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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(18)

  

 それから十分ほど後、特務室。

「………ふえーん」

 タマリ・タマリ魔導師がソファに挟まれたテーブルの上に正座させられているという、奇怪な光景。

………………………。

 両脇を、デリラ、スーシェ、アリス、アンに固められ、あきらかにウソ臭い声を上げ泣くふりをしているその姿を目にして、似合わないバスケットを持たせられたヒューが深い溜め息を吐く。

 まず、テーブルの上に正座という状況がなぜ生まれたのか、理解出来ない。それから、その、極めて特異な状態なのにも関わらず、タマリが片手の指を、派手な色合いのディスク中央に開いた穴に突っ込んでいる理由に、まったく思い当たりがない。

 なので意味の判らないそれは無視して、ヒューはジリアンに視線を流した。

「朝食だか昼食だか判らないデリバリーを頼まれたと思ったら、今度はなんだ? というか、俺の運んで来たこれが」

 で、箱型バスケットを持ち上げて見せる、ヒュー。

「タマリのだとかいう笑えない冗談はなしにしろよ、ジル」

「残念ですがはずれです、班長。タマリさんは別件で制裁中。お食事は、アイリー次長のですよ」

 だからあっち、と室長室を指差されて、ヒューが一瞬渋い顔をする。

「デリバリーじゃなく、ルームサービスか…。いつから俺はボーイになったんだ?」

「うむー。ヒューちゃんボーイさんなら、サービス悪くて苦情来まくりだね」

 んにゃ! と突然顔を上げたタマリがヒューの横顔に笑顔を向けた、途端。

「タマリ!」

 びし!

「………」

「うあーーーーーん。ごめんよーーーーーー」

 アリスに叱られ、デリラに額をひっぱたかれ、スーシェに呆れられて、またウソ泣きする。

「…ふざけるなら他でやれ。ウチ(特務室)はこう見えて忙しいんだ」

 眉間に皺を寄せてぶつぶつ言いつつヒューは、ノックもせずに室長室のドアを勢いよく引き開けた。

 すると、窓際に置かれたソファの辺りで空気が動く。

「…」

 だからヒューは何も言わずにドアを閉ざし、いつもと同じに大股で部屋を突っ切って、背の低いテーブルにバスケットを置いた。

「ダルビン特製のサラダベーグルにコーンスープ。デザートは、アンくんに大評判のフルーツタルトと、ミントティーだそうだ」

 シャワーでも浴びたのだろうか、青白い頬にほんのりと指した赤みが、逆に青年の心労を窺わせる。濡れた髪から滴り落ちる雫が肩にひっかけただけのタオルに吸い込まれるのをサファイヤの瞳で見ている男の顔をまじまじと見上げてから、ミナミはようやくほんのりと笑った。

 とりあえず、食事をする気力だけでも沸いたのを良しとすべきか。

 ヒューがテーブルに置いたバスケットから手を退け、いつものように横柄に腕を組む。ミナミはそれを、まるで何か確かめるように、または何かを記憶するかのように瞬きもせず、暫しじっと見ていた。

「なんだ?」

 さすがに、すぐ脇に突っ立っていられては食事もし難いだろうと思ったのか、問いながらもミナミから顔を背けたヒューが、勝手にクラバインのデスクに近寄り肱掛椅子に腰を下ろす。

 なんでもないという意思表示なのか、ミナミはヒューに当てていた視線をテーブルに戻して、小さく首を振った。その華奢な肩と生乾きの髪を後ろから見つめる、サファイヤの瞳。微かな衣擦れやベーグルを包んだナプキンの擦れ合う音や、ポットの蓋を開ける音だけが時折思い出したように囁く室内に元より置かれていた調度品のように気配を消したヒューを、ややあって、突如ミナミが振り返る。

 ひゅ、と意外にも素晴らしいコントロールで投げ付けられた手帳を危なげなく受け取ったヒューは、「行儀悪いぞ」などと気のない注意を口に上らせつつ、目印のように折れた端っこの飛び出しているページを開き、並んだ文字列に視線を這わせた。

―――ミラキ卿は?―――

 まだ食事中なのだろう、訊いたくせに正面に向き直ってしまったミナミの小さな頭に苦笑を吐き付けたヒューが、デスクに頬杖を突いて答える。

「仮眠室で寝てるらしい。疲れてるんじゃないのか?」

 少し待って、ミナミが首だけを向けて妙な顔をしたのに、ヒューは手の中で弄んでいた手帳の「役割」を思い出した。

 まぁ、いいのだが。意味と理由は判らないが、事実として、ミナミは「話さない」と決めたのだろうから、それをここまで来て貫きたいというのなら好きにすればいいさ、と苦笑を交えた呆れ顔で、ヒューが手帳を放り返した。

 ミントティーを啜りながら細い腕を伸ばしてそれを受け取ろうとする、ミナミ。

 が、しかし?

