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17.フレイム

   
         
(29)フレイム

  

 それは、ずっとずっと心に引っ掛かっていたのにはっきりと思い出せないままだった「何か」が、不意にすとんと腑に落ち、正体の知れない落ち着きのなさが急に解決して、つい口元を緩めてしまう感覚と似ていた。

 暗闇にダークブルーを炯々と光らせた青年には、覚えのないものだろうが。

 彼は、最強最悪の天使。

 彼は、観察者。

 彼には、「思い出」などという美しい記憶は、ない。

 なぜなら彼は忘れないのだから。

 見たもの、聞いたもの、触れたもの。

 彼は、全てを記憶する。

 それは完全なる記録。完璧な記憶。

 彼は。

 ミナミ・アイリー。

 臨界に、愛されている。

          

          

 隔壁内部を映し出していたモニターいっぱいに、またあの水色の蝶が舞い飛ぶ。

 蝶たちはきらきらとちかちかと羽ばたきながら、沈黙したように見える人工子宮の周囲を取り囲んで旋回していた。今度は激しいエネルギーの流出もないからか、その動作は普段と同じに優雅で美しかった。

 エネルギー漏洩率が急激に低下。きらきら、ちかちか、くるくると舞い踊る水色が所々で激しく燃え上がり文字列に変換されて行くのを、誰もが固唾を飲んで見守っている。

 一旦は内部の様子を窺うように動きを鈍くした「ヴリトラ」「スペクター」「サラマンダー」が、またも忙しく鋼板を削り始めた。もう誰も音声による確認などしていなかったが、狭い空間のあちこちに投影されたモニターの文字列や回転する陣影を見ていたミナミには、判っていた。

 人工子宮へのエネルギー供給が不安定に下限を割り込む不都合は、導入上限を下げ余剰エネルギーをプールして、必要な時に流入させるという方法で安定している。それでも内部の処理が追いつかなくて漏洩していたエネルギーは、「アゲハ」が吸収し臨界経由でヘイゼンに送られ、機関部に還元されているようだった。

 そして、ミナミに背を向け無言で佇んでいるドレイクの正面に出現し、しかし、今までなんの反応も見せていなかった小さなモニターに、ノイズのような残光が一筋走る。

 水平に。

「…ミナミ」

 それに視線を当てるでもなく、しかしずっと目端に捉えていたのだろうドレイクは小さく呟いてから、微かに顔を動かし斜め後方のミナミを振り返った。

「人工子宮内部に、極弱い臨界反応を確認した」

 それは、短い報告だっただろう。

 それ以上の言葉もない。

 しかしミナミには判っていた。ドレイクの背が、「次はどうする?」と無言で問うている事を。

 青年は、最初から最後まで徹底した観察者だった。見守る者。見つめるだけの者。否。そうでなければならなった者、かもしれないが。

 重ねて、しかし。

 本当に青年がただ何もせず見つめているだけの者だったかと言えば、そうではない。

 彼こそが、この世で唯一「解答」を導き出すための、全てを「記憶する者」だった。

 ドレイクからの続く問い掛けもないまま、ミナミは長上着の懐から携帯端末を取り出し、ゆっくりとそれを広げた。あとどれくらいで二千二百ミリの鋼板が口を開けるのか正確には判らなかったが、その内で何かが「始まった」というのならば、時置かず、全ては白日の元に晒されるだろう。

 グロスタン・メドホラ・エラ・ティングという亡霊の正体も。

 ハルヴァイト・ガリューという悪魔の思惑も。

 もしかしたら、臨界の「真理」も。

 ミナミ・アイリーという青年の……。

 ミナミは、携帯端末の小さなキーボードを操作して何かを打ち込み、それを傍らのローエンスに見せた。どんなメッセージが書き込まれていたのか、彼が普段のような掴み所ない笑みの薄い表情で頷くとすぐ、誰もが息を飲んで見つめている、人工子宮を映し出していたモニターに文字列が浮かぶ。

『表面に 記号 刻印』

 その、短いメッセージを受けて、ドレイクは無言のまま頷いた。

 ポケットから無造作に引っ張り出した紙面に目を落とせば、そこには、相変わらず意味の判らない青緑色の炎がみっつ。無(む)、有(ある)、空(うつろ)で「ゲートウェイ」だとミナミは言ったが、どれがどれを指す文字なのかさえ、ドレイクには判らない。

