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17.フレイム

   
         
(34)王城-2(結末-2)

  

 今度二人の所に見学に行ってもいいかと問うたルニに、アウロラとサーフは喜んでと答え退室して行った。

 その後、出頭を命令されていた電脳班以下が大会議室で待っているとの報せを受けて、ヘイゼンを含んだ一行が陛下執務室を後にする。

 途中クラバインは、執務室に捻じ込んで来た貴族院議員の一部に誰が機関部と駆動部の不調を漏らしたのか調査する旨をウォルに伝え、すぐさま特務室に連絡を入れた。その頃には地下車両庫から戻っていたジリアンに人員の配置などを通達するクラバインに変わって、ウォルの傍にはミナミが控える。

「…都市の運行代表を変更した以上、臨時議会を召集しないとならないな」

 どこか面倒そうな陛下の呟きを、ミナミは薄く笑った。

「となりゃ、当然議会は黙ってねぇよな? なんで議事なしで代表変更したのかとか、緊急措置つっても、そもそもその原因になった緊急事態がなんだったのかとか言い出すだろ」

 さすがに特務室詰めも長くなって来たからか、その辺りの事情に明るくなったミナミが小声で呟き返すと、ウォルがうんざり頷く。

「どうせこの件に関しては議会ががちゃがちゃ騒いでもどうしようもないのに、どうしてはいそうですかと行かないのかな、連中は」

 都市の正常な統治に関わる事項ならば耳を傾ける準備もあるが、これは既に王家と「惑星の女王」間で交わされた約束であり、接触許可者以外は踏み込めない問題だというのに全く持って面倒臭いとでも言いたそうな兄の横顔を、ルニが不安げに見上げる。

「どうしょうか、アイリー」

 妹の黒い瞳にふわりと笑いかけたウォルが極軽い口調で言うなり、尋ねられたミナミが無表情に肩を竦めてから、ぴしりと征服の襟を正した。

「横暴万歳」

「…僕だけ悪者になって暴君の名を欲しいままにしろって?」

 わざと不服そうに片眉を吊り上げたウォルが振り返り、ミナミを睨む。

「しょうがねーから、俺も出る? 議会」

「いいね。お前が臨界側の事情とかなんとか言ってくれたら、きっと連中も黙ると思うな」

「……つうか、俺はただの衛視じゃねぇのかよって…」

 まさか! と素晴らしく一致した驚きの声でミナミの台詞を否定したウォルとルニとマーリィと…ヒューとヘイゼン…、つまりはその場に居た全員に言い返す言葉がなくて、青年は綺麗な顔を微かに顰めてそっぽを向いた。

「ところが、今回の接触許可者交代劇には直接臨界の事象は関わっていない事になっていますが? 陛下」

 きっと嫌な顔をされるに違いないと思いつつ水を差したヒューの涼しい顔を、ウォルが恨みがましく見上げる。

「そうなんだよねぇ」

 正直なところ、臨界が関わってくれていれば議会を黙らせるのは簡単なのだ、こういう場合。しかし今回、臨界ファイラン階層攻撃系システム閉鎖(スクラム)に伴う魔導師災害についての発表は、ハルヴァイトの所在不明という大問題に関わっていたために、されていない。

 難しい顔で廊下を進み、大会議室の前に到着したところで一旦足を停めたウォルの眼前で、両開きのドアが重々しく口を開ける。

 室内には、呼び出しておいた電脳班、第七小隊、警備部隊代表ギイル・キースと、イムデ・ナイ・ゴッヘル第九小隊長及びベッカー・ラド副長が、それぞれ卓に着いて陛下到着を待っていた。

 議会関係の問題を一旦思考から追い出したウォルは、円卓を囲むそれぞれの顔を見回してから鷹揚に頷き、空いた上座に据わった。

 特に緊張したという訳でもないが、どこか探るような気配が足元を舐める室内。それぞれの訊きたい事が喉元まで競り上がっていて、もう口を衝いて出そうなのに、誰もがタイミングを計りかねているような空気に、着座したウォルの背後に控えたミナミが内心でだけ苦笑する。