 青年の思惑よりも早く手帳は目的地に到達し、勢い、ぺしゃん。と……彼の金髪に貼り付いてから、ぽとりとその膝の上に落ちたではないか。

 思わず吹き出したヒューは、がん! とカップをテーブルに叩き突けたミナミに、キッと睨まれた。

「あ、いや…」

 その表情と気配を探りつつ笑いを堪えてミナミから視線を逸らしたヒューは、なんだ、結構元気じゃないか、と内心安堵する。判っているだろう、何かするだろうと信じていても、実際部屋に篭ったままのミナミを思えば、多少は、ショックに打ちのめされていると判る。

 だから、何もしたくないのなら少し休んでいい。

 何かしたくなったら好きなようにすればいい。

 どうせ、今日まで好き勝手やって周囲を騒がせたのだ、今更遠慮されたり急に殊勝な態度を取られたりしたら、ムカつくかもしれない。

 ようやく取り上げた手帳に、むー、と眉を寄せ何かを書き付けているミナミの横顔をちらりと横目で見遣って、ヒューは喉の奥で小さく笑った。

 そしてどうせ、何かするとなったらまたも盛大に周囲を騒がせ、関係あるもないもいっしょくたに巻き込んで、結局、嵐みたいに過ぎてしまうのだ、この騒動さえも。

 最後は、誰もが見慣れた、あのふわりとした笑みであって欲しいと思う。

 すごいな、珍しい。と自分の希望的観測にやたら新鮮な驚きを感じつつ、ヒューはミナミから顔を背けたまま、ひょいと首を竦めた。

 ちっ! というような気配。

 直後、銀色の上を高速で通過する手帳。

「…投げるなとは言わないが、頭を狙うな!」

 咄嗟に伸ばした手でどこかへ行きそうだった手帳を捕まえ、ソファの背凭れにしがみ付いてにやにやしているミナミにわざと牙を剥いて見せる。果たして、青年と遊んでやっているのか遊ばれているのか微妙な具合ではあるが、どちらにしても、ヒュー・スレイサーというのは面倒見のいい男らしい。

 顔の前に翳した手帳。

―――ミラキ卿に話 ある 会える?―――

「ナヴィに訊いてみよう。大した問題がなければ、起こしてくれるだろうからな」

 答えて、かなり乱暴に手帳を投げ返す。直前、ヒューは一瞬だけミナミに視線を流したが、青年を最後まで見ていた訳ではなかった。

 それなのに。

 一直線に走って来る手帳を軽く首を傾げ避けたつもりだったミナミの額に、またもそれがぱしんと衝突。唖然とする青年の鼻先を掠めて、ソファに落ちる小豆色の表紙。

 つうか、俺、避けただろ!

 と今にも言いそうな顔で、座面に突いた膝元に落ちた手帳とにやにやしているヒューの横顔を見比べている、ミナミ。

 その、数日振りに見る「面白くなさそうな無表情」を笑うヒューの顔面向かって放り投げられた手帳には、―――笑うな!――― とかなりお怒りの殴り書き。

「ここは笑う所だろう、普通」

 肩を竦めて言いながらヒューが投げ返した件の手帳を、今度はしっかりキャッチするなりミナミは。

 事もあろうに、隠し持っていた樹脂製のカップを力一杯ヒューに投げ付けた。

 それこそ脊髄反射で高速飛来するカップを払ってしまってから、ヒューは引き攣った笑いを口元に浮かべゆらりと立ち上がった。多少の憂さ晴らしくらいになら付き合ってやってもいいが、そろそろ取扱物が凶器に傾いてきそうな気配に、ここはひとつこのわがまま青年を叱っておこうと思ったのか?

