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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(27)

  

 謎解きというほどのものでもない。

もしかしたら、普通なら忘れてしまいそうな些細な事を憶えていればいい。

これからテーブルに並ぶだろう「ヒント」は物証であり、

証言は全て恋人が記憶している。

そして。

わたしがこうも無謀な計画を実行に移そうとしたのも、つまり、

恋人が、全てを記憶していると判っていたからだ。

そう、わたしは、恋人を信じた。

恋人の、凄まじいとさえ表現出来るだろう記憶力を信じた。

          

 

あなたが、このわたし、さえも記憶しているのだと。

        

        

 王下特務衛視団長官クラバイン・フェロウの携帯端末が密やかに鳴ったのは、夕暮れの赤光(しゃっこう)が天蓋から都市の隅々にまで降り注ぐ時間だった。

 逢魔が刻(どき)だ。と銀縁眼鏡の奥の目を眇めて人知れず重苦しい溜め息をひとつ吐き、それでも、ついに動き出したあの青年がその行動を曲げる事はないだろうと、諦めとも達観ともつかない静かな気持ちに落ち着いたのを見計らうかのように、その通達は彼の元へ届く。

 短い一文に目を通し、了承した旨を返して居残りの部下に伝えなければならない指示を手短に纏めながら、クラバインは表情を引き締めた。

 逢魔が刻(どき)。その呼称に過たず、彼らの前には今まさに「魔」が姿を現そうとしている。

 その「魔」は、他を明らかに威圧する判り易い「悪魔」ではない。見目麗しく弱々しくも強情で強固。脆いと思って舐めてかかれば手酷い仕返しが待っているだろう。壊れ物だと思って恭しく扱おうものなら、それもまた、手酷く裏切られるだろう。

 彼は彼。その「魔」は天使の姿をしている。

 緊急会議に出席するので電信は控えるようにと居残りのルードリッヒとジリアンに伝え、幾つかの仕事を言い付けて、クラバインは特務室を後にした。

 微かにラウンドする廊下を歩きながら、事前にミナミが提出して来た様々な書類と意見と、許可の申請ではない、付け入る隙もない行動指示書の内容を反芻し、クラバインはやれやれと肩を竦める。

 少し大人しいと思ったら、すぐこれだ。

 この件が片付いたら三日くらい休みを取って、家でのんびりしたい。ここのところ忙しくてロクに屋敷に戻る事も出来ないが、疲れたアリスやマーリィを暖かく出迎えていたらしい未来の伴侶は、果たして、職務を半ば放棄し自宅に戻ったクラバインをも笑顔で迎えてくれるのか、それとも逃げ帰って来るなとわざとのように咎めるのかと思って、ふと可笑しくなる。

 その、クラバインの伴侶になろうかという人を取り戻してくれたのは、誰だったのか。

 結局、クラバインは「彼」に逆らえない。どんな無茶も無謀も、渋い表情で飲まされるのがオチだ。

「…事前に通達して貰えただけでも、よしとしなければなりませんか…」

 笑いたいのか溜め息を吐きたいのか微妙な気持ちで会議室のドアを開ければ、既に集められていた、漆黒と深緑の制服に身を包む見慣れた顔がだらしない一歩手前くらいの状態で、それぞれ点在する椅子やソファに座っている。

 クラバインの見回す室内に控えているのは、王下特務衛視団電脳班から、アン・ルー・ダイ魔導師、デリラ・コルソン砲撃手、アリス・ナヴィ事務官。王都警備軍電脳魔導師隊から、大隊長グラン・ガン、第六小隊隊長ローエンス・エスト・ガン、第七小隊隊長スーシェ・ゴッヘル、同副長タマリ・タマリ。

 会議室中央に据え付けられた丸テーブルには、全方向投影式モニター駆動部が置かれ、資料を収めているのだろう特務室電脳班の紋章を刻んだデータ・ドラムと、キーボードが幾つか接続されている。それともう一つ、クラバインの見知らぬ箱型の装置が、冗談みたいに太いケーブルで駆動部と直結されているのに彼は内心首を捻ったが、それにも電脳班の紋章が刻印されていたので、何も質問はしなかった。

 ボタンもキーボードもパイロットランプさえない、鋼の箱。高さ約十センチ、一辺が四十センチ程のそれは、十数本束ねた直径が高さと同じくらいありそうなケーブルの群れで、通常器材と繋がれていた。

 それらを眺めながらクラバインが手近な椅子を引いて腰を下ろすと、入れ替わるようにしてアン少年が立ち上がる。

「今、ミナミさんを呼んで来ます。それで、タマリさん」

「んー?」

「ディスクの展開準備、お願いしたいんですが」

 相変わらずの柔らかい笑みで少年が言い、タマリが頷いて席を立つ。すぐ、アンはぺこりと会釈して退室。残った、動かない周囲を気にも留めず部屋を横切った黄緑色が、鉄色の箱にポケットから取り出したフルサイズロムをかたりと載せる。

 鉄色に。

 記号を載せて。

「さーて。何がどうなるのかにゃ?」

 ポケットに両手を突っ込んだタマリがにやりと笑い、室内の空気は緊張に張り詰めた。

       

        

 残る椅子は、アンのものを入れて、よっつ。

 円卓に置かれたキーボードのひとつはあらかじめアリスの前に置かれており、もうひとつが、開いた座席の中央に据えられている。

 だとしたら、そのキーボードの正面はミナミの場所だろうか。彼は今言葉を拒絶し、簡単な筆談でしか周囲に意思を伝えない。もし彼が今まで以上に多くの事をこれだけの人数相手に伝えようとするならば、モニターに表示させるのが一番手っ取り速い。

 誰も動かずに、声を出す事もなく、彼らは待つ。

 ただ待つ。

 彼の「天使」が進めと指差す先を見逃すまいと、彼らは、待つ。

 そして。

 唐突に開け放たれたドアから姿を見せたのは、浅黒い肌と曇天の双眸を煌くような白髪で飾った、ドレイク・ミラキだった。

 室内に向けて軽く会釈したドレイクは、安堵の表情を浮かべたアリスと苦笑して見せたデリラに小さく笑いかけ、黙って、キーボードの据えられている座席の左隣に着いた。濃紺のマントを羽織っていないのは、例え陛下列席の会議でさえもマントで議題が解決する訳ではない、という電脳班の主張からなのか。

 ドレイクが落ち着き、その後ろから現れたアン少年が元の位置、並んで開いたよっつの座席のうち、ドレイクとは反対の端に座る。

 それから、すぐに姿を見せたヒュー・スレイサーがアンの左隣りに腰を下ろし、最後に。

 入室し、一旦足を止めてその場に居る全員の顔をゆっくり見回したミナミ・アイリー。蒼白い白皙には長い睫が陰を落とし、幾分やつれて見えるものの、青年は、常よりも炯々と底光りするダークブルーの双眸で、全てを、観察する。

 つと空気が動いて、ミナミは音もなく移動し席を埋めた。

 これで準備は整ったのだろう、アリスがかきりとキーを操作すると、それまで沈黙していた器材に火が入り、円卓中央に帯状モニターが立ち上がる。

『質問は 全て 後回し』

 最初から仕度されていたのだろうメッセージがモニターに現れて、誰もが頷く。

『事情は 最後に あの人が 明かす』

 メッセージは、続く。

『そのために 今は やるべき事を やらなければ ならない』

 全く感情の含まれない、冷たい言葉は。

『あの人は 今』

 誰もが予想しなかった一言で、締め括られた。

         

『臨界に居る』

  

   
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