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16.全ての人よ うらむなかれ |
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まさか本当に正座させられはしなかったものの、髪を乾かし着替えるというミナミが一旦私室に戻ってからずっと、室長室のソファに押し込まれたヒューはアリスの小言を頂くハメになった。 「こっちが心配してるってのに、何暢気にふざけ合ってるのよ、君たちは! ミナミに乗せられる班長も班長だけど、ミナミは本当に、周りに心配かけてるって判ってるの!」 ハルヴァイトが消えてから様々な事が起こり、それで鬱屈していたものが一気に噴出したらしいアリスは、さすがのヒューでさえ辟易するほど枯れるをしらぬ泉のごとき勢いで片っ端から文句を並べ立て、彼に詰め寄っていた。 こうなると、誰も彼女には太刀打ち出来ない。 そういう「女性」にはステラ・ノーキアスというあの女医で慣れているはずのヒューでさえ、アリスの剣幕には始終圧され気味だった。 「確かに、こういう風に言ってまたミナミが何か気にしたり考え込んだりしちゃいけないとは思うわよ、あたしだって。でもね、判る? 判るわよね! ミナミはいいにしても、あたしたちが今日までどれだけ気を揉んだか知ってるんだから、班長! せめて班長くらいはあたしたちに気を遣ってやろうとか思ってくれてもいいんじゃないの!?」 ええ! と鼻先に指を突き付けられて、ついにヒューの唇から溜め息が漏れる。 「何よ!」 慌てて口元を覆った白手袋でも圧し留められなかったそれを見咎めてアリスがますます眉を吊り上げ、デリラとアンが天井を仰いで額に手をあてがう。 だめだ。まるでダメ。説教されるのにこれほど不向きな人間に延々と説教するアリスも相当ダメだが、こんな時でも殊勝になれないヒューも、まるでダメだ。 「…でもさー、音声切ったらすげいいい場面だなーとか思わね?」 「浮気を咎められてる男にしか見えねぇけどね、それでも…」 「あ、でもほら、方向性として、あたしはこんなに真剣なのにどうしてあなたはそうなのよ! みたいな感じなら、結構いいんじゃないかと思いますけど」 「結局元のサヤに収まるタイプのメロドラマだね。最近そういう、レトロな純愛物ってまた流行してるらしいよ」 へー。などと、ソファの片隅に追い詰められているヒューと、その腕をしっかり掴んで離そうとしないアリスをやや離れた場所から恐々眺めていた他の四人が、タマリ、デリラ、アン、スーシェの順番でこそこそと囁き合う。 確かに、見た目だけなら各段にいいカップルだとは、思う。片や銀髪で派手な顔立ちの二枚目(しかも片親は正真正銘のムービースターだ)で、ちょっとやそっとの相手役なら食ってしまうだろう存在感ながら、詰め寄っているのは真っ赤な髪に亜麻色の瞳の、これまた生粋の美女なのだ。見ている分には目の保養? だが…。 「今度こんな真似したら、ミナミの分入れて本気で落とすわよ、班長!」 「そうしたら、俺の代わりに警護班の面倒を見てくれるか? ナヴィ」 交わす笑顔とセリフが、極めて物騒。 怖いよ、とウソ泣きするタマリとアン。このふたりが本気で組み手などしようものなら、どちらか一方は医療院に担ぎ込まれる、絶対に。
この場合、班長が本気だったのか、 それとも判っていて恋人に乗ったのか判らないにせよ、 彼は、恋人と周囲と、どちらに対しても適切に行動したとわたしは思う。 おかげで、アリスたちは恋人に余計な質問をする必要がなくなった。 恋人にしても、周囲に対して余計な言い訳をする必要がなくなった。 不自然な状況を、更に不自然な状況で繋ぐ。 わたしは、思う。
きっと…班長とは一生理解し合えそうもない。
しかしわたしも班長も、不本意ながら、相手を信用するくらいには、親しくなるだろう。
散々ヒューに文句を言い散らかして少しは気が済んだのか、ようやくアリスが一息入れると、狙ったようにジリアンが紅茶を運んで来た。それに、もう少し早くくればいいのに、という視線を送るヒューに朗らかな笑みを向けた彼が、トレイを小脇に抱え踵を返してから、いひひひひ、と薄気味悪い含み笑いを残して退室して行く。 「わざとですね、わざと…」 「ああ。わざとだな。しかも、今頃部下には、俺がナヴィに叱り倒されたと知れ渡ってるだろうしな」 額に手を当て溜め息を吐いたヒューの横顔に、自業自得って言うのよ、班長。などと吐き付けて笑う真っ赤な美女。 苦虫を噛み潰したような顔で香りのいい紅茶を頂いていたヒューがそこで、次長ブースの仕切りに背中を預けて行儀悪くずるずるとお茶を啜っているタマリに視線だけを向ける。 「ところで、タマリ」 「んにゃ?」 ちろ、と動いた、ペパーミントグリーンの瞳。 