 陛下に続いて入室して来たルニは、円卓ではなく壁際に支度された肘掛け椅子に座った。彼女は本日起こった一連の事象の報告を聞くが、意見を述べはしないのだろう。

 そして、駆動部と機関部に起こった不具合とその後の事情について、話もしない。

 最後に姿を見せたヘイゼンが卓の空席を埋め、最後尾を固めていたヒューがドアを閉ざす。それを合図に陛下は軽くミナミを振り返り顎を引くようにして頷いて見せると、青年は手元の端末にも資料にも一切視線を落とす事無く、淡々と言葉を紡いだ。

「第10エリア「機械式曲技団(サーカス)」天幕調査中に発生した臨界災害、及び、その後の事象について、王下特務衛視団電脳班班長に、全ての報告を求めます」

 全ての。

 全て。

 明白に…。

 ミナミのダークブルーが見つめる先、ウォルの真正面に座し偉そうに腕を組んでいるハルヴァイトに視線を流したドレイクは、こんな時でも絶対に彼の名前を呼ばない青年の強情さに笑いそうになった。慌てて俯き、笑いの発作をなんとかかんとか捻じ伏せて一つ咳払いなどしてから顔を上げると、何故なのか、ハルヴァイトが微かに笑っている。

 失笑ではない、酷く複雑な要素で構成された、緩い笑み。

「…全て……」

 悪魔が、ぽつりと呟く。

 室内の静寂が一際重くなり、誰もが息を詰めた。

「一つ質問をよろしいですか? 陛下」

 一度はテーブルに落とされた視線。それが、す、と水平に持ち上がり、冷然としたウォルの白皙に当てられる。

「訊いているのは僕の方だ。…だが、まぁ、いいだろう。何が訊きたい」

「何を報告すればいいですか?」

 ハルヴァイトは、今度こそ明らかな笑みを唇に載せていた。

 軽く俯いているかのように顎を引いたままでありながら、その不透明な鉛色が室内を睥睨する。舐めるようにではなく、さらりと流れるような視線に晒されて、瞬間、誰もが背筋を凍らせた。

 ドレイクが、デリラが、アンが、アリスが。

 スーシェが、タマリが、イルシュが、ジュメールが、ブルースが、ケインが、ウロスが。

 イムデが、ベッカーが。

 ギイルが、グランが、ローエンスが、ヘイゼンが。

 ヒューが。

 国王が。

 言われて、気付く。

「全て、ミナミが説明した通りですよ」

 ハルヴァイト・ガリューは、その姿を現さず人工子宮に引き篭もり、臨界側からの干渉という形でアドオル・ウインと共謀していたグロスタン・メドホラ・エラ・ティングをこの世に呼び戻し、正等な裁きを受けさせるために自ら臨界へ行った。そう、彼の目的はそれだけ…と言い切れないとは、ミナミだけの感想だが…だったのだ。

「確かに、目的遂行に付随してわたしの考えも及ばない多々の異常事態が起きてしまった事は認めます。それによる懲罰があるというならば、抵抗せず受け入れましょう。

 ですが、「事象」に関しての報告は、全て諸兄のご覧になった通りでありミナミの説明した通りであって、もう、わたしには何も言い足す項目などないと思いますよ」

 言われてみれば、そうかもしれない。

「…アイリー」

「何か?」

 眉間に修復不能な縦皺を刻んだウォルはハルヴァイトを睨んだまま搾り出すように唸ったが、ミナミの返答は極当たり前の平坦な声音だった。

「突っ込め、アレに!」

 で、失礼にもハルヴァイトの顔に指を突きつけて叫んだウォルの黒瞳(こくとう)が高速旋回し、背後のミナミに突き刺さる、剣呑な視線。

「無理。今日だけはぜってー無理。つうか、俺も呆れた」

 大袈裟に肩を竦めて左右に首を振って見せるミナミを、ウォルは歯軋りしながら睨み据えた。

 こちらも結構必死なのか、青年は無表情なまま額に冷や汗を浮かべ、顔の前でしきりに手を振っていた。ダメ、ごめん、嘘じゃなくて。と口の中で繰り返される台詞に、ついにはウォルの険しい表情も崩れた。

 ほんの数時間前とは完全に変わってしまった空気に、ヒューが人知れず苦笑を漏らす。ハルヴァイトが「消えて戻った」という「事実」については、言われるまでもなく誰もが薄々勘付いていた筈だ。