 広げた紙を目の高さに翳して、壁面を掘削する「ヴリトラ」の背中を透かして見ながら、ドレイクはなんだか可笑しくなってちょっとだけ笑った。そう、どんなにがんばっても自分にはあの弟を理解する事など出来ないのだと思う。多分この先一生自分たちの間には「判らない」という単語が横たわり、それは絶対に乗り越えられないのだろうとも。

 しかし。

 数年前のように落胆したりはしない。それでいい。ドレイクとハルヴァイトは確かに兄弟かもしれないが、結局、人間としてはまったく別なのだから、全てを全て理解…というよりももっと単純に、判り合う、というニュアンスだが…する必要はない。

 判らないのならば、判らないと言えばいい。

 判りたいのなら、判りたいのだと言えばいい。

 もうハルヴァイトは、世界から隔絶されたデータの海の只中で溺れる事も出来ずにぽつんと取り残されている訳ではないのだから、その意志は伝わるだろう。

 天使を介し。

「……参ったね…、完敗だ」

 ドレイクの、苦笑に似た形に歪んだ唇から吐息のような呟きが漏れる。それに気付いたのか、それとも偶然だったのか、束の間食い入るようにモニターを見つめていたミナミのダークブルーが水平に動き、佇むドレイクの背中を捉えた。

 ドレイクはその時、微かに顎を上げていた。背筋を伸ばし、天井を見上げるような恰好で。

 それを見て、ミナミはなんとなく思った。

 やはり、ドレイクとハルヴァイトは良く似ている。背丈はドレイクの方がやや小さいが、後ろ姿の全景というか、デザインというかがそっくりだ。

……………。

 何かが、ミナミの胸の奥でざわめく。何か。とても単純な何か。余りにも明白過ぎて、はっきりし過ぎていて、自然過ぎて、それが「何」であるのか判らない、何か。

 何か…。

「アイリー」

 無表情にドレイクの背を睨むミナミの横顔をいっとき見ていた国王が、吐息のように静かに、青年の名を呼ぶ。

 輝くような白皙に色取り取りの光を受けたウォルは、ミナミがお茶を頂きに私室を訪ねた時のように柔らかく、綺麗に微笑みながら、青年に向けてほっそりとした手を伸ばした。

「僕が、誰だか判る?」

 魔導機たちが鋼板を抉る耳障りな音を割った、奇妙な質問。佇むミナミとウォルの背後を守っていたヒューのサファイヤが、笑みの形に細められる。

 ミナミは、すぐに頷いた。判る。と。

「それなら、僕の手を…握っていてくれないか。その瞬間まで」

 ウォルは言いながらミナミの無表情に当てていた視線を動かして、魔導機たちの取り付いた鋼板を見つめた。

「…ガリューが戻るまで、僕が、お前の手を握っていてやろう」

 握り締めてくれるなら、握り返してやろう。

 ミナミは、差し出されたままだったウォルの白い手に、迷わず自分の掌を重ねた。

 白手袋越し。ウォルの細い指がしっかりとミナミの手を握り、ミナミの長い指がウォルの手を握り、ふたりが同時に、短い安堵の吐息を漏らす。どちらも酷く緊張しているようでなんだか…こんな場面だというのに…可笑しくて、ウォルはミナミの蒼い目を覗き込み、ミナミはウォルの黒瞳(こくとう)を見つめ、それぞれが、ふわりと微笑む。

「構うな、アイリー。僕はほんのいっときの代理で、だからお前は、本当に…その手で握り締めたいものが現われたのなら、構わず振り払って行ってしまえ。

 僕は、そのために、ルニに全てを任せて来たんだからね」

 言われて、ミナミは薄く微笑んだまま、うん、と子供のように頷いた。

 手を繋ぎ合ったミナミとウォルを目端に、ドレイクが苦笑に似た表情で小さく肩を竦める。なぜ、今、ここにハルヴァイトがいないのだろうと彼は思った。いいや。それは曇天を湛える双眸を眇めた彼だけの感想ではなく、この場に居合わせた全ての人間が抱いたものだっただろう。

