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17.フレイム

   
         
(32)フレイム-3

  

 浮遊機関出力…消失…停止。

 駆動機関出力…消失…停止。

 その報せを受けた少女は、天蓋越しの暮れかけた空を見上げてきゅっと表情を引き締めてから、胸の前で両の手を組み合わせ、ゆっくり、深く、息を吸った。

「惑星の女王様に謁見を」

「ルニ=ルニーニ・アリエッタ・ファイランW世」

 少女らしく細い、しかし力のある凛とした声に、穏やかな女性の声が答える。姿は見えないが、それは間違いなくあの…聖杯黒の女王のものだった。

「都市ファイランの小さな女王よ、頼りない手足、羽ばたきを知らぬか弱い翅で、もう、行くと言うの?」

 心配してくれているのか、それともなんとなく繰り出しただけなのか、ドーム型の天井に反響する柔らかな声の問い掛けに、少女が眉を寄せて首を捻る。果たしてなんと答えればいいのか。大丈夫ですと胸を張って言う? それとも、わたしたちは大丈夫でしょうかと弱々しく問い返す? ルニは戸惑い、室内の半分以上を占める大型の陣に囲まれたヘイゼンを振り返ってしまった。

 その視線を受けて、ヘイゼンは顎に手を当て少し考え込んだ。

「…アリエッタ王女との会話をお許し頂けますかな? 女王様」

「―――ご自由にどうぞ」

 ルニに向けられるものとは違う、明らかに非友好的な棘を含んだ返答に、電脳技師は内心でだけ苦笑した。なるほど、頭(かしら)がこれではウォルステイン王もさぞ遣り難かっただろうにと、同情でなく淡々とした感想を抱く。

「我らの敬愛する、行く末都市の女王になりましょうアリエッタ王女殿下に、たかだか技師の身でありながら一言申し上げてもよろしいか?」

 などと卑下して見せつつも、ヘイゼンは薄い唇を皮肉に歪めて色の薄い目を眇め、笑っていた。だからこれは彼のスタイルであり、目の前の技師は技師でありながら、見えない緋色のマントを羽織っているのだと少女は思った。

「よくてよ? モロウ技師」

 なんとなくそんな風に答えるのが良いような気がして少女が言うなり、ヘイゼンの笑みがまた少し濃くなる。それは彼が満足した証拠のように思えて、ルニは胸を撫で下ろした。

「機械が壊れたら機械屋を呼ぶ。判らないものは判る者に訊く。広い場所が必要なら在る場所を使う。それは、なんでもない当たり前の事でありながら、だからこそ素直に「そうだ」と言うのは難しい。少しばかり余計に歳など食ってしまうと特に、いらぬ世の柵(しがらみ)を気にして、白を白と、黒を黒と言えなくなる時もある。

 公正明大を欠いても都市を空にあれと望むならば、王女殿下、政(まつりごと)になど惑わされず、あなた様らしくお答えなされませ。

 例えその答えが惑星の女王様のご機嫌を損ねても、わたくしは、天晴れでありますと諸手を挙げて賞賛いたしましょう」

「……―――モロウ…あたしの事バカにしてない?」

 言われて、少し考えて、ようやく「む」と眉根を寄せたルニが拗ねた口調で言い返すなり、ヘイゼンが陣影の照り返す双眸を細めて笑う。

「いやいや、まさか!」

 両手を顔の横に差し上げて首を左右に振る、いかにも大袈裟でわざとらしい動作に顔を顰めて見せてから、ルニはぷいと技師に背を向けた。

 翻る、黒い癖っ毛。純白に蒼いラインも清々しいドレスの裾。無用な緊張に強張っていた肩から程よく力が抜け、小さな背中には気概が満ちている。

 これは、負けず嫌いの小さな姫君。あの母とあの父を持ち、あの兄を…黙らせた。

「…惑星の女王様」

 再度胸の前に手を組み合わせた少女は、背後で笑っているだろう技師のスカした顔を思い浮かべながら、先より軽い気持ちで天へ言葉を投げた。確かにあの言い方は少々癪に障るが、好きに答えればいいと言われたのくらいは判る。

「確かにわたしはか弱くて、ひとりでは、女王様の手助けなくこの空に留まる事も出来ません。でも、もう、今は「ひとり」じゃないから…、技師たちはそれぞれの持ち場に戻っていますし、きっと、上手くやってくれると信じていますから…。だから、女王様。女王様の仰った通り、わたしたちはどんなにか弱く見えても自分の力で空に戻らなくちゃならないんですから、もう、行きます。

 ありがとうございました」

 少女が深く頭を垂れる。…というよりは、勢い良く頭を下げた、という方がしっくり来るだろう動作を、ヘイゼンは声を殺して笑った。

「―――ルニ=ルニーニ・アリエッタ・ファイランW世。また、お会いしましょう」

 仄かな笑みを含んだ優しい声が呟いて、ふ、と頭上を何かが行き過ぎる感覚に少女が天蓋を振り仰ぐ。

 そこに拡がるのは、薄紫の空と先より濃い赤に染まった雲。他には何もない。

 しかし少女は確かに感じた。そこに「何かが居た」気配を。そしてそれ「ら」が一斉に都市ファイランの周囲から遠ざかって行ったのも、感じた。

「…モロウ!」

 瞬間、背筋を怖気に似た震えが駆け抜け振り返った少女の目に、床に倣って水平に折り重なった四層構造の大型電脳陣と佇むヘイゼン、その頭上に描き出された、ファイラン浮遊都市の全景ワイヤーフレームが飛び込む。

