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17.フレイム

   
         
(36)冥王(結末-4)

  

 透明なドーム型天井の向こうは既に、満天の星空。その光景を目に、改めて都市が中空に留まっているのだと確かめて、少女は安堵の吐息を漏らす。

 殆ど光源らしいもののない展望室の真中に佇むと、まるで夜に放り出されたかのような錯覚を受けた。鏡面仕上げの床が映すビロードの闇にも無数の星が瞬き、幾何学の八角形だけが薄い光の軌跡で描かれている。

 だから、室内は酷く無機質な印象だった。その、支度された画像のような違和感に、ミナミが微か首を捻る。

 わざとらしく寒々しい室内。最早「部屋」ともつかない心許なさに青年は戸惑い、傍らに立つ恋人を……見上げた。

 彼は、間違いなくそこに居た。在った。不思議な光沢のある鋼色の髪を星空で縁取り、不透明な鉛色の瞳を正面に向けて、傲岸に腕を組み佇んでいる。身じろいで振り仰ぐ恋人に視線を向けるでもなく、部屋の中央、他よりやや大きい八角形まで進み出て跪いた白衣の少女を見遣るでもなく、真っ直ぐにどこかを見つめている。

 何も変わらない、悪魔。

 自らにも激変を強いた、ハルヴァイト・ガリュー。

 悪魔とハルヴァイト・ガリューはまさしく方程式の左右にあり、イコールで繋がれている。

 そう、数多の要素を組み込むために崩壊し、莫大な数列を内包して再構築されても、彼は。

 臨界の悪魔。

 変わらない。

 激変している。

 ミナミは、淡く発光する床に跪いた少女が胸の前で両手を組み頭を垂れる姿に視線を戻した。それは、宇宙だった。世界だった。数え切れない星たちの只中で頼りなく白く輝く華奢な姿は夜空を漂う都市そのものにも見えたし、数え切れない星に身をやつした人々の只中に紛れ込んだ「自分」のようにも見える。

「…曼荼羅」

 先人たちの遺した様々な書物を一字一句記憶していた青年は、我知らず畏怖するように呟いた。それは、宇宙図。…神が…おわす…図式。

 恐怖する。

 同時に、なんだか話が大袈裟になって来たな、ともミナミが内心嘆息した途端、俯いたルニが健やかな声で惑星の女王に謁見を申し出た。

 惑星の女王様に謁見を。

 なんつうか、…すげぇ事が起こりそうな割には平凡な呼びかけだな…。などと、さすがに声に出さないまでも青年が内心平坦に突っ込んだ直後、瞬きの間を縫うような…そう、まるであの「悪魔」がこの世に顕現する時のごとく唐突さで、ミナミとハルヴァイトの見つめる先に、忽然と、人影。

「……―――え?」

 人の気配に顔を上げた少女が小さく、虚を衝かれたような声を上げる。

 そこに居た、在った、のは、ルニの想像していた黒衣の美女ではなく、ましてやハルヴァイトが臨界で邂逅したおかしな猫でも薄っぺらな光の人影でもなく、平凡な、極々平凡な、若い男だったのだ。

「…つうか、女王様ってのは一見すると男性紛いってのが決まりなのか?」

 思わず無表情に突っ込んだミナミを、ふと持ち上がった青年の黒い瞳が見据える。

 からかうような色を含んだ、薄笑み。しかし、瞬間、ミナミはぎくりと背筋を凍らせた。

 離れているはずなのに、はっきりと判る、その目の異様さ。吸い込まれそうに暗い黒には瞳孔と虹彩の隔てがなく、その内は星空を蓄えているかのようにちかちかと弱い光を瞬かせていて、何よりも底知れず深く広大だった。

 人ではないもの。

 何か。

 それは、人の姿をした…「何か」なのだ。

 作り物めいた端正な顔立ちは、余りにも整い過ぎていて現実味が薄い。端正と言えば例えばハルヴァイトだとかヒュー・スレイサーだとかに代表される、アクを含んだ、派手で目立つものばかりではないのだろう。

 艶のない黒いマオカラーシャツに細身のスラックスと底の浅い靴という、取り立てて語るほどもない質素な衣装。印象が薄い訳でもないのに妙な違和感のある冷貌を縁取るのは、濡れた光沢を纏う黒髪だった。

 別に不快や不愉快を表すでもなく薄く微笑んだまま、青年がゆっくりと首を横に振る。

「…先にその部分を訂正してから姿を見せればよかったのでしょうか? 都市ファイランの悪魔」

「さぁ。わたしはどちらでも構いませんし」

 だから訂正されようかされまいが関係なく、そもそも、ここに現われるのが女王でも猫でもガイドでも…冥王でも関係ないとでも言いたそうなハルヴァイトを、黒ずくめの青年が笑う。

「…ルニ=ルニーニ・アリエッタ・ファイランW世」

 仄白い顔に笑みという記号を載せたまま、冥王は理知的な声音をやや柔らかくしてルニに向き直った。少女は、あの女王ではなく見知らぬ青年が突如現われた事に驚いて、床に跪いたままぽかんとしていたのだ。

