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18.インターミッション デイズ

   
         
2)インターミッション デイズ-2

  

 急遽議事堂から追い出された議員たちの犇くホールを奇跡的な速さで駆け抜けたハルヴァイトは、見張りの近衛兵を左右に押し遣って両開きの大扉を肩で押し、中に転がり込んだ。

 下界の騒動になど知らぬふりを決め込んだ天使と悪魔の足元を真っ直ぐ突っ切って演台の脇を通り抜けると、ようやく、並んだ座席の後方にしゃがみ込んでいる数名の衛視と陛下が目に入る。ハルヴァイトの足音にいち早く気付いたヒューが上半身を起こし、軽く手を上げて彼を呼び寄せた。

「何があったんです? 班長」

 ヒューの周囲を固めていたクラバインとルードリッヒが床に膝を擦り付けたまま左右に退け、不安げに表情を曇らせたウォルが立ち上がって、やっと、毛足の長い絨毯の上に横向きに倒れたミナミの…酷く蒼褪めた顔が見えた。

「聞きたいのはこっちの方だ、ガリュー。

 都市運行管理者緊急交代質疑応答の最中に、いきなり倒れた。お前、ミナミが体調を崩してたとかなんとか、聞いてないのか?」

 抑えた声で問うて来たヒューにハルヴァイトは、無言で首を横に振った。ここ数日はずっと、一緒に朝登城して夕刻に下城しているが、ミナミは一度もそんな事を訴えていない。

 ただでさえ色の白い青年は今、ますます蒼白い頬を晒して床に倒れ伏している。まるで人形のように冷たく動かない、瞼を落としたその横顔に、ハルヴァイトでさえ酷く不安な気持ちになった。

「多少疲れが取れないとは言っていたかもしれません。でも、体調が悪いとは、一度も。…頭は、打ってませんか?」

 いつ意識を取り戻すか判らない青年を抱き起こして待機室に運ぶ訳にも行かなかったのだろう、議会に参列していた衛視たちはミナミを倒れたときのまま放置していた。背後には壁、しかしすぐ手前、ミナミの頭の十数センチ横には、陛下の座る椅子の脚がある。

「いや、それはない。丁度俺がすぐ横に立っていて、ミナミの頭が揺れたと思ったから、反射的に身体を支えた。その時点でもう意識はなかったんだろうな、膝が折れて落ちたのを確かめてから、そのまま床に寝かせたんだ」

 だから怪我はないだろうという含みのあるヒューの台詞に、ハルヴァイトが頷く。

「とにかく、いつまでもここに置く訳には行かない、ガリュー。アイリーを私室に運べ。それと、クラバイン、今日の議会は中止だ。再開日は追って通達すると議員どもに連絡しろ。スレイサーは、誰かドクターを寄越すようにすぐ医療院に連絡だ。状況を説明して…、ああ、でも、触診も何も出来ないんじゃぁ、ドクターなど使い物に…」

 あたふたと、こちらも蒼褪めて今にも眩暈か何か起こしそうな顔でまくし立てる陛下…ウォルの肩を、立ち上がったヒューがそっと支える。

「陛下、落ち着いてください」

 言われて、ウォルは不意に黙り込み、ヒューの腕に縋り付いて顔を伏せた。

 誰もが抱えている不安と焦燥。彼らが本当に怖れていたのは、ミナミがこうなった時、周囲の誰にも、何も出来ない事だったのか。

 手を差し伸べることも出来ず。

 ただ、手をこまねいて見ているだけだ。

 注がれる、どこか縋るような視線を硬質な外観で容易く撥ね退けたハルヴァイトは、衣擦れだけを伴ってゆっくりと立ち上がった。陛下座席の背後にある通路は少々狭いなと思いつつ、無言のまま数歩下がって囲む衛視たちから距離を取る。

 果たして彼は何をするつもりなのかと、陛下を支えたヒューが思い浮かべた、直後。

 恐ろしい高速で絨毯を舐めた、青緑色の真円。それに驚いて息を飲む間もなく垂直に立ち上がった陣影が放射状に吹き飛び、宙に散った文字列が刹那で整列してハルヴァイトの背に接続される。

