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17.フレイム

   
         
(12)現実(始動-2)

  

 それは、あの日から数えて九日目。

 あの日、ハルヴァイト・ガリューが忽然と姿を消した日。

 あの日、ミナミ・アイリーが話す事を放棄した日。

 あの日。

 薄暗い電脳魔導師隊執務棟地下演習室内を動き回る、漆黒を真紅で飾った衛視と深緑の長上着をはためかせた魔導師を少し離れた場所から眺めていた銀色…王下特務衛視団警護班班長、ヒュー・スレイサーは、ふと薄い唇を皮肉に歪めた。

 広い演習室の中央辺りで見慣れた黄緑色が揺れている。これから彼らがしようとする事を考えたなら驚くほど少ない機材の手前に、赤い髪が流れている。手持ち無沙汰なのだろう、朧な濃茶色が少し移動しては立ち止まっているらしいのが、焦点の定まらない視界を行ったり来たりしている。

 あの日。

 あの日をなんと称すればいいのか、彼は鋼色が戻ったら訊いてみたいと思った。

 あれは、「彼が終わった日」ではない。

 あれは、もしかしたら。

「…「彼ら」の終わりが始まった日か? それとも、「彼ら」の始まりを始める日か? どちらにしても…」

 天使と悪魔が「世界」を屈服させる愛を交わした日だなと思ってしまって、ヒューは呆れたように、吐き出すように笑い腕を組んだまま足元に視線を落とした。

 恐怖だ。

 恐ろしいとはこういう事か。

 畏れるとはこれなのか。

 ヒューは思う。「彼ら」と「彼ら」と天使と悪魔は全て別だ。誰をどれに分類するか、そんなものはどうでもいい。どうでもいいが、そうなるとやはりこれは前代未聞の恐怖だった。何せ自分たち、今この場所に居る人間は、そのどれにも振り分けられないのに最初から最後まで巻き込まれて走り回らされて、まだ何かコキ使われるのだろうから。

 最悪だな。

 俯いた銀色が声に出さずに呟いて、再度口の端を歪めた途端、演習室のドアが大きく開け放たれ、黒に白を冠した大柄な人影と、華奢な人影がするりと滑り込んで来る。

 それを滲んだ視界で確かめてから、どちらにしても、とヒューは短い息を吐き、壁に預けていた背を引き剥がした。

 懐から携帯端末を取り出し、特務室に詰めているジリアンを呼び出す。

『はい、こちら特務室』

「ミナミが今演習室に到着した。全隊配備状況は?」

『ファイラン全土特級警戒態勢に移行済みです。臨界式記号構築班には、陛下より未確認プログラムの実行許可が下されました』

「了解。あらゆる有事を想定し命令系統の確認と即時実行を怠るな。

 こっちも、もう、始まる」

『了解』

 ミナミの傍らに寄り添ったドレイクから演習室の退去命令が出ても、残った、グラン、ローエンス、アン、アリス、デリラと、ジリアンとの通信を切断し軽く手を挙げて了承の意を示したヒューは、その場から動こうとしなかった。

 彼らは、見届けるのだ、全てを。

 あの瞬間を続けるために。

 彼らは。

 直径五メートルを越える巨大な真円に囲まれたタマリと、そのタマリを見つめるミナミの傍から、誰も離れようとはしなかった。

        

       

 それ、は完全な真円だとタマリは言った。丸一日かけて構築された不可解なプログラム。四人の魔導師が描いた青緑色の炎を整列させ、再構築、更に圧縮するための命令を組み上げ稼動待機させた状態でゆっくり、慎重に描いた黄緑色の華奢な男を閉じ込めたそれは、非の打ち所なく美しかった。

 最早それは誰もが目にする臨界式プログラムではない。幾何学模様とシンメトリー。水色に発光する文様は太古の「魔法陣」を思わせる複雑怪奇な図版となって、最後の「要素」を待っている。

 タマリは言う。

 確かにそれを地面に描いたのは自分かもしれないが、正しく構築したのはミナミだと。これは、ミナミの記憶。完全な真円の記録。恐怖だよ、とペパーミントグリーンの目を眇めて、彼もまた呟いた。

 壮絶な記憶力。

 だからこそ、この計画は実行されたのだ。

 強行されたのだ。

      

      

 あの、最凶最悪の、悪魔によって。

       

      

 水色の斑紋の中央に佇んで俯いていたタマリが、顔を上げる。大きな目の中に映り混んだ陣影がゆらりと揺れ、円を形作る七十三の列がしめやかに回転を開始。まるで巨大な機械装置を動かす歯車のように足元の光が動き出したのを確認してから、色褪せて行く緑は正面に立つミナミに力強く頷いて見せた。

「基底言語を図版処理し組み込み。開始から終了まで、三十六秒」

 タマリが告げて、瞬間、彼を囲む巨大電脳陣の一番外側、二本のラインに挟まれた余白に、ぽ、と…水色の炎が燃えた。

 睨み合うタマリとミナミを隔てたそれが呼び水となって、まるで、慎重に一本一本灯される蝋燭の炎のような水色が、次々に燃える。一つ、二つ、三つ、四つ…。厳しく書き込み速度まで制限されたそれがタマリの正面から左に向かって進行し、宣言通りの三十六秒後、最初のひとつに最後のひとつが到達した。

 それは、焔。

 全てを炙る。

 それは、焔。

 水色の始祖の炎が。

          

          

 真円を描き。刹那。青緑色に、激しく燃え上がった。

       

       

「!!!!」

 音も衝撃もなく大気を震わせた炎に、誰もが一瞬息を詰まらせる。叩き付けて来たのは、光の発する勢いか。戸惑う間もなく飛び散るような勢いで回転し始めた、タマリを囲む陣影。

「! 再構築、圧縮終了まで、…三、二、一っ!」

 陣の内部で吹き荒れる、光の粒子。それに翻弄されつつもカウントしたタマリの声が切れて、同時、乱舞する水色が垂直に吹っ飛んだ。

 そして残る、いっこの炎。

「こ…構築時にデータの劣化なし…、照合を終了…。臨界駐屯の基底言語翻訳プログラムを稼動。接続。未確認プログラム収納ディスク、立ち上げ」

 消えた陣に戸惑いながらも、タマリはナビゲーションし続けた。

 そして、あの、たった一文字だけ記す事を許されたダイアログポックスが、ペパーミントグリーンの正面、ダークブルーの正面に忽然と現れる。

 タマリは、恐怖と緊張に濡れた掌をしっかり握り込み、息を吸い込んだ。

 何度見ても意味の判らない、ちんぷんかんぷんなのに消去出来ないままだった「基底言語翻訳プログラム」に、頭上で燃える炎を書き込む。知らず、吸った息を吐き出せないままごくりと喉を鳴らし、固唾を呑んで見守る周囲に頷いて見せてから、タマリは少女のような唇で、しっかりと宣言した。

「エンター」

 中空に燃えていた炎が、消える。

 消えて、それは。

 中空にぼうと浮かんだ灰色の一部に、燃える。

 燃えて、それは。

       

 瞬間。

     

 ふ、と消失し。

     

 瞬間。

      

 演習室の天井で、眼底を突き刺すような純白の光が、爆裂した。

  

   
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