 白手袋越しにさえ誰にも触れられず、差し伸べられた手の意味を知っても尚それを怯えたように見つめるだけだった青年の変わりように、気持ちが浮き立つ。

 際限なく乱暴に、全てを追い詰めるだけ追い詰める悪魔を恨む気持ちが沸いて来ないのが、少し癪に障ったけれど。

 天使の微笑みと。

 繋がれた手と。

 思い知った真円。

「…恐怖だな」

 ウォルとミナミの背中を眺めながらヒューが呆れて呟いた、瞬間、一際大きく腕を振り上げた「サラマンダー」の細長い巨体が、ずるりと…開口部の向こうに突き抜けた。

          

          

 ちら、と水色の蝶が舞う。

 捜し求めた出口をようやく見つけ、仄明るい陣影に吸い寄せられるようにそれは、ぎざぎざの縁に取り付いて開口部に首を突っ込んでいる「サラマンダー」と「スペクター」、「ヴリトラ」の隙間から次々に散って来る。一羽、二羽、三羽…。抉り出される鉄片に混じっていた水色が徐々に、徐々に、徐々に増え、突如、孔の内側でひしめいている三機の全身に叩き付けるような勢いで噴き出して来たではないか。

「タマリさん!?」

 一瞬訝しそうに眉を寄せてからはっと顔を上げたタマリに何が起こったのかと、正面に立つイルシュが叫んだ刹那、琥珀の瞳に映っていた赤銅色の陣が放射状に吹っ飛び、ほぼ同時に、傍らに在ったブルースの描く若草色の陣も崩壊した。

「うわっ!!」

 二人が驚きに声を上げ、固く目を閉じて顔の前に腕を翳しその場に座り込むなり、それまでじっと成り行きを見ていたのだろうデリラとアリスが素早く動いて、それぞれ少年たちを抱きかかえるようにして立たせた。

「平気かね、ボクちゃん」

「あ、…うん…」

 殆ど担ぎ上げるような恰好でイルシュを確保したデリラが早口で言いながらヒューの後ろまで移動する。ブルースに肩を貸したアリスはそれを追いつつも、しきりに開口部を振り返っていた。

「大丈夫? ブルースくん」

「すいません、大丈夫です…。ちょっと、驚いただけですから」

 ヒューの背後、床の上に置かれたイルシュの傍に膝を突いたブルースの背に手で触れたアリスが、少しだけ眉を寄せて身を屈め、少年たちの顔を心配そうに覗き込む。それに、やや硬い笑顔で答えたブルースの発言を聞いて、デリラが首を捻った。

「陣は吹っ飛んじまったろうに、それで、ちょっとびっくりしただけつうのは、どういうことかね」

 陣が強制的に切断されたのだとしたら、少年たちにも何らかのダメージがあるはずだとデリラは思った。もし、それでもここでまだ無茶をするようなら、腕ずくでも彼らを休ませなくてはならない。

「正規のルートで接触を切断されたんですよ。でも、それが僕らの意思ではなかったので、ちょっと驚いただけです」

 なんとなく苦笑を含んだ声でブルースが言った途端、今度は、壁に背中を預けて立っていたタマリが、「にゃぁっ!」と妙な声を上げて頭を抱えつんのめり、ぺちょんとその場に突っ伏したではないか。

「タマリ!」

 ブルースとイルシュに気を取られていたデリラとアリス、それに、振り返っていたミナミとウォル、ヒューがはっと正面に向き直った時には既に、短い悲鳴と同時に飛び出していたギイルがぐったりしたタマリを担いでいる。険しい表情のまま小柄な黄緑色を連れてイルシュたちの傍まで戻り、極力静かに床に下ろされるとすぐ、タマリは疲労の色濃い顔を上げ、しかし、にこりと周囲に笑ってみせた。

