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17.フレイム

   
         
(30)フレイム-2

  

 青緑色の焔の内で揺らぐ陰は、まさしく悪魔だった。

 朧に霞む、全高三メートル、先端の巻き上がった角と皮膜と棘のある長い尾を持った、骨格標本のような不気味な姿。異様に長い手足。

 しかし、ぽっかりと中空に浮いた悪魔「ディアボロ」の陰影は、出現したのと同じくらい唐突にその姿を捩れさせ、焔に熔けて消えてしまった。

 それに驚く間もなく、荒れた掘削面を晒した開口部の内側で火花が散る。まさか、今まで落ち着いていたエネルギーがまたも漏れ出したのではと、一瞬の忘失から立ち直ったグランたちがウォルとミナミに避難を促そうと口を開いた瞬間、ミナミが蒼い目を見開いて、はっと頭上を振り仰いだ。

 息を飲む。

 あ、と思った。

 青年は、判った。

 素肌の表面でざわめいていた落ち着きのなさが不意に消失。脳が激しく高回転していたような錯覚と、頭上から自分を冷静に見ているような感覚がぱちりと噛み合い、気持ちが身体に戻って来た感じ。

 ミナミは無意識に、ウォルと重ねた手に力を込めた。

 最早息つく暇さえ与えるつもりもないのか、「ディアボロ」が現われて消え、目を白黒させる周囲などお構いなしであちらこちらに次々と立ち上がる、無数のモニター。大きいもの、小さいもの、猛烈な勢いでなんらかのプログラムを表示するもの、短いメッセージだけを瞬かせすぐに消えてしまうもの。

 全てが、暗く青緑に燃える。

「ディアボロ」が臨界に帰還した旨の通信を受けて、ドレイクはようやく肩を落として息を吐いた。

 しかし、まだ青緑の命令たちは忙しく稼動しようとしている。その、実際はハルヴァイトが書いているのだろうプログラムは、圧縮信号で繋いだドレイクの領域を経由してこの世に顕現しているのだ。

 出口を描けとミナミはドレイクに言った。

 まさかその出口が、人の通るものではなくデータの通り道だとは、誰も思っていなかっただろうが…。

 様々なプログラムが立ち上がっては終了する。

 何を目で追っていいのか、どこを見ていいのか戸惑うように周囲を見回していたアン少年が、「あ…」と短い声を上げつつ凝視した先は。

 暗い開口部。

 銀色のドーム。

 そのドームの表面いっぱいに、青緑色の幾何学模様が、ボウと燃えていた。

 気付いてしまえば目を離す事は出来ない。そのうち、螺旋に巻かれたままのドレイクさえ息を詰めてそれを見つめていた。

 衣擦れさえも厭う、張り詰めた空気が場を食い潰す。誰かが固唾を飲む気配さえ、剥き出しの肌で感じる。頬が引き攣り、嫌な汗が額に浮いた。

 声を、上げたかった。誰かの意志ではない。今この場に言わせた誰もがそう思っている。耐え難い緊張を振り切るために喉が張り裂けるような悲鳴を上げて静寂を踏み躙り、荒く息を吐いて蹲ってしまいたい。

 ゆっくりと浮かび上がる様がまるで、見えざる手の携えた筆で描かれているような錯覚を起こす、銀色を舐める青緑。心臓をじわじわと掴み上げられているかのごとき不安。

 耳鳴りも聞こえない。

 自分の鼓動も聞こえない。

 正真正銘の静寂。

 ミナミは…。

          

 ウォルの手を、振り払った。

           

 それが同時だったのか、どちらが早かったのか。

 軽く腕を払われて驚いたウォルがミナミに顔を向けた瞬間、直径ニメートルに満たない開口部の最奥で眩い光が爆裂する。咄嗟に目を閉じ、顔を腕で庇った陛下が再度瞼を上げた時にはもう、ミナミの華奢な背中は開口部に飛び込んでいた。

 身を屈め、鋼板を踏み越え隔壁内部に転がり込んだミナミを追って、すぐにヒューも中へと入る。しかしそこには銀色に鈍く光る人工子宮が鎮座しているだけで、何も変わった所はなかった。

 ただ、三メートルほど離れた場所にドームの外周が見えるだけ。

 黒い暗闇を鈍色(にびいろ)に映す、滑らかな銀の殻。継ぎ目のないドームの頂点から伸び天井に吸い込まれている無数のコード群は、さしずめ機械仕掛けのへその緒か。

 その母は。

 三十二年もの間、復讐なのかただの退屈凌ぎなのか、はたまた別の思惑あってなのか…、現在(いま)のこの世に何か…凡人では想像もつかない事象を仕掛けようする、怨嗟の念を抱いた嬰児(みどりご)を身篭っている。

 ミナミは、弾んだ息を整えるように深呼吸しつつ、瞬きもやめてじっと銀色のドームを睨んでいた。その瞬間さえ何を考えているのか判らない無表情。しかし青年は。

           

 わたしは、いっときも休まずこの世に存在していたのです。

 わたしは、あなたのいないこの世を正しく見つめていたのです。

 あなたが消えて。

 またあなたがわたしの元に戻るまで。

 わたしは。

          