 目に見える事象に、最早判らないものは何もない。そもそも、あの日第10エリア捜索時ハルヴァイトがミナミを遠ざけた理由は青年にこの計画を邪魔されたくなかったからであって、あの悪魔がこの計画を実行しようとしたのは、グロスタンという亡霊を亡霊でなくするためであり、それに付随して起こってしまった異常事態について、彼は関与出来なかった…ハズ…なのだ。

 例えば「その全て」を予測していたとしても、彼には、その時点で関わる術がなかった。

「―――。いいでしょう、それに実際わたしが関わっていたか否かという問題はさて置き、わたしが臨界を覗いた事で都市に不都合が降りかかったというのもわたしの責任だとして…」

 相変わらずやる気のない表情で話すハルヴァイトを唖然と眺め、誰もが内心突っ込む。

 いや、お前、それは嘘だろ! つうか、お前が臨界に行ってこっちで何も起こらないなんて、あり得ないだろうが!

 と、ミナミが言わないので、各自心の中で完結。

「それぞれ発生した異常事態については、諸兄…及び姫様が機転を利かせて最悪の状態は回避されましたよね? では、ここで皆様にお尋ねしたいんですが…」

 そこでハルヴァイトは少し考えるような顔をして、背凭れに身体を預けた。

「それで、何か、不都合がありましたか?」

 問われて、誰もが顔を見合わせる。

「なかった…とは、言えねぇよな…」

 とりあえずそんな気がして呟いてみたものの、ドレイクにも具体的に何が悪かったのかははっきりしない。ただ、万全ではない、というもやもやした気持ちがあって、だから、そう言葉にしてみただけのような気もする。

 例えばミナミの事。

 例えばドレイクとウォルの事。

 例えばヘイゼンの事。

 例えば都市墜落の危険があった事。

 例えばルニの事…。

 そう…。

「機会を窺ってばかりで顕現しないままだったかもしれない、内に溜まって腐って行ったかもしれない事柄まで白日の下に晒された。

………、そうですね…。報告というほどのものでもありませんが、陛下」

 何か思い出したかのように呟いたハルヴァイトが、椅子にふんぞり返ったまま淡い笑みをその面に浮かべる。

 世の中を見下した、そんな笑い方だった。

         

「わたしが、この世に「激変」を望んだのは、間違いありません」

       

 ただの変化を促したのではないとハルヴァイトは言う。

 彼は。

 変われと言ったのでもない。

 彼は。

 いつか変わらねばならぬものを、徹底的に変えたのだ。

「……もしそれで、僕がお前を「危険要素」と特定して生涯城の地下に幽閉するという可能性があっても、お前はその激変とやらを遂行したのか」

「したでしょうね。それに、陛下はわたしを幽閉…出来なかったと思いますよ?」

「ほお、随分な自信だな…」

 けろりと言って退けたハルヴァイトにさも不快げな表情をしてみせた王が、すぐ、何か諦めたように肩を落として椅子に沈む。

「久しぶりに、お前と話をしていて本気でイラついて来た! ああ、そうだ。もう判ってるんだよ、僕も、この場に居る誰も。お前にしてみれば、何が起ころうが結果どうなろうが、「やる」と決めてそれが出来るんだからやったって、それだけなのは。

 だがな、ガリュー。

 他に方法はなかったのか? こんな乱暴な遣り方じゃなく、もっと…平和的にだな、せめてアイリーに心配掛けないような、そんな選択肢はなかったのか!」

 かなり自棄気味に叫んだ王の秀麗な顔から背後に立つミナミに視線を移したハルヴァイトが、さも不思議そうに首を捻る。

「…ミナミは、わたしを、心配しました?」

 問い。

 それまで気合で黙っていたらしいドレイクが椅子の中で身を乗り出し、相変わらず偉そうなハルヴァイトの顔を剣呑な表情で覗き込んだ。

 お前それはないだろうとか、心配しなかった訳はないだろうとか、何を考えてんだよあほうとか、そういったような言葉を幾つも思い浮かべて言ってやろうとドレイクが息を吸った、直後、今度はミナミが…。

 俯いて、少し笑う。声は無い。ただ、青年が「笑っている」という空気は室内に伝わり、誰もが天使を仰ぎ見た。

「俺は、あんたを、心配してなかったと思うよ」

 一旦は伏せた瞼。その先端で金色の睫が揺れて持ち上がり、ダークブルーの瞳が室内を旋回する。

「手順と要素、タイミング。そういうものの全部が在るべき所に据わってさ、俺たちが間違いない行動取れんのかとか、ホントにこれでいいのかとか、そういうモンはずっと気にしてたし、…正直、自信なかったりもしたけど、な? 