 そしてミナミはその、警護班班長の放つコンマ五度くらい気温の下がった空気の正体に、すぐ気付いた。

 ひく、とさすがに頬を強張らせた青年がソファの角に縮こまり、弾いたおかげで背後のドアに激突し、思いの他大きな音を立てたカップをゆっくりした動作で拾い上げるヒューを、目で追う。

 沈んで、浮いて、旋廻する銀色。ひたりとミナミに当てられたサファイヤの瞳が、冷たく微笑んでいる。

「危険物は使用禁止だ。間違って怪我するぞ、お前が」

―――俺かよ―――

 内心絶妙のタイミングで突っ込みつつ、ミナミが首を竦めた。

「先の尖ったものと固いもの以外ならなんでもOKだがな。もしお前が俺に何か当てられたら、バニラアイスをご馳走しよう」

―――つうかなんでバニラアイスなんだ?―――

 急いでしたためたページを開いたままヒューの顔に向かって投げつつミナミは、ソファに備え付けられているクッションをもう一方の手に握り締めていた。

       

       

 ガン! という酷くくぐもった音が室長室から漏れ、瞬間、ウソ泣きしていたタマリと、そのタマリを問い詰めていたスーシェ他四名、それから、急遽変更されたシフトを衛視に通達していたジリアンが、ぴたりと動きを停めた。

 それぞれがそれぞれ、室長室を探るように目玉だけを動かし、耳を澄ます。

 少しの間、静寂。床とドアの隙間から這い出る微かに不穏な空気を感じたのは、アリスとデリラ。

 まさかここで今度は、ヒューがミナミの地雷を踏んだものか、はたまた逆に、ミナミの何かをヒューが咎めているものか、と赤い髪の美女、悪人顔の砲撃手が顔を見合わせた途端、聞き慣れない、柔らかいものが床か壁かに叩き付けられるような不安な音が、奥の部屋から聞こえて来たではないか。

 それを皮切りに、なのか、べたん! とか ばさっ! とかいう不思議な音がひっきりなしに上がり始めたのに、さすがのアリスたちも不安になる。

 うろうろと視線を交わし、でも、室長室に入るに至らない極めて微妙な心持ちってどうよ、と唸るタマリ。それに無言で頷き同意するアン。スーシェに縋るような目で見つめられやれやれと肩を竦めたデリラが立ち上がり、それに倣ってアリスも立ち上がった、途端。

「だから、それはやめろと言っただろう!」

 キレたらしいヒューの怒声に弾かれ、アリスたちは先を争って室長室に転がり込んだ。

 そこで彼らと彼女が見たのは。

 今まさに、朝食の入っていたバスケットをヒューめがけて投擲しそうな姿勢できょとんとしているミナミと、クラバインの座席に偉そうに座ったヒューの前、デスクの上に、黒い長上着やら小豆色の手帳やらクッション、綴ってある資料、手袋、タオル、紙ナプキンを丸めたもの、きっちり結んだベルトだとか、なんだとか、そういう意味の判らないものがずらりと並べられているという、異様な光景だった。

 その、テーブルの上に正座するタマリよりも意味不明の様相に、誰もが唖然とする。

「…ケンカぁ、じゃないよね? この、ビミョーな雰囲気は」

 ドアノブを掴んだまま凍り付いているデリラの脇からひょこりと顔を出したタマリが、何か確かめるようにヒューの顔を見つめた。

「俺が一方的に制裁を加えられているように見えても、ケンカには見えないだろう?」

 いや、まぁ、ありえないけれど、そう言われれば、そんな気がしないでもない。

「…………………」

 さすがにそこでミナミは、無言でじっと見つめて来る亜麻色の瞳に何か居心地の悪さを感じたのか、肩まで持ち上げていたバスケットをゆっくりとテーブルに置いた。それから、ちょっと困ったように眉を寄せ、苦笑に似た表情を作って、ぽりぽりと生乾きの金髪を掻く。

「…班長…」

「なんだ」

「…あと、ミナミ…」

 多分、と、その時その場に居合せた全員が、沈んだアリスの声を遠くに聞きながら、確信する。

 ふたりは、なんらかの理由で、じゃれていただけなのだと。

 この、非常時に!

 そして、その暴挙? にいち早く対処したのは、やはりというべきか、アリス・ナヴィその女性(ひと)だった。

 氷点下というよりも絶対零度に近い冷たさを湛えた亜麻色の双眸で、クラバインの座席を占拠しているヒューを睨み、ソファに片膝を載せてヒューに向いているミナミを睨み、わざとのように大きく、盛大に、呆れたように、溜め息を吐きながらデリラとタマリを押し退けて一歩室長室に踏み込んだ彼女は、ふん! と鼻息も荒く燃えるように真っ赤な髪を腕で払ってから左手を腰に当て、右手で、ビシッ! と自分の正面足元を指差した。

「ここに正座なさい!」

 煉瓦色の細眉を吊り上げて交互に睨まれたヒューとミナミは、顔を見合わせ、肩を竦めた。

  

   
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