 あなたを想わなかった瞬間など、ないのです。

       

 あの鋼色を想う。

 無意識なのだろう、両脇に垂らしていた腕の先端、つい今しがたまでウォルと繋いでいた手を固く握り締めたミナミの肩が、ぎくりと震える。人工子宮ではなく青年の背中だけを見ていた銀色は、それに促されるようにして、ゆっくりと、正面に聳える銀色のドームに視線を戻した。

 瞬間、なのか、それとももっと前からそこにあったのか。

 丁度ミナミとヒューの見つめる正面に、ぽ、と、青緑色の炎がみっつ、陽炎のように燃え上がった。

 燃えて、今度は消える事なく大きく成長しながらゆらぐ、フレイム。暗い空間に煌く青緑色の光が、ミナミのダークブルーに映る。

 それは瞬く間に大きく燃え盛り、混じり合いつつ人工子宮の表面を舐めた。もしかして、あの火がこのドームを溶かしてしまうのだろうかとヒューは思ったが、光だけで温度らしいものを感じないのに、あれはどうせ「まともな炎」ではないのだとすぐに考えを改める。

 だから、炎の残影。どこかで燃え盛るフレイム。

 それが音も熱もなく、しかし囂々と揺れ揺らぎ踊り狂う。

        

 ああ、終わる。と、その時、誰もが思った。

        

 ミナミが、しっかりした足取りで一歩、炎に近付く。青緑の陽炎はいっときも休む事なくその濃度、形状を変え続け、折り重なった炎に無秩序な陰影を浮かび上がらせていた。

 ゆらりゆらり。

 炎の狭間に立ち上がる細長い影。

 それが…ぐらりと傾いで。

 ミナミは。

 迷わず炎の内側に両腕を突っ込むなり、その「何か」を勢いよく引っ張り出した。

「ギイル!」

 咄嗟に後方で待機していたギイルを呼んだヒューは、それと同時に、引っ張り出されてミナミの背後に転がった白っぽい人影をうつ伏せに組み伏せた。艶のない枯れた白髪を冗談のように長く伸ばした、やけに色の白い、痩せた男。それが誰なのか当然ヒューは知らなかったが、ハルヴァイトでない事は確かだ。

 だから、その頭が炎から吐き出されて来るなり銀色は、ミナミに腕を引っ張られて前のめりに床に転がった男の腕を背中で捻り上げ、肘と膝で押さえ込んだのだ。

 慌てて開口部を通って来たギイルと数名の警備兵に男を引き渡したヒューが長上着の裾を払って立ち上がるなり、またもや炎の内側から「何か」…もう、誰かと言ってしまって差し支えないのだろうが…を引っ張り出す、ミナミ。情けない悲鳴と共に転がり出て来たソレが馴染みの顔だったのに、ヒューは軽く片眉だけを吊り上げ、口の端を妙な形に歪めた。

 忘れもしない、上品そうに撫で付けられた淡い色の頭髪に、毒々しい新緑色の瞳。

 自分に何が起こったのか、起こっているのか判らないのだろうソレ…アドオル・ウインが転ぶように突っ込んで来たのをひょいと躱したヒューは、ついでとばかりにその肩を軽く突き倒した。

 ぎゃ、と叫んで顔から床に潰れた男を踵で蹴って背後に押し遣ったヒューが。

 床に倒れたウインを拘束するよう、着いて来た部下に指示したギイルが。

 邪魔な警備兵を押し退けて内側へ転がり込んで来たウォルが。

 内部の様子をローエンスの描いたモニターで見つめる、その場に居合わせた全ての人間が。

 ミナミが。

 固唾を飲んで見つめる中、青緑の炎にぼうと浮かび上がった人影の伸ばした…腕は。

        

 文字列の描く「ディアボロ」のような、骨格だけだった。

        

 当惑と、息を飲む気配。

 ミナミが、空中に留まる文字列の骨格に、恐る恐る伸ばした白手袋の指先で触れようとする。

 炎。

 炙られて、真実か事実しか残れない、青緑の炎。

 揺らぐそれの内にある人影を見上げるように、ミナミの顎が上がる。その高さを覚えている。青年は忘れない。忘れたいと思った事もない。望むと望まざると、産み出されてから現在までの全てを記憶し、その鮮明な記録に苛まれて来たにも関わらず、最強最悪の天使は、あの悪魔を忘れたいと望んだ事など一度もない。

 だから今も。

 ハルヴァイトが消えてから今日までミナミはいっときもあの面影を、姿を、忘れた事などなく、だからこそ悪魔は絶対時間の存在しないあの世にあっても尚、この世の時間経過を正しく計る事が出来た。