 俺は、あんたを心配した試しはねぇよ」

 ただ、判っただけだ。

 暴かれるものの一つ一つを記憶しただけだ。

 その瞬間まで見つめ続けただけだ。

「――――」

 ミナミの台詞に呆れていいのか怒っていいのか微妙な空気が蟠る中、わざとのようにヒューが溜め息を吐く。

「周囲が騒いだだけで…まぁ、だけ、というのもなんだか癪に障るが、ミナミはガリューが消えた直後から最後まで一言も喋らなかったんだ、俺たちはミナミがガリューを「心配している」と思っていたかもしれないが、実際、「そうだ」と聞いた人間はいない。

 つまり、だ、アイリー次長」

 剣を含んだヒューの声に、ミナミが苦笑を漏らしつつ肩を竦める。

「アイリー次長は、ガリュー班長が消えて、どこに行ったのか、いつから気付いておられたので?」

「…二日目の朝には、なんとなく…」

「――っつーコトはさ? みーちゃん、もしかして、アタシがハルちゃんから預かったあのディスク見せた時点で、殆ど全部…判ってたのん? こうなるって…」

 きょとんを目を見開いたタマリに問われて、ミナミはちょっと考えた。

「結果だけなら、判ってたつってもいいのかな」

 途中持ち上がった様々なイレギュラーはさて置き、ハルヴァイトに関して言うならば、フラグが揃う度に確信だけが強くなったのは間違いない。

 ハルヴァイトが臨界に行き。

 自分の記憶が完璧であれば。

 この方程式は…。

 水を打ったような、というよりも、嵐の前の静けさ、みたいな緊張度の極めて高い静寂にいたたまれなくなったのだろうミナミが、えー、とか、うー、とか唸り出す。なんとなく天井に目を向け、揃えた両手で口元を覆った青年は内心、もう謝った方がいいのか? と悩んでいた。

「つまり、だ、アイリー…。お前が二日目でそれを「言って」いれば、僕らもなんらかの心構えが出来ていたかもしれない、と?」

「あーーーーーーー」

 くり、と首だけを巡らせて下から睨んで来た王の視線から逃れるように、ミナミがそっとヒューの背後に隠れようとする。

 しかし。

「お怖れながら、陛下」

 奇妙な緊張感を破ったのは、それまで無言でミナミの表情を探っていたヘイゼンだった。

「何も言い残さず忽然と消えた不肖の元・部下の目的を、確証もない気休め程度の言葉で明かす事を、アイリー次長は避けられたのでしょう。証拠にアイリー次長は、自信はなかったと仰っていられる。

 今更ながら「あの時言っていてくれれば」などというつまらぬ苛立ちに拘泥めさるな。事件は、まだ、始まったばかりでありましょう」

 結局のところ、ミナミ自身にも結果がどうなるかは、最後の最後…ハルヴァイトがこの世に戻るまでは判らなかったのだ。支度されたフラグを使い臨界と現実面を繋ぐのがこの世にある者の役割だと判ってはいたが、果たして自分たちの辿っているものが正解か否かは、確かめる術がなかった。

 だから全てを飲み込んだ。

 無責任な発言を避けた。

 青年はただの一度も、あの人は大丈夫とも言わなかったが、二度と戻らないかもしれないとも言わなかったはずだ。

 ある意味第三者的立場で事の推移を見守っていたヘイゼンの冷たい一言に、王はやや不快げな顔をしようとした。しかし、その台詞のおしまいを飾った不吉な言葉に気付いて、テーブルに身を乗り出す。