黄緑色のショートボブ。美少女ばりの小さな顔。華奢な身体を包む深緑の制服から覗くカラーはだらしなく緩められていて、細いネクタイも収まり悪く捩れている。 それは、確かにいつもと同じなのだが。 「ずっと気になってたんだがな」 「あらやだ、ハズかし。こんなところで愛の告白かな?」 「それが本気ならまずここに立合い人をひとり呼びたいんだが、それでもいいか?」 にぱ。と満面の、でも実のない笑みを浮かべたタマリに鋭く言いつつ、即座に懐に手を突っ込み携帯端末を取り出そうとする、ヒュー。 「ウソです、ごめんなさい。真面目に聞きます。こっちはホント」 「誠意が感じられない」 「というか、それをヒューさんが言うのもどうかと思うんですけどね、ぼくは」 と、ミナミの代わりに速攻突っ込んだアンを、片眉を吊り上げたヒューが睨む。 「…助けて、ミナミさん…」 どうしてミナミなら良くてアンではダメなのか不思議だが、とにかく、少年はよよとソファに泣き崩れるフリをした。 「どうしてこう、ここの人間は緊張した空気が持続出来ないんだろうね」 言いながら、ソファに座ってお茶を楽しんでいたスーシェが溜め息を漏らす。 「いや、タマリはここのじゃなく、お前んトコの人間だろうけどね」 「へー、知らなかった」 「うお! ひでーよ、すーちゃん! やっぱりすーちゃんタマリのコト嫌いなんだぁぁ」 うわーーーーーん。と手にしていた茶器をアン少年に押し付けたタマリが、スーシェの膝に縋り付いてウソ泣きする。最早それには突っ込みも注意もしたくないのか、アリスはげんなりと肩を落として肘掛に片肘を預け、目前で繰り広げられている二種類のショートコントからきっぱり目を背けた。 もしかして全員引っ叩いたらスッキリするかしら? と赤色の美女が物騒な思惑を実行するか否か本気で悩み始めた頃、空いていたクラバインの座席、その向こうに佇むドアが静かに開き、きちんと制服を着込んだミナミが姿を現す。 ヒューは、それに気付いたが構わず話を続けた。 色々と気になる事もあるし、ミナミがドレイクと話をしたいと言っていたのをアリスに伝えなければならないとは思うのだが、とにかく、さっきからずっと「それ」が気になってしょうがなかったのだ。 それ。 「それで、なんでお前は俺がここに戻ってからずっと、「それ」に指を突っ込んだままなんだ? タマリ」 白手袋に包まれた指先を向けられて、なぜなのか、スーシェとデリラとアンとアリス、そして指されたタマリが、びくりと…全身を震わせる。 それ。 お茶を飲む時も、ふざけてスーシェの膝に絡まっている今もぴんと天井に向いた細っこい指が貫いている、一枚のディスク。 表面が真っ黒で、裏面、データの書き込み領域がエメラルドグリーンの、臨界式ディスク。 それ、は。 「んーーー、じゃ、みーちゃんも来た事だし、そろそろマジメに話し合いと行こうか」 いっとき硬直していたのなどウソのような素早さでいつも通りやる気なさげな声を出したタマリが、がりがりと頭を掻きながら俯いて短く息を吐く。 「悪いけど、すーちゃん。そこ、みーちゃんに空けてやって」 スーシェが座っていたのは、窓際に置かれた応接セットのアリスとヒューの向かい側だった。窓側にはアン少年が座っていたのだが、スーシェが退ければ、通路側にミナミを座らせても少年との間に人ひとり分の余裕が出来るだろう。 相変らず臨界式ディスクに指を突っ込んだまま、タマリはにこりと笑ってミナミに手招きした。その笑顔に何を感じたのか、青年は、クラバインのデスクに散らばった色々な物の中から(さっきミナミがヒューに投げ付けた物だが)あの小豆色の手帳だけを持って、示された場所へと移動する。 青年は、無表情だった。真っ直ぐに正面を見ているが、本当は何も見ていないのかもしれなかった。もしかしたら、見えない何かを睨んでいるのだろうかとも思えた。 そういう顔をしていた。 ただ、前を、見ている。 「ま、正直、これに気付かなかったのは百パーセントアタシが悪ぃと思うからさ、またもやテーブルの上に正座しろとか言われても文句言えませんが」 ただもう面倒臭ぇからそゆの後にしようよ、とタマリは冷たいくらいに素っ気無く言って、三人掛けのソファを挟んだ背の低いテーブルの脇に移動するなり、ヒュー、アリス、アン、ミナミの顔を見回し、こくりと頷いた。 「これね、アタシが、初回サーカスに行った後、すーちゃんの意識が戻ったって、無理矢理さ、みーちゃんらに医療院連行されたでしょ? その帰り、なったハルちゃんから預かったモンなの」 多分、自分が思うよりも緊張した声で囁くように言ったタマリのセリフにヒューは微か目を見張ったが、ミナミは。 ミナミは、ゆっくりと俯き、ふと唇の端を歪めただけで、他にはなんの反応も返して来なかった。 