「え? あ、はい!」

 慌てて答え、スカートの裾を払うのも忘れて立ち上がった白衣の少女に、黒ずくめの青年が軽く頭を下げる。それにまた驚いたルニは、なぜか、今にも泣きそうな顔をして、背後に立つハルヴァイトを振り返った。

「ルニ=ルニーニ・アリエッタ・ファイランW世、都市ファイランの女王よ。これからここで見聞きする事、私の事は、生涯他言なされませんように」

 青年はルニに、自分に会った事も、今からここで交わされる会話も繰り広げられる光景も全て、一生誰にも話してくれるなと言う。一瞬戸惑うような表情をした少女が、すぐに気を取り直して「はい」と答えると、それまで伏せていた顔を上げた青年の口元には先より濃い笑みが浮かんでいた。

「…都市ファイランの天使」

 眼前の少女に在った黒瞳がさらりと動いて、ハルヴァイトの傍らで硬直しているミナミを見据える。まただ、と青年は、あの不可解な黒を見返しながらも酷く居心地の悪い気分を味わった。

 頭上の星空よりも広く深い宇宙の入口のような双眸。

 自分は天使ではないと言いかけて、ミナミはすぐに思い留まった。これは揶揄する言葉などではなく、純然たる「記号」なのだと瞬時に理解する。

 彼は宇宙の入口。彼は個人など識別しない。しかし彼は今ルニとハルヴァイトとミナミを個別に認識しなくてはならない。

 都市ファイランの女王。と。

 都市ファイランの悪魔。と。

 都市ファイランの天使。と…。

 それは、割り当てられた、記号。

「何か」

 答えた硬い声に苦笑にも似た表情を見せてから、冥王はそこだけやけに人間臭い仕草で肩を竦めた。

 今度はそれを、ハルヴァイトが薄く笑う。

「博士の構築したデータ領域の真理を尊守する理由が、あなたにありますか?」

 一生涯黙っていろと言ったものの、一応はルニを警戒しているのか、はたまた元より彼にとってはそういうものなのか、冥王は「臨界」を「データ領域」と言った。だとすればこの「博士」こそが、彼のサマエル・ナミブナンなのだろう。

 そして、「臨界」の「真理」と言えば…。

 ミナミはデータを紐解くように脳内で記憶を処理し、あの、赤い表紙の本に記された様々な事項を一字一句思い浮かべた。

「―――俺は、みんながしあわせであればいいって…すげぇ個人的な理由で悪ぃけど、そう…思ってる。俺が今まで与えて貰った色んなものに対して、少しずつでもいいから、与えてくれたみんなにさ、返したいって、そう思う。

 そのためには、まだ―――こんな狭い「世界」でも、終わって貰っちゃ困るから」

 ミナミは、観察者のダークブルーを瞬いた。

「真理は、明かすべき時に明かすべき者が明かす。もし、その時までに気付いてしまった者たちがあるならば、語らず、騒がず、忘却せよ――」

 あの本の最後のページに印字された文字を正確になぞったミナミは、しかし、そこで目を閉じ、首を横に振った。

「でも、俺に…忘れる事は出来ねぇから、せめて、さ、語らず、騒がず、忘却した「フリ」して…、その時が来るのを待とうと思う」

 それが、ミナミという青年の人生が終わる瞬間までやって来ないだろうと知りながら。

「ささやかなしあわせのために?」

 挑発するような失笑を含んだ声に、ミナミが瞼を上げる。

「「そこ」に俺の欲しいものは、ねぇよ」

            

 そこ、に。

           

 そこ、に。

           

 そこ。

          

 地表に。

          

 彼は余りにもその人を愛しているので、その人を抱えた世界を愛しているので、今更新しいものなど何も欲しくないと言う。

 彼…天使は、緩やかに腐って行く事を、切望している。

 ふ、と冥王の口元に本物の笑みが浮かぶ。

「いつもの調子」で、なんて利己主義でしょう嘆かわしい、とかなんとか言いそうになって、冥王は慌てて表情を引き締めた。一人で「臨界」にリンクしこちら側を見張っている時分はいいが、隔絶空間内で独自文化を復興、形成した「第二期移民」と会話する機会は今まで皆無だったから、まさかこうもあっさり対処不能になるとは思っていなかった。

 とはいえ、これはかなりイレギュラーな事態で、対話する相手も相当な規格外だろうから、今後のためのテストケースには全く持ってなりそうもなかったが。

 無表情に見つめて来るミナミに軽く頷いて見せてから、冥王は抑揚に乏しい声で言葉を紡いだ。

「約束を、都市ファイランの天使」

「約束、何?」

「約束を、約束せよ」

 重ねて告げられ、ミナミは無表情に当惑する。約束を約束と言われても、一体何をどう「約束」すればいいのか、皆目見当も付かない。

 それで結局ルニと同じようにハルヴァイトを仰ぎ見てしまって、青年は内心嘆息した。全部を全部了解しているのはきっとこの世でたった一人だけで、きっと自分たちは一生、肝心な時ほどこうやって彼に頼らなければならないのか…。

 そういう事が一番不向きそうなこの男に、だ!