「事件は、始まったばかり、だと?」

 確かめるような問い掛けに気安く頷いた剃刀色が水平に動き、ハルヴァイトへと流れる。

「モロウ技師の仰る通りですよ、陛下。わたしが「激変」を望んだのも、それこそ、今後はある程度の心構えが必要だからなんです」

 やや面倒そうな色を含むハルヴァイトの声音に、ドレイクやアンは呆れた。何か重要な話をするのに、この空気はないのではないかと思う。

「頼むから、最後までもたしてくれよ、ハル…」

「はい? ああ。最後というか…、なぜ、ヘイゼン小隊長は判ってるのに、あなた方はこんな重大な事に気付いてないんですか、と思うんですが…」

 もう喋り疲れたとでも言いたそうな顔で呟いたハルヴァイトが、無表情なままのミナミに睨まれ肩を竦める。

「今回の件で、今まではアドオル・ウインを通してしかこの世に干渉出来なかったグロスタン・メドホラ・エラ・ティングが現実面に現われてしまったというのはつまり、王政に対する明確な「悪意」の存在しなかった都市に、常識外の「悪意なき悪」を呼び込んだという事に他ならないんですが?」

「なんでそこ質問口調なんだよ…」

 とうに気付いていたのだろうミナミはいつものように突っ込んだが、しかし、王は白い面を緊張に強張らせていた。

 そうだ、あれ、は…。

「王政に対する「悪意なき悪」…って…、えと、そのグロスタンが何か悪い事しようとしてるって、そういう意味ですか? ガリュー班長」

 暫し眉間に皺を寄せて考え込んでいたアン少年が、ふと顔を上げてハルヴァイトに視線を向ける。

「違うよ、アンくん。そうだね、うん…、それに気付かないなんて、ぼくらはなんて間抜けなんだろうな。今までは使える人間だけを使ってアドオル・ウインの手先みたいに暗躍していたグロスタン・メドホラ・エラ・ティングは、これで、自分自身の手でこの世に干渉出来るようになってしまったんだ。と、そういう事なんだろう? ガリュー」

 アンの質問を受けて答えたのは、問われたハルヴァイトではなく難しい顔で顎に手を当てていたスーシェだった。

「そうか。裁きを受けさせるためにこの世に引き戻したつってもよ、逆に、あいつの行動半径を広げてやったって、そういう事でもあんだよな…」

 それにようやく思い当たったらしいドレイクが、こちらも難しい顔で相槌を打つ。

「でも、その、「悪意なき悪」って、どういう意味?」

 その奇妙な言い回しにアリスが首を捻ると、傍らのデリラが普段から悪い目付きをますます悪くして、ハルヴァイトに顔を向けた。

「そもそもですね、大将。グロスタンがウインに手ぇ貸してた理由つうのは、なんなんですかね」

「その辺りは追々取り調べなりなんなりで解くとしても、グロスタン・メドホラ・エラ・ティングが王政、というか、わたしたち…彼を幽閉したなのか、彼の一族を王政から追放したなのかはよく判らないんですが、その、現体制に対して非友好的である事は間違いありません」

 ハルヴァイトは、不透明な鉛色の瞳で王を見つめたまま、続けた。

「臨界で接触した限り、グロスタン・メドホラ・エラ・ティングの意識、精神は正常です。アドオル・ウインという窓口を使って現実面に接触し始めたのがいつからなのかはっきりしませんでしたが、彼は…そうですね…、わたしよりもずっとまともに「育っていた」と言えるでしょう」

 会話の方法を知らず、憎い以外の感情を切り捨てていた、ハルヴァイト・ガリューよりも正常に。

「しかし、狂っている」

 俄かに緊張した室内。

 ミナミは、観察する。

「そうですね…グロスタン・メドホラ・エラ・ティングは「善」と「悪」とを「知っている」。しかし、なぜ「善」が善で、「悪」が悪なのか理解していない。彼にとってそれはただの文字列でしかなかったんですから、理解できなくてもおかしくないのかもしれません。善悪という概念はあっても、尊守すべきか否かはまた別なんですよ」

 ややこしく、難しい。

「まるで小さな子供のようだ。悪い事をしてはいけない。なぜしてはいけないのか。それは悪い事だからだ。なぜそれが悪い事なのか。悪い事は悪い事なのだ。だからなぜそれが悪い事なのか…。聞き分けのない利発な子供ならば自分の行いを「悪い事」だと理解する。しかしその子供は悪い事を「してはいけない」理由が理解出来ない…。堂々巡りで、解決の糸口さえ見つけられない」