 三本のケーブルを背負ったハルヴァイトが軽く振り返ると、そこには既に、あの。

 漆黒のボディに銀色の光を散らした悪魔が、禍々しくも優美な姿で悠然と佇んでいた。

 全高三メートルの骸骨が組んでいた長い腕を解き一歩踏み出すと、ミナミの周囲を固めていた衛視が慌てて離れる。ウォルを支えたヒューもまた、臆した訳ではあるまいが、倒れた青年を見つめる「ディアボロ」に場所を空けた。

 誰に感謝するでもなくミナミに近付いた「ディアボロ」が、絨毯に膝を置いて身を屈め、長い鈎爪の生えた手を器用に使って半ばうつ伏せになっていた青年を仰向けにしてから、恭しくというかちょっとおっかなびっくり、彼を掻き寄せ抱き上げる。その間ハルヴァイトは、眉間に浅い皺を刻んで自分の分身である悪魔と意識のない天使を睨んでいた。

 骨剥き出しの腕に抱いたミナミの据わりが悪いのか、単に慣れていなのか、「ディアボロ」は暫し床に膝を置いたまま、持て余し気味の長い腕を身体に…といっても骨なのだが…引き寄せたり横に張ったりして、何度か青年を抱き直した。その時、床に垂れた状態の尾の先端が思い出したようにびくりと跳ね上がっては静かに落ちるのを目にしたヒューが、…つい苦笑を漏らす。

「どうした、スレイサー」

 呆れた忍び笑いを、ヒューの腕にしがみ付いたままのウォルが咎めた。

「…いや、苦労してるなと…思いまして」

 眦を険しく吊り上げた黒瞳に睨まれた銀色が、軽く肩を竦めて言う。同時に、ほら、と白手袋の指が示した「ディアボロ」の尻尾を見てしまったルードリッヒは、堪え切れずに思わず吹き出した。

 その時「ディアボロ」の尾は、床から五センチほど浮いたところでぴんと伸び切っていたのだ。そう、まるで、がちがちに緊張しているみたいに。

 悪いとも思うし、そんな場合でもないのだが、なんとなく収められない笑いをどうしていいのか判らず、ルードリッヒはウォルに睨まれてクラバインの陰に隠れ、ついでに、不謹慎だと当の室長に小声で叱られた。そしてこちら、そんな些細な悪魔の変化に気付いてしまった銀色の方は、ようやく満足行く位置にミナミを据えて立ち上がった悪魔本人(?)に無表情な顔を向けられて、見つめられ、短くも居心地の悪い時間を過ごすはめになる。

 それを見てウォルはなんとなく、ミナミもミナミだが、この男も多少の事では動じないというか、順応が早いというか、ある意味非常識だなと内心嘆息した。

 ヒューが笑うのをやめて素知らぬふりをしたので気が済んだのか、「ディアボロ」は腕にミナミを抱えたまま悠々と歩き出した。

「…ガリュー班長?」

「何か」

 ずっと難しい顔で何かを考え込んでいるハルヴァイトに、ルードを叱り終えたクラバインが慌てて声を掛ける。

「陛下待機室への通路をお使いになれば、ミナミさんの私室へも近いのですが?」

 議事堂正面大扉へ向かいかけた「ディアボロ」とハルヴァイトを見比べつつ彼が言い足す。

「途中の通路がどうしても通れないんですよ、「ディアボロ」が。顕現時からもう少し小さくするフィルターを噛ませれば、もしかしたら通れるのかもしれませんが、わたし一人では到底無理なので。このまま直接特務室に行かせますが、いいですか? 室長」

 言ってハルヴァイトは懐から携帯端末を取り出し、問うたくせにクラバインの返答も待たず、堂々と正面扉から出て行こうとする「ディアボロ」を追って歩き出した。

 何がと問い返す暇も、呼び止める暇もなく。

「アリス、すぐ室長室に行って、窓を開けておいて貰えませんか」

 解散直前の議員たちがたむろするホールに、ミナミを抱きかかえた「ディアボロ」が姿を見せる。

 一瞬で水を打ったように静まり返った、エントランスホール。注がれる驚愕の視線などないもののように、悪魔と、天使を抱えた悪魔が、真っ二つに割れた人の間を悠然と進む。

 出入り口を閉鎖していた近衛兵が泡を食って退去するのにも関心を示さず、ハルヴァイトは両開きのそれを一枚ずつ丁寧に開け放って「ディアボロ」を外に出した。議会開催中で議事堂に近付けないようになっていたのが幸いし、周囲に無用な人間は居ない。