 半ば睨むように見上げられて、さすがのハルヴァイトも苦笑を漏らす。冥王の言い方は肝心な部分が抜けているものだから、正直判り難い。

 ハルヴァイトは少し考えた。

 冥王は答えを急かすような真似をしない。

 ルニは黒衣の青年と金髪の青年との間で視線を往復させている。

 ミナミは無表情にハルヴァイトを見上げている。

 答えは簡単。

 ミナミは、「ハルヴァイトに「臨界」を侵させない」と言えばいい。

 そもそもミナミは既に、「臨界」の真理を踏まえた上で新しいものは何も欲しくないし、今のままで構わないし、地表に興味などないと言っている。重ねて、ハルヴァイトは臨界で惑星の女王に偽装した冥王に、ミナミの望まないものは何もいらないと言っている。

 では、冥王が求めているのは、なんなのだろう?

「――――――ミナミ」

 煩いくらいに星の瞬く空を背にした黒ずくめの青年に視線を当てたまま、ハルヴァイトはなぜか、酷く緊張したような平坦な声で恋人の名前を呼んだ。

「? …何?」

 それで、もしかしてその青年に何か変化でもあったのだろうかと、ミナミがハルヴァイトの視線につられたように正面を向く。

 冥王は、ただ薄く微笑んで佇んでいた。

          

「わたしの事、愛してます?」

        

 呟くように言われて、瞬間、ミナミは旋風を巻き起こしそうな勢いで傍らの恋人を振り向いた。

「つうかなんで今ここでその質問なんだよ!」

 無表情なまま面白いように、みるみる耳まで真っ赤になったミナミと、その抗議がどうやら不満だったらしい微妙に険しい表情のハルヴァイトが睨み合う。

「わたしは大真面目なんですが?」

「それで大真面目ってあり得ねぇから!」

「回答に困っていたのはあなたでしょう?」

「そりゃそうだけど、でも俺が困ってたのは約束を約束するなんてどうしていいか判らねぇって、そういうコトで、なのにアンタのその質問はどっから来たんだよ!」

「いや、まぁ、一度ちゃんと訊いてみたいなとは思っていたので、この機会に…」

「どの機会だ!」

「ですから…」

「つうかマジで説明すんじゃねぇ!」

 一応ギャラリーを気にしているのか、声を潜めて言い争う天使と悪魔をぽかんと見つめていたルニが、思わず呟いた。

「ガリューって面白いわ…」

「…ええ、私もそう思います、都市ファイランの女王…」

 呆れとも苦笑ともつかない色を含んだ声の返答が耳に届いて驚いたルニが、視線を振り上げ黒衣の青年を見つめる。

「…何か?」

 小首を傾げるようにして問いかけられた少女は、慌てて首を横に振り視線を正面に戻した。今までは緊張していて気付かなかったが、惑星の女王の代わりに現われた「彼」は…。

 全く瞬きをしていなかったのだ。

 もしかして、人形だと言われても不審を抱かないかもしれない外観。可もなく不可もない面差しを彩る、張り付けたような淡い笑み。なのに、少女の言う「面白い」という台詞に戸惑いもなく同意するのだから、感情はあるのだろう。

 これは、「何」だ?

 今日という日をここまで突っ走ってきた少女の背中を、ぞくりとした悪寒が走った。

 俄かに強張った少女の痩せた肩を刹那見つめ、冥王=プルートゥは内心苦笑を漏らした。そろそろ潮時か。ミナミの回答がどうでも、ハルヴァイトが「臨界」に対して何らかの行動を起こさなければ「彼ら」も行動する理由がないのだから、この辺りで対話を打ち切り帰還しても問題はないだろう。

 星空の黒瞳を正面に戻せば、天使と悪魔はまだ何か言い争っている。そもそもこんな大騒動を起こしておきながらよくも言ったな、とかなんとか…、最早先の質問に対するものというよりも、ここ数日で溜まりに溜まった不満を吐いているミナミの無表情な横顔を非常に微笑ましい気分で眺めてから、冥王は短く息を吐いた。

 愛している、という捻りもなくありきたりで、ともすれば安っぽい言葉を「彼」は信じていない。しかしそれは余りにもシンプルであり、複雑に構成されている、とも思う。

 天使は悪魔を「愛している」。

 悪魔が天使を「愛している」ように。

 そして少女はこの世を「愛している」から。

 結果の良し悪しに関わらず、「世界を崩壊させる」きっかけがその手の内にあったとしても、彼らはそれを無視するだろう。

 結局彼らは例外なく、この世を「愛している」のだから。

「―――都市ファイランの天使と悪魔」

 込み上げようとする笑いを無理矢理捻じ伏せ、冥王は抑揚の少ない声で言った。

            

「この世の平穏を望むならば、末永く、お幸せに」

           

 ぴたりと口を閉じたミナミの白い顔が、佇む黒衣の青年に向き直る。

 目前の恋人に据わっていた鉛色が、軽く浮いて冥王に移る。

 傍らに立っていた少女の黒が瞬いて。

            

 青年は、現われたのと同じく唐突に、その場から忽然と掻き消えた。

            

 フレイム。

  

   
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