「へーきへーき。アタシもちょっとびっくりしちゃっただけだからさ」

 さすがのタマリでも昨日からの無理が祟ったのか、顔色が悪い。

「人工子宮は現在、外部からの補助なく正常にエネルギーの供給を受けている。果たしてこれはどういう事ですかな、アイリー次長」

 休まずに内部計測を続けていたローエンスが微かに顔を俯けてミナミに問えば、青年は少し考えて、それから、携帯端末を撫でるように何かを打ち込んだ。

『意志が 繋がっている

 もうすぐ、終わる』

 始まる、とミナミは言わなかった。

 終わると、青年は言った。

 全ては、悪魔の、意のままに。

 彼らと彼を隔てるのは既に、二千二百ミリの鋼板ではなく、平凡なドアのようなもの。声を上げ名を呼べば、答えようとする時安易に答える事の出来る位置。だからあの悪魔は。

 ようやく、重い腰を上げたのだ。

 今はまだ直径一メートルにも満たない開口部を広げようと、鋼板に取り付いた魔導機たちは一心不乱に手足を動かしている。分厚い鉄の隔壁が砕けた焼き菓子のようにばらばらと掻き出されて来るのを、ドレイクは黙って見ていた。

「そろそろ腐蝕ガスの浸透した部分が終わんだけど、どーするよ、ミラキ副長殿」

 鋼板の状態を監視していたのだろうベッカーが、こちらも床に座り込んだきりのイムデ少年とアンの背を支えたまま、のんびりと言う。

「どうもこうもねぇだろ、終わったら、そこまでだ」

 這ってでも内側に入れればいい。

 それだけでいい。

 徐々に見え始めた銀色の外殻を睨み、ドレイクは一歩踏み出した。

 空間に放たれていた、甲高いがどこか篭った音の質が不意に変わる。ガキン! と酷く硬質なそれを、耳と、繋がった「サラマンダー」の指先で感じたジュメールは、ふっと短い息を吐いて赤い龍を開口部から後退させた。

「上はこれでいっぱい」

 予想よりも腐蝕ガスの浸透率が悪かったなと思いつつも、青年はそれを口に出さなかった。ただ、引き返して来て寄り添った「サラマンダー」に顔を向け、薄い唇に淡い笑みを載せる。

 すぐ、ぼうと床に描かれた臨界接触陣に炙られる、赤い龍。胴体の真ん中を、急遽取り付けられた腕を陣に埋め、それから、擡げられる頭部。曇りのない黒い双眸を名残惜しそうにジュメールに向け、一瞬だけミナミに流して、龍は水面に没するように鼻先から陣の内へと潜って行った。

 文字列の揺れる細い尾の先端が床に描かれた陣に消える、間際、それが茶目っ気たっぷりに、手を振るように、ひらひらと優雅に揺れる。

「…こっちもこれでお終いだ」

 溜め息のような声でスーシェが呟くと、それまで開口部の左脇に取り付いていた白い靄がひらりと身を翻し、外部へと飛び出して来る。

 それに思わず、また飛び掛られるのではとデリラが身構えたようだったが、今度はさすがの「スペクター」も周囲の空気を読んでいたのか、中空に浮かんだ乳白色の陣に火の輪を潜る猛獣のような残影を描きながら自ら飛び込んで行った。

 ジュメールの陣が消え、スーシェの陣が消え、最後に残ったのはグラン。ファイラン浮遊都市最強と呼ばれ、電脳魔導師隊大隊長の栄を受けた壮年は、「では」と神妙な顔付きで言い放ち頷く。

「こちらも退場する頃合だな、「ヴリトラ」」

 文字列の鬣をなびかせた獅子が、雄々しく吼えるように口を開けて天井を睨む。最後の一撃。淡い光を纏った三日月形の爪を大きく振り上げ全身を使って床に叩き付けると、激しい破壊音と共に硬い鋼板の一部がざっくり抉れて、大きな塊が佇むグランを…直撃した。

 否。そのはずだった。

 身体で受ければ骨の一本や二本折れて当然のような巨大な鉄塊が、一瞬の間もなく塵になって吹っ飛ぶ。グランも、「ヴリトラ」も判っている。威厳ある姿勢で立つ壮年の周囲を囲んだ山吹色の立体陣は、たかが鉄の塊ごときで破れるものではないという事を。

 遠巻きに眺める一般兵士からは息を飲む気配があったが、ミナミたちは少し呆れたように笑っただけだった。

 下半身を薄く輝く陣の中に突っ込んだままだった「ヴリトラ」が、そのままずるずると引き込まれるように臨界へ戻り、刹那の静寂。暗い開口部の奥に見える人工子宮の表面に、全ての目が向けられている。