『駆動部、機関部、出力完全停止』

「余剰エネルギーは」

『oui,oui。臨界側に飛ばして散らしたよ? プールしてても使い道ないし』

「オーリンとベルモンドに?」

『緊急稼動の通達してある、抜かりなし。今は?』

「滞空中だな。…数秒で落下開始する」

『堕ちるんだ』

「ああ。揺らしはしないがね」

 牙を剥くように唇を歪めたヘイゼンの暗い笑みを、少女は見ていた。

『ヘイゼン』

「なんだ、オロチ」

『無茶は…』

「承知でするものさ」

 わざとのように肩を竦めたヘイゼンを囲む平面陣が一気に光を放ち、高速回転し始める。それと同時、やや斜めに中空に浮かんでいた都市のフレーム、その外殻に近い何箇所かが黄色に変わって、無数のモニターが立ち上がった。

 描き出されては虚空へ消えていく文字列。読み込み速度が速いのだろうそれを、ルニは黒い瞳を限界まで瞠って凝視していた。初めて目にした時は何もない寒々しいばかりだった空間には今や、発光する文字列が乱舞している。

 少女は、無意識に身体の横で固く握り締めていた両の拳を開くと、軽く息を吐き、瞼を伏せた。

 もう、少女に出来る事はない。後は出来る者を信じて任せ、ただ…。

「モロウ」

 ぱちりと上がった睫の先端で、陣の撒き散らす小さな光が弾ける。ヘイゼンは様々なプログラムを監視し、忙しなく実行しながらも、王女の呼びかけに小首を傾げる事で答えた。

「お前が今「技師」である事に感謝します、ありがとう」

 一瞬色の薄い剃刀色の双眸を怪訝そうに眇めてから、ヘイゼンは…ふっと笑った。

「これはこれは、ありがたきお言葉…と申しましょうか…」

 そう言ってしまったのがなんとなくバツ悪い気分になって、似合わないクリーム色の長上着を纏った技師は、正面に立つ未来の女王陛下から目を逸らした。

 その平凡な賛辞は、ヘイゼン・モロウ・ベリシティが魔導師という階級を返上して技師になって、初めて、彼に向けられたものだったのだ。

「―――これでは、ハルヴァイトに恩を着せる訳にも行かんな…」

 皮肉げに口の端を歪めて呟いたヘイゼンを、モニターの中でオロチが笑った。

         

        

 その時。緊急停止した浮遊機関が最大出力で稼動を開始し、動力機関が再起動して都市の外部排気装置が咆哮し、ゆっくりと落下を開始していた都市が激しく傾いた時、城を囲む大路の片隅のオープンカフェ「ミック・ミクサー・バンケット」では、店主のミック・ミクサーが常連のアローマ・オロフとカウンターを挟んで話し込んでいた。

 突き出した腹がカウンターに引っ掛かりそうなアローマが、半日ほど前都市の基盤が揺れたおかげで職場で使っていたお気に入りのマグカップを割ってしまったと忌々しげに言えば、ミックはミックで、トレイに載せたメンチカツ・サンドを引っくり返してしまって作り直しさと答えて肩を竦める。

 その後暫くして、先の揺れは水平機構の一時不具合による振動であり、それに伴った建造物崩壊等の被害及び怪我人は皆無と政府広報から発表されたが、オレの割れたカップはどうしてくれるんだよとアローマが愚痴る。

 ああ全くだ。

 もう一度肩を竦め、しかし笑いながら、ミックが相槌を打った直後、カウンターに置かれたグラスの中で、ミネラルウォーターの水面がちゃぷりと揺れた。しかしそれはほんの少しで、ミックもアローマも気付かないまま、会話は既に別な方向へ行っている。

 そういやぁ、リリス・ヘイワードの新しいムービーの初日に、ファン向け無料公開されたって知ってたか? さすがトップスターは違うね。大盤振る舞い中の大盤振る舞いさ。

 狭いカウンターを挟んで難しい顔をしたり笑ったり忙しいミックとアローマの頭上を覆った赤いテントの、そのまた向こう。今まさに暮れようとする空には、いつもより濃い雲の群れ。渦を巻いた雲海を分厚い天蓋が突き破り、白い気流の尾を引いて急速浮上した巨大な円盤が角度を変え、地表に対する水平を保とうと回転する間も、ミックとアローマの他愛ない会話は続いた。

 他愛ないものは他愛もなく。

 例えば、臨界という不可視の世界でデータが激しく波打ち、文字列が次々に崩壊し再構築されようとも。

 例えば、運行管理院のメインシステム端末が白煙を上げそうな勢いで様々なシステムの緊急停止と再起動を行っていても。

 例えば、駆動部責任者アウロラ・オーリンが部下の制止を振り切って主機関装置を手動停止し、再点火しても。

 例えば、機関部責任者サーフ・ベルモンドが全ての安全装置を強制的に作動させて機関を切断、直後再接続しても。

 その時、都市は。

          

 まるで何もなかったかのように、ありきたりの夕暮れを迎えようとしていた。

        

 その時。

        

「わたしは誰にも、過分な役割を振った覚えはありませんよ」

 駆動部、機関部停止の報を受けて蒼白になった王と周囲の者たちに、悪魔がけろりと言い放っていても。

         

 その瞬間。

            

 都市ファイランを囲んでいた不可視の小型円盤が牽引索を引き千切って滞空し、不安定に揺れ、回転し、必死に空へ留まろうとする巨大円盤が安定するまで随伴。いつしかふいと、暮れなずむ空の向こうへ飛び去っても。

           

 ミック・ミクサー・バンケットのカウンターに置かれたグラスの水は二度と、ちゃぷりとも揺らぐ事はなかった。

  

   
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