 独り言のように呟いたケインに目を向けるでもなく、誰もがごくりと固唾を飲んだ。

 それは、悪。悪意を理解出来ていない。

「グロスタン・メドホラ・エラ・ティングには常識など通用しない」

「…つうか、それをあんたが言うのもどうかと、俺は思う」

 こちらも多分常識など通用しそうもないハルヴァイトに、役割としてミナミが突っ込む。しかし、さすがにこの緊迫した空気を変えるに至らず、青年は溜め息混じりに肩を竦めて、薄い唇を閉ざした。

「―――そういう壊れ方をしたヤツの相手は、ウインだけで十分だと思っていたら…」

 二呼吸ほどして、うんざりと天井を仰いで吐き捨てたウォルが、白い繊手で黒絹の髪を乱暴にかき上げる。

「唯一の救いは、どっちも拘束状態にあるってぇ、そのくらいかねぇ」

 こちらも短い髪をがしがしとかき回しながら、ギイルが溜め息混じりに言った。

「とりあえず手の中にありゃぁ、確かに…余計な心配しなくて済むだろうがよ…」

 そう、あの臨時議会の日にウインが仕掛けようとしていた都市の基盤を揺るがすような事件…つまりは都市を墜落させるような事にはならない、とドレイクもギイルに同意する。

 なんだかまた面倒が増えたと、誰もが溜め息を吐こうと息を吸った、刹那、まるで計っていたかのようなタイミングの良さで、クラバインが会議室に飛び込んで来た。

 いつものような早足で、ではなく、文字通り転がり込んで来たクラバインに、思わず目を瞠る室内。幾ら慌てていようとも地味さと礼儀正しさと冷静さを欠く事はないと思われていた男の切羽詰った様子に、さすがの陛下も目を白黒させた。

「どうした、クラバイン」

 椅子から腰を浮かせたウォルに目礼したクラバインは、なぜか王に答えず、地味でありながら迫力のある…何せ彼はこう見えてもヒューを凌ぐ格闘家なのだ…険しい表情で、卓に着いたまま唖然としているギイルを睨んだ。

「キース部隊長に確認しますが、拘束したアドオル・ウインの処遇は、どのように?」

 言われて、それまで椅子にふんぞり返っていたギイルが襟を正し、立ち上がってピシリと踵を合わせる。

「はい。第0エリア隔離施設内で拘束しました被疑者アドオル・ウインについて、当該施設警戒任務中の警備部隊第三班班長イーマス・ケイビイより、城内待機中の第二班班長ジェイジェイ・ホーキンスに引き渡し、その後拘置棟へ連行、現在は特殊防電室二号に収監中であります」

 イーマスとジェイジェイから報告も受けていたのだろうギイルが述べると、クラバインは硬い表情ながらひとつ頷いた。

 その、緊張に強張った地味な横顔を見つめつつ、ミナミは息を詰める。

 ヘイゼンは、なんと言った?

 それにハルヴァイトは…なんと、言った?

「では、同時に連行されて来た、グロスタン・メドホラ・エラ・ティングは?」

「? 被疑者アドオル・ウイン同様第三班班員から第二班班員に引き渡されて、こちらは王城地下特殊防電室に連行、収監したと報告されていますが?」

 クラバインの横顔から、太い眉を訝しそうに歪めたギイルの顔へ視線を動かそうとしたミナミはそこで、見てしまった。

 極自然な動作で俯いたハルヴァイトが、微かに、唇の端を吊り上げたのを。

 だから、そうだ。

 これは「悪意なき悪」の始まりで、事件の終わりではない。

 激変を。

「―――――−ギイル、至急警備部隊の隊員を待機室に集めて、点呼確認。王城出立前と人員を照合。タマリ、警備部隊の隊員に対して臨界式診断を実施。記憶領域の操作痕を重点的に調べろ。それで? クラバイン室長」

 口の端に浮かんだ不吉な笑みを刹那で消したハルヴァイトが、顔を上げてぴしゃりと指示を出す。それに驚いた周囲とは裏腹に、クラバインは苦々しくも眉を寄せ、唖然とするウォルに深く頭を下げた。

「申し訳ございません、陛下。連行され地下特殊防電室に収監されたはずのグロスタン・メドホラ・エラ・ティングが…」

          

 消えた。と、クラバインは、搾り出すように告げた。

  

   
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