 無残に抉られた傷口を晒す、分厚い鋼鉄の壁。

 目を凝らさなければ見えないはずの暗がりに押し込められた、銀色のドームの輪郭がぼんやりと見て取れるのはなぜなのか。しかし、誰もそんな愚問を繰り出すような真似はしなかった。

 在り得ない事など、今、この世には何もない。

 在り得ない事など、今、あの世にも何もない。

 暴走した機関部から排出された莫大なエネルギーは駆動部を「すり抜けて」、臨界を孕んだ人工子宮の供給上限を超えて尚供給され続けている。

 エネルギー発生機関は焼き切れるほど稼動しているのに駆動部は沈黙し、しかし都市は今だ墜落する気配もない。

 つい数時間前まで子供の顔をしていた王女は今、正装に身を包み胸を張って都市を守っている。

 そして王は。

 触れてはならぬ禁忌の天使と手を携えて、その時を待っている。

「……、臨界の悪魔のお帰り…か」

 分厚い鋼板にぽっかりと開いた口の正面に立って腕を組んだドレイクが、先のタマリの言葉を思い出し、呟いて、小さく笑った。

「それでも、ありゃ、俺の弟だろ」

 だったら、自分にも悪魔の素質があるのだろうかと、煌くような白髪に灰色を纏った赤い文字列の照り返しを受けながらうんざりと思う。

「ま、なんでもいいんだけどよ」

 眼前に立ち上がっていたモニターを、滑るように流れて行く文字列。平凡なプログラム。ただ、任意の平面に描かれていた図版を脳内で正確にコピーし、それを任意の場所に焼き付けるだけの、ドレイクでない誰でも出来るだろうその作業を、ミナミはなぜ、彼に任せたのか。

 誰もがそう思ったのか。

 それとも、誰も何も思わなかったのか。

 ミナミだけが。

 無言でドレイクの背中を睨んでいた。

           

         

 ドレイクの前に表示されたモニターの、最終行で点滅する「OK?」の文字。瞬間でプログラムエラーチェックを済ませたドレイクがそれにエンターを書き込んだ瞬間。

「!?」

 佇むドレイクの足元に突如燃え上がった青緑色の炎。轟と燃え、フ、と消えて目に焼き付いた光の残影が瞬く間に複雑な配列を組み、呆然と立ち尽くす男の身を囲う。

 そこでようやくドレイクにも、なぜこれが自分の役目だったのか理解した。そう、驚きに一瞬硬直した彼の周囲を取り囲んだ立体陣の記述方式は、全てがあの高圧縮信号、ドレイクとハルヴァイトだけが知る暗号だったのだ。

 強制的に頭に叩き込まれて来る無数の構築式に、ドレイクは眉間に皺を寄せて唸った。たったの三文字を人工子宮の表面に刻印するだけだと思っていたが、どうやらあの弟は、最後の最後で自分をこき使うつもりらしいと、呆れた苦笑も漏れる。

 多分こりゃ、終わったらぶっ倒れるな。とドレイクは冷静に思った。いや、是非倒れてみせて、自分は平凡な魔導師なのだと証明したい。

 気付かぬうちに足元に描かれていた真円。青緑色の光。圧縮信号の帯がプログラムのラインから産まれて螺旋に上空へ駆け上がって行く。幾重にも折り重なったそれが何を実行しようとしているのか、ウォルは問うような視線をミナミの横顔に向けたが、青年も今回ばかりは何も判らないらしく、ドレイクから目を離さずに小さく首を横に振っただけだった。

 青緑色の小さな文字列が上空を舞う。煙のように。靄のように。掻き消える寸前ちかちかと輝き、後には何も残さない。

 激しく舞い散る文字列の残滓が密度を増し、ドレイクの頭上の輝きが消える間もなくなるまで、十秒弱。その「決定的なノロさ」に本気で苦笑を漏らしたドレイクは、やはり「アレ」はハルヴァイトのものなのだと再認識しつつ、荒れ狂うプログラムに「エンター」を書き込んだ。

            

 瞬間、身体に叩き付けるような激しい空気振動。

 何もない中空に燃え上がった、青緑色の業火。

 誰もが目を細めて顔の前に腕を翳し、見上げたそこには。

          

     

 忽然と、焔に炙られて揺らぐ、髑髏の悪魔が現われていた。

  

   
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