言いつつ、タマリは奇妙な顔で自分のデスクを眺めた。

「つまりガリュー班長は、「周りの巻き込み方をとある人物から短期間で徹底的に学習した」という事では?」

 どこかしら人の悪い笑みを眼鏡の奥に滲ませたケインがデスクに頬杖を突いて、片眉をひょいと持ち上げる。

「模範解答だね。それ、特務室行って発表して来なよ、けーちゃん。きっと、まだそこに行き着いてないアリちゃんとデリちゃんとレイちゃんに睨み殺されると思うけど」

「つまり?」とイルシュ。

「…つまり」とブルース。

「…?」と、ジュメール。

「つまり」

 いつの間にか開け放たれていた小隊長室のドア。それに軽く寄り掛かって腕を組んだスーシェが、ついに、小さく吹き出す。

「つまり。御方は、我らの生活に華々しく御登場なさったその瞬間から今日に至るまで、とにかく、周囲を騒がせ、引っ掻き回し、著しく情緒不安定に突き落としながら一度も怨まれる事なく、恐ろしい勢いで」

        

 悪魔を捕らえ引き寄せて、「悪魔」を、「人」に、換えたのだ。

        

「「「あ」」」

 そこで少年たちもようやく気付く。

 そうだった。ハルヴァイトの全てはある日を境に劇変したのだ。確か。それを実感した試しがない…以前のハルヴァイトを少年たちは知らないので…からさっぱり判らないが、例えば、四年か五年より前の彼を知る関係者は皆、口を揃えて言ったはずだ。

 死にかけて、それからハルヴァイトは少し変わったと。

 恋人が出来て、それからハルヴァイトはとても変わったと。

 原因は。

「…確かに、今日も飽きずに篭城してるらしいアイリー次長を心配する人は居ても、悪く言う人はいないですね…」

 溜め息混じりに呟いたブルースに、スーシェはほんのりと笑って見せた。

    

      

……。そこまで言われると、少し複雑な気持ちになる…。

あながち、間違いです、と強く言えないのも、事実だが。

      

        

「と、まー。そゆとこちったぁ信用しようぜ、って話題だよね、今日のミーティング?」

「そこだけ聞くと、物凄く平和な感じがしてうんざりだけど」

「よゆー見せようよ、こんな時だからさぁ。だってほら、アタシらまどーしな…って、そういやぁ、すーちゃん?」

 自分のデスクを難しい顔で睨んだり、いつものようににこにこ顔をスーシェに向けたりと忙しかったタマリが、急に表情を引き締めてスーシェに身体ごと向き直る。それに首を傾げて見せる、スーシェ。

 タマリにしても、いかに普段へらへらしていようがふざけてばかりだろうが、こういう顔で言うべき時はきちんと弁えているし、そもそも彼は臨界ファイラン階層制御系セカンダリ・システムを預かる、れっきとした、以上に優秀な魔導師なのだ。凍りついた枯れ行く笑みではなく、時たま見せるこういった表情は何か重大な質問や討議を始める前触れなのだと、最近少年たちも判って来た。

 だから、誰もが口を閉ざす。

「「スペクター」、どうなの? …すーちゃんだけでなくて、さ、イルちゃんとジューくんの、「サラマンドラ」たちとか」

 確かめるような視線が旋廻して、ソファに座る少年たちを見つめる。

「どうもこうもないよ。現状に変化なく、今も無反応」

「うん。おれもそう。昨日とかも結構呼びかけてみたけど、全然ダメだったし」

「………なんていうのか」

 それぞれの魔導機に応答がないと答えた、スーシェとイルシュ。それで既にその話題には触れなくていいと思ったのか、ジュメールは赤い瞳を見返してくるペパーミントに据え、少し考えてから、その白い眉をぎゅっと寄せた。

「酷く、自分が不安定な気持ちになる」

「……ほー」

 その一風変わった答えに、タマリは目を眇めた。

       

      

これもまた、わたしの予測を裏切るイレギュラーか。

確かに、事態を解決編に導くのは第七小隊の役目だとわたしも思った。

だから、そうなるようにした。

しかし、アプローチが違っている。

だが、それも悪くない。

情報がひとつ増えるだけだ。

理解が少し進むだけだ。

……イレギュラー。

「あなたたち」は、きっと、愛されている。

        

        