無言のままのヒューに目だけで続けろと促がされたタマリが、再度小さく頷く。 「ハルちゃんはその時、これをアタシに渡すのには意味があるって言った。みーちゃんやレイちゃんには、ディスクの内容を明かせないからってもね。 うん、でもさ、今になって思えば、これがアタシからみーちゃんやレイちゃん、みんなに提示されるって意味が、少しは判るんだよね」 軽く身を屈めて低いテーブルに片手を置いていたタマリは、もう一方の手、指を突っ込んだディスクを周囲に見せ付けるようひらひらと動かしながら、背筋を伸ばした。 「単純に、みーちゃんやレイちゃんて、ハルちゃんに一番近しい人たちじゃ、もしこういう事態に陥った場合冷静に対処出来るかどうか、って問題。じゃないと思うのよ」 笑顔。唇の端を薄っすらと吊り上げた実のない笑顔で、タマリは室内を見回す。 「ハルちゃんは魔導師なんだよ。それも、臨界ファイラン階層攻撃系システム、て、いわゆる特異状況にあんの。これは、一般の魔導師と違う。で、それが、違うんだーってすぐに判るのはアタシがセカンダリ・システムだからであって、レイちゃんじゃ、その違いがそもそも判らない。 だからね、みーちゃん。 ハルちゃんは、アタシにこれを渡さなくちゃなんなかったんだよ」 魔導師でないミナミでなく。 魔導師でない部下たちではなく。 システムというその働きを知らないドレイクやアンでなく。 タマリ・タマリに渡さなければならなかった。 「なんせ、ファイラン階層には、攻撃系セカンダリ・システムがいないんだからさ」 しん、と探るような静寂が室内に降り、アリスが、戸惑う視線をタマリからアンへ移す。それに、ちょっと考えてから薄い笑みを返した少年は、はい! といきなり挙手し、タマリの笑いを誘った。 「えーと。頭悪い質問でごめんなさい、タマリさん…。 つまりそれって、ファイラン階層制御系システムのエスト小隊長でもなく、タマリさんに渡してそれがぼくらに提示されるってのに意味があるって事でもありますよね?」 小首を傾げるようにしてタマリを見上げる、水色の瞳。それに笑顔で頷いたタマリの表情は、なんだか満足そうだった。 「タマリさんがセカンダリ・システムだってのが、重要なんですか?」 「そーだよ」 「そーだよと言われても、俺にはさっぱりなんだがな」 お手上げだ、と肩を竦めたヒューの不機嫌そうな表情を目にしたミナミが、微かに笑う。 「ま、ここはもうみーちゃんに「必要ない」説明なんだろうからとっととタネ明かすけどさ、つまりね、システムが「なんらかの理由でダウンする可能性があると仮定された場合、プライマリ・システムにはセカンダリ・システムを指名する義務がある」のよ。まさかさー、現実面にはいっぱい魔導師生きてて、臨界に接触しよってんだから、ダウンさしたままほっとけないでしょ? でも、ハルちゃんはそれをしなかった。しないよと誰も聞いた訳じゃないけど、ハルちゃんは、しなかったんだよ」 しなかった。次点を設けなかった。それは、なぜなのか。そして、なぜ、タマリなのか。 「だから結局ハルちゃんはこの「サイン」を出さなくちゃなんなかった。 そもそも、閉鎖(スクラム)に伴って攻撃系魔導師は今臨界に接触出来ない状況だから、この臨界式ディスクを開示すんのはあたしら制御系の役目なんだけどさ、それと合わせて、ハルちゃんは暗に、このディスクを渡すべき次点が自分には「いない」ってのを、示してたんだよ」 タマリの小さな顔の前に突き出されたディスクが、漆黒の表面に小さな光の粒子を躍らせる。 「エスト小隊長に対するタマリみたいな人物がいないからって、何も、そのタマリに渡す必要はなかったんじゃない? もっと単純に、誰だって良かったでしょう?」 ディスクを受け渡すだけなら。 それを読むだけなら。 「よくねーんだってば、それ。だから、アタシなんだっつうの」 「……………………………」 不満げなアリスにガラ悪くタマリが言い返すなり、それまでじっと無言で周囲の状況を窺っていたミナミが、不意に手帳を開いた。 ―――記述方式――― 短く書き止められた文字列に視線を這わせたタマリが、にっと口の端を持ち上げる。 ―――システム専用――― 「そうそう」 ―――基底言語――― 「アタリ」 ぱちん! と指を鳴らしたタマリが、今度こそ本当に嬉しそうな顔で笑う。 「まー、ぶっちゃけた話、こんな回りくどい方法でなくさ、みーちゃんに渡してくれてたらすぐにこんなモンの答えなんか出てたと思うのよね。あえてハルちゃんがそれをしなかった理由は、アタシには判んねーけど」 わざと大仰に肩を竦めつつ、顔の前に翳したディスクをぐるぐる振り回す、タマリ。俄かに和んだ空気を感じて、ミナミは内心複雑な気持ちになった。
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