「では」

 と、ハルヴァイトが「ディアボロ」の無表情を見上げて言うなり、鋼色の悪魔は背の皮膜をゆっくりと広げ、軽く地面を蹴って、純白の粒子を撒き散らしながらふわりと飛んだではないか。

 議事堂入口のドアを背にしてミナミを抱えた「ディアボロ」とハルヴァイトを見送ったヒューが、やれやれと肩を竦めて嘆息する。でも、何かコメントしようという気は、残念ながら起こらなかった。

            

        

「…………」

 窓を開けておけと言われたのでその通りにして、まさか空気の入れ替え要求かしら? と首を捻っていたアリスを絶句させたのは、真下から音もなくすうと現われた「ディアボロ」と、その悪魔の腕に抱かれたミナミの蒼白な顔だった。

 どちらに対して何を言っていいのか、とりあえず言葉もなく硬直したアリスを、「ディアボロ」が空洞の眼窩でじっと見つめる。不思議に恐怖は感じない。どちらかと言えば…。

 アリスは意を決し、腕を伸ばして窓の傍に設えられているソファを指差した。

「下ろすなら、そこ」

 言われて「ディアボロ」は、鈎爪のある足を窓脇に置くと背に展開していた皮膜を畳んでプラズマ翼を収納した。高さは三メートルだが全身骨なので意外に細い悪魔が、それでも少々窮屈そうに肩を寄せ、窓枠を降りて室内に入って来る。

 やはり、どうしていいのか判らなかったらしい。

 それに何か込み上げて来る微笑ましさを感じつつソファに駆け寄ったアリスは、幾つか置かれていたクッションを一つだけ残して退けた。

「頭をこの上に載せて、そう、そっとね」

 背凭れ越しに、ミナミの身体をソファの座面に下す「ディアボロ」の腕に手を置き、アリスはその冷たさに目を細めた。ああ、こんな手触りなんだ。となんとなく考えてから、横たえられたミナミに視線を据える。

 何か、胸の内側がむず痒いような気分。

 蒼褪めた青年を彼の悪魔が抱えて現われた事自体に、彼女はあまり驚いていない。元より恋人のハルヴァイトにさえ未だ自由に触れられないミナミなのだ、下手に、抱き上げた途端に意識など戻ろうものなら、騒ぎはもっと大きくなる。

 だから「ディアボロ」かと納得しつつも、アリスは首を捻った。

 ミナミをソファに下した「ディアボロ」の腕に手を置いたまま、赤色の美女が少し眉を寄せて無表情な骸骨を見つめる。白い小さな光をあちこち散らした恐ろしげな風貌はしかし、怖れる必要のないものだった。

「ねぇ、ハルは…ミナミが急に倒れた原因に何か思い当たりがある?」

 果たして、問うて答えが返るかどうか判らないながら、アリスは呟くように言った。やはりそれに答えは返らず、悪魔は当惑したようにその場から動かない。

「そうでなければ、自分で運ぶ事だって出来たでしょう? ハルなら…。でも前にミナミ、自分が「ダメな時」はハルにも触れないって言ってたから、もしかしてハルは、ミナミが今その「ダメな状態」だって知ってたのかしら。…って…思った、のよ」

 軽く腕を動かして置いていた手を振り落とされ、アリスはちょっと落胆した。動かないミナミ。答えない「ディアボロ」。静か過ぎる室内に恐れをなして、せめてここに居て「動き、ミナミを気遣う」事の出来る悪魔に助けを求めた自分が滑稽に思える。

 これは…。

 曖昧に微笑んだアリスが、「ディアボロ」に据えていた視線をミナミに戻そうと亜麻色の瞳を動かした、刹那、悪魔は鈎爪を握り込んだ手をそっと伸ばし、不安げな美女の頬にこつりと当てた。

 アリスが驚いて顔を上げ、ソファの背凭れ越しにじっと見つめて来る「ディアボロ」を凝視する。

「………そうね」

 悪魔の骸は何も言わない。微笑みかけてもくれない。しかし、そこに居るのだ。

「こんな時だもの、あたしたちがしっかりしなくちゃね」

 無表情な悪魔に気丈な笑みを見せ、アリスはふと思い出していた。

 あのハルヴァイトを「育てた」のは、良くも悪くも、この悪魔だったと。

       

   
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