 不安定、と言われて、スーシェとイルシュも無言で頷く。

「んー。アタシにはさぁ、「アゲハ」から応答なくなっちゃったりした経験ないから、いまいちはっきり判らねーんだけど。それってつまり、どんな感じなのよ」

 ソファとソファの間に置かれた低いテーブルに、行儀悪くも腰を下ろそうとする、タマリ。それを停めて無理矢理座席に押し込んだのは、意外にもブルースで、スーシェはそんなふたりを微笑ましそうに見ていた。

 なんだかんだで上手くやれている。自分が心配するほど、悪い職場ではない…。とでも、その時彼は思ったのか。

「ふかふかのベッド?」

「「はぁ?」」

「微妙だね。もっとユルくて分厚いマットレス」

「…掘り返した庭の花壇…とか」

 ああ、それもありかな。などと、何かすっかり通じ合っているらしいイルシュ、スーシェ、ジュメールが顔を見合わせ、それとは別の意味合いで、タマリとブルースが顔を見合わせる。

「そういう感じ?」

「どんなだよ…。と、ここでみーちゃん風に突っ込み」

 自分の膝に頬杖を突いたタマリが、溜め息混じりに言い置いた。

「体感的にはそういう事なんだよ。体感…というのもまた微妙なんだけど、そういうアンバランスな感じかな。こう、ちゃんと地面に足が着いてるのに、どうも重心が定まらない、みたいなね」

 最初からそう言ってくれれば判るのに、とタマリはぶーぶー文句を言ったが、ブルースはそこで、先の彼らの言葉をひとつひとつ思い出し、なるほど、と嫌に神妙な顔で頷いた。

 目の前に足を着いて身体を支えるのに問題ない地面は、ある。それなのに、一歩踏み出すとそれはあまりにも心許なく、ちゃんと「足を着いた」という弾力を返してくるのに、身体をささえようとするとふらふら足元が固まらない。

「感覚的には、そうだな…」

 そこでちょっと難しい顔をして黙り込んだスーシェの顔から、傍らのジュメールに視線を流す、イルシュ。その琥珀から注がれる光を受けて、深紅の双眸をやや伏せた青年が、小さく頷く。

「…隔離された小さい部屋、ですよ、スゥ小隊長」

 首肯されて確信したからか、イルシュはそう言い切って、タマリとブルースの顔を見つめ返した。

「あの…えと、判ります? 上手く言えるのかな、おれ。

 だからそれは…」

 探るようなタマリの気配に当てられたのか、不意に当惑したイルシュがあたふたと何か言い募ろうとし、しかし、何を言っていいのか判らず、助けを求めるような視線をブルースに注ぐ。

 タマリは、難しい顔をしていた。ケインも、ウロスも、スーシェも…。それは、イルシュの言い出した「感覚」が判らないのではないだろうと、ブルースは思った。

 判断できないのかもしれないが。

 どちら、なのか。

「…サーンス」

「あ…うん」

 問うように名前を呼ばれたイルシュが、ブルースの赤銅色を見つめ返した。

「それは」

「あの…それはだから……ごく「最近」おれが感じたっていうか…」

「…………じゃぁ、判ったよ。ぼくには」

 それまでイルシュを射竦めるような視線を少年に送っていたブルースが、ふと目許を緩めて微笑む。それでようやく安心したのか、イルシュの琥珀からも固い緊張が消えた。

「ただ、残念だけど、その感覚を「感覚」として理解するのは難しい。何せぼくらには、そういう経験がないから」

「…それは、うん、おれも判ってる。だからスゥ小隊長は判ってても言葉になんないんだろうし、おれとジュメールはすぐに判ったんだから。うん…、おれは、伝わっただけで充分」

 意思の確認なのだろうか、ふたりは言い合って、それからようやく、無言で待ってくれている上官たちに頷きかけた。

「「わたし」の空間は外の世界と繋がっていると「わたし」は知っているのに、「わたし」は隔離された小さな部屋に居てその世界と接する事が出来ない感覚、ですよ、小隊長」

 しどろもどろになりがちなイルシュに代わって、ブルースが言い置いた。

 それは。

 それはまるで。

 まるで。

 まるでそれはまるで。

 それは。

「おれとジュメールが、あの部屋で、ずっと…感じてた事」

         

        

 少年たちもそうやって、いっぱしの魔導師になって行くのかと、わたしは思った。

  

   
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