■ 前へ戻る   ■ 次へ進む

      
   
   

16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(17)

  

 彼、ミナミはただそこに立っていた。

 背にした室長室のドアは開け放たれたままで、寝乱れて皺だらけになったシャツの裾をだらしなくスラックスからはみ出させ、しかも、裸足で。

 それでも胸元だけはきちんとボタンが掛けられており、くつろげたハイカラーの隙間から微かに覗くのは、あの透明な傷跡だけ。

 寝ぼけているのか、ミナミはぴくりとも動かず室長室と執務室を隔てるドアの前に立ったまま、ぼんやりとどこかを見ている。

 その、彼が姿を現した瞬間に遭遇していたはずのジリアンも、電脳班執務室から顔を覗かせてすぐミナミに気付いたアリスも、なぜなのか、すぐには青年に声をかけられなかった。

 なぜなのか。

 ミナミが、恐ろしく、恐ろしいほど、静かで希薄な印象だったからかもしれない。そうではないかもしれない。

 そう、確かに青年は、生きているのか死んでいるのか、現実なのか幻なのか定かでない朧な気配を纏いただそこに立っている。しかしそれを目にした瞬間、彼と彼女は、感じた。

 決定的な違いを。何かを。そこだけ胡乱ではないダークブルーの瞳に、何か、を、感じた。

 凛とした空気か。

 毅然とした内面か。

 達観した面持ちか。

 または。

 脆く強(こわ)い青年の「本質」を覆い隠していた憑き物が落ち、曝け出された…真実か?

「ミナミ……」

 呼吸困難に陥り弱々しくも酸素を求める、陸に打ち上げられた魚みたいに情けない声を絞り出した、アリス。それで、やっと彼女の存在に気付いたかのように虚空に据えられていた深い青がゆっくりと旋廻し、電脳班執務室のドアに貼り付いたままの赤い美女を捉える。

 ドキリとした。

 やや蒼褪め疲労を滲ませた顔に、淡い笑みが浮かぶ。

 たったそれだけの事だったのに、アリスもジリアンも反射的にミナミから顔を背けようとし、でも、それが出来なくて、また凍りついたように青年を凝視する。

 無残に、自分も知らない自分自身を守る固い鱗をざらりと逆撫でされて、剥がれ落ちたそれが広げた掌、指の隙間から足元にばら撒かれるような、不安な胸騒ぎ。酷い違和感。全身に纏わり付く不快感。拒否しても拒否しても、じわりとにじり寄る温度の低い掌と細い指に惑わされて、結局、いつの間にかその白い手を自ら内側へと…誘い込んでいる。

 という、無音の、破滅。

         

         

そう。だから彼は恐ろしい。最強、最悪の恋人。

しかしわたしは、「わたし」であるからこそ、それを恐れず。

         

 

その焔の出口を、あなたに、与える。

        

         

 しん、と奇妙に重い緊張を孕んだ空気を振り払ったのは、それもまた青年だった。

 ミナミがふと困ったように眉を寄せてから、スラックスのポケットを探って小さな手帳を取り出す。大抵の事ならば携帯端末で済むこの浮遊都市にあって今更紙とペンなど何に必要なのかと、しきりに瞬きしながらミナミを見つめるジリアンに示されたそれには、綺麗な文字が大きく書き付けられていた。

「……………。それなら…、班長がこちらに戻る頃ですので、官舎のダイニングから何か持って来てくれるように頼みましょうか?」

 手帳の文字を左から右に三度も目で追ったジリアンが小さく笑って答えると、ミナミがこくりと頷く。

 それからもう一度呆然とするアリスに顔を向け直した青年は、ぴりりと破ったページにペンを走らせてジリアンのデスクに置き、別のページをアリスに見せた。

―――デリさんとアンくんと ミラキ卿は?―――

 問われて手帳から目を上げたアリスが、ミナミの無表情を見つめ返す。

 今はもう、ついさっき見せた危うさなど欠片も感じさせない、いつもと同じ無表情。

「デリは用事があってスゥのところよ。アンもドレイクも、執務室に居るわ。呼んで来る?」

 小首を傾げて優しく微笑んだ亜麻色に、ミナミが首を横に振って見せる。

―――食事 終わったら 俺が行く―――

 それだけ告げもう何も言いたい事はないのか、ミナミは現れた時と同じように音もなく、室長室へと姿を消した。

「………………………」

 思わず、アリスとジリアンが顔を見合わせ、無意識に強張っていた肩をほっと下げる。

「…ミナミって、あんなコだったかしら…」

「いや……うーん。もしかしたら、そうだったかもしれませんよ?」

 微妙に歯切れ悪い言い方を八つ辺り気味に睨んで来るアリスの視線から逃れつつ、ジリアンは、過去一度だけミナミが見せた冷たい表情を思い出していた。

 アドオル・ウインが特務室を訪ねて来た日、気分が悪いと言って飛び出したミナミが執務室に戻った時の、表情を。

「ジル?」

 不意に声をかけられて、ジリアンがアリスに視線を転じる。

「どうかした?」

 漆黒の制服に映える真っ赤な髪を軽く手で梳くアリスに曖昧な笑みを向け、青年は小さく首を横に振った。

「なんでもありませんよ、ひめさま」

 その時ジリアン・ホーネットは、心底ハルヴァイト・ガリューを畏れ、ミナミ・アイリーを恐れた。

 全てを全て、無抵抗に抉り出し曝け出し堕ちよと急かす綺麗な青年を恐れ。

 その青年の全てを全て手に入れて尚まだ何か毟り取ろうとする悪魔を、畏れた。

 他に被害が広がる前に、落ち着く所に落ち着いて欲しいな、と嘆息する程度には。

  

   
 ■ 前へ戻る   ■ 次へ進む