 彼…都市ファイランの悪魔と呼ばれた最凶は、今正に、この世に再来するだろう。

 奇跡などではなく。

 全てが始まった瞬間から決定されていた、結末として。

 ミナミの指先が文字列に接触し、瞬間、人工子宮を包んでいた青緑色の炎が一際激しく燃え上がり、隔壁内部の狭い空間全てを業火の残影が埋めた。

 内部に身を置いたウォルも、その様子を外からモニターで見ていた人間たちも、ウィンを連行しようと開口部に向き直りかけたギイルも、刹那で視界を覆った炎に驚いて、反射的に固く目を閉じた。だからその時、微かに目を細めただけでそれを遣り過ごそうとしたヒューだけが見たのは。

 ミナミの触れた部分から超高速で構築され、色と厚みと質感を取り戻す腕は、見覚えのある漆黒。一度は激しく燃えた炎が、再構築されようとする人型の文字列に吸い込まれて行く様を、サファイヤの瞳は見ている。

 見ていた。ヒューにはそれが、最後の役割のように思えた。

 この騒動の。

 消えた悪魔の顛末。

 ミナミは軽く顎を上げ、両腕を広げて炎の直前に立っている。最初に触れた腕が構築されて以降、動いたのは青年ではなかった。

 黒い、腕が伸ばされる。白手袋に包まれた長い指が迷いなくミナミの指に絡み、掌を合わせる。艶消しした長靴の爪先が炎から突き出し、閃いた長上着の裾が薄い炎の尾を引く。

          

 フレイム。

       

 刹那閉じていた瞼を無理矢理上げたウォルが、否、その場に居た誰もが注視する先に見たものは。

 不思議な光沢の鋼色に溶け込んだ、眩いばかりの金色。

 少しだけ弱ったような笑みを浮かべる不透明な鉛色が見つめる先にあるのはきっと、普段よりもか弱い、もしかしたら、濡れたダークブルーだろうか。

 首に回った腕に引っ張り寄せられて身を屈めたその人の目が、彼らしくなく、驚きに見開かれ、それから、やはり困ったように笑み崩れる。

 彼…都市ファイランの悪魔、ハルヴァイト・ガリューは、縋り付いたきり離れないミナミを軽々抱き上げると、首筋に埋もれた青年の耳元に唇を寄せ、何事かをこそりと囁いた。その姿はまるでいっときの喪失もなくこの世に存在していたかのような、つまりは消える前も戻ってからも何も変わりなく、最後に燃え残った青緑色の炎をあっさりと振り切って、悠然と歩き出す。それを見て、ヒューなどは呆れたように肩を竦め、とりあえず、周囲を代表し一言言ってやったものだ。

       

「ミナミがくっついたままじゃ、無事の帰還を祝って殴ってやる事も出来ないじゃないか」

           

 言われたハルヴァイトは傍に居たギイルの顔を見、それから開口部の向こうに視線を投げて、少しだけ難しい顔をした。

「ひと月くらいはこのままで居た方がよさそうなのは、気のせいですか?」

「…偉いぞ、ガリュー。お前もようやく、周囲の空気を読む重要性を覚えたんだな…」

 そのわりに、どこも感動の再会的展開にならないのはなぜなのだろうと、その様子をモニター越しに見ていたアンなどは、内心呆れていたけれど。

 しかし、とウォルは不必要に力んでいた全身からほっと息を抜き、緊張に強張っていた表情も緩めた。

 感動の再会にならない理由など、すぐに知れる。何せこれは、命を賭けた一世一代の大魔法でもなんでもなく、ハルヴァイトにしてみれば「出来るからやった」程度の事でしかないのだ。何もかも思い通り。だから特別喜び合うことも、文句を言われる筋合いもないのだろう。あの悪魔にしてみれば、だが。

 では、もし、何か確実なものが欲しいのなら、目に見える幸せをタネに少し泣いてもいいかもしれない。そうだ、これだけは間違いない。明らかであからさまで、だからこそ余りにも幸せだ。

 ウォルは、つい今しがたまでミナミと繋いでいた手を少しだけ持ち上げて五指を広げ、それに視線を落とした。

 握り締め、握り返された手が緊張に強張っていたのを思い出す。

 ふと薄く笑んでから視線を正面に戻せば、青年を抱き上げたままでも相変わらず偉そうなハルヴァイトが、視界の中央を占めた。

「ガリュー」

 文句のひとつも言ってやろうと思ったのか、違うのか、自分でもはっきりしないまま、ウォルが小さくハルヴァイトの名を呼ぶ。それで、微かに小首を傾げるようにした臨界の悪魔をまじまじと見つめ、王は…やっと気付いた。

 この暴挙は確かに「暴挙」かもしれなかったが、果たして、「悪事」だっただろうか。ハルヴァイトが消えて戻ったこの瞬間までに、自分たちには何があっただろうか。

 体裁を取り繕った嘘と偽りを取り払い、先送りにしていた責務を果たすべき時に果たさねばならぬと気付かせ、天使は、握り締めて胸に抱いていたその手を、差し伸べてくれる者に差し伸べた。

 暴挙だ。ハルヴァイト・ガリューらし過ぎる、徹底的に乱暴で有無を言わせぬ方法だ。

 王は、だから、気付く。

「おかえり」

 囁くように言ってウォルは、にこりと、綺麗に微笑んだ。

       

        

 悪魔を、疑ってはいけない。

  

   
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