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18.インターミッション デイズ

   
         
3)インターミッションデイズ-3

  

 結局「ディアボロ」は、議事堂からハルヴァイトたちが戻るまでミナミとアリスの傍を離れなかった。何をするでもないし、もちろん何を言うでもなく、ソファに寝かせられた青年とその傍らに寄り添った赤い髪の美女を無表情に見つめ、厳しい棘の生えた尾をゆらりゆらりと動かしていただけだけれど。

 慌しい足音が隣室に転がり込んで来たのを感じて、アリスがドアに顔を向ける。それと同時に窓の傍に佇んでいた「ディアボロ」の足元に青緑色の電脳陣が光の軌跡で描かれて、悪魔の表面に眩い光を散らした。

「…ありがとう、…」

 室内に満ちる暗い光に気付いたアリスが「ディアボロ」を振り返り、にこりと微笑んで小首を傾げる。それにやっぱり悪魔は答えなかったものの、頷くように微かに顎を引いたのを、彼女は見逃さなかった。

 だから、ミナミは「凄い」とアリスは改めて思う。どの魔導機にも平気で触る。人と接するのと同じように話しかけ、時々無茶を言う。そういう風に接すれば彼らはちゃんと人にも判り易く接してくれるのだと、臨界の使者を畏れてばかりで心を開こうとしなかった人たちに教えたのは、他でもない彼だ。

 光の輪に吸い込まれて消える「ディアボロ」を見送って、すぐ、室長室のドアが軋んで、こちらは人間に身をやつした悪魔が姿を見せる。

「アリス、ミナミは」

「まだ意識は戻らないわ。さっきドレイクに連絡して、医療院にドクターを迎えに行くように伝えておいたけど?」

「医療院よりも、タマリの方がいいんじゃないですか?」

「そっちも連絡済。もうすぐ来ると思うわよ」

 横たわったミナミを見下ろす恰好で囁き合うハルヴァイトとアリスを無視して、後から部屋にやって来たウォルはそのまま私室へ繋がる通路に駆け込んで行った。議会の途中じゃなかったのかしら? と赤い髪の美女はちょっと首を捻ったが、時置かず、手に上質なブランケットを抱えて戻って来たのを見て内心苦笑を漏らす。

 ミナミの一大事かもしれないこの状況で、議会になどかまけている場合ではないというのだろう。

 難しい顔で佇むハルヴァイトを押し退けてソファに駆け寄ったウォルは、広げたブランケットをそっとミナミにかけると、ようやくほっと息を吐いた。その秀麗な横顔が酷く不安そうに見えて、アリスは無意識に彼の手を取っていた。

 無言で微笑むアリスに弱々しい笑みを向ける、ウォル。

「大丈夫よ、ウォル様。すぐタマリもドクターもやって来るわ」

 ミナミの向かいのソファにウォルを座らせたアリスは彼の肩を抱いて囁いてから、一旦その場を離れた。

 室内に、重苦しい空気が蟠る。悪意を持って時間の引き延ばされているような感じに、ウォルは眉を寄せて何度も溜め息を吐いた。

「…ガリュー、お前、本当に何も思い浮かばないのか? アイリーに何か、変わった様子がなかったかどうか」

 相変わらず難しい顔をしたまま腕を組んで立っているハルヴァイトを抑えた声で咎めながらも、ウォルはミナミから目を離さない。

「何も」

 短く、吐き捨てるように言われて、ウォルは不快げに眉根を寄せ、佇む悪魔を睨んだ。

 しかし、続く罵倒の言葉が刹那で喉に痞える。ウォルと同じようにミナミを見つめるハルヴァイトの目の中に、微か、苛立ちとも後悔ともつかない奇妙な色を見た気がした。

 まるでそれは、何も判らない自分を咎めているような、そんな表情だった。

 暫し陰々とした気配に沈む、室内。ミナミの浅い呼吸だけが足元に溜まって行く。

 凍り付いた静寂を割って室長室のドアが開き、目に鮮やかな黄緑色が転がり込んで来るなり、ウォルはソファから腰を浮かせた。

「タマリ」

「はいはいお待たせ。うお、陛下!」

 ハルヴァイトの陰になって見えなかったのだろう陛下に気付いたタマリが、慌てて敬礼する。

「そんなのはどうでもいい、早くアイリーを診ろ」

 飛び出して来たウォルに細い腕をつかまれて引っ張り寄せられ、つんのめるようにしてミナミの傍に置かれたタマリは、なぜか妙な苦笑を少女っぽい顔に浮かべた。自分の扱いがどうこうというよりも、陛下の慌てぶりに思わず笑ってしまったというところか。

 いつもの軽薄さもなく、タマリはすぐに陛下とハルヴァイトをソファから遠ざけ、立体陣を立ち上げた。中空に出現した水色のモニターが、忙しく何かのグラフを表示するのをペパーミントの双眸でじっと睨み、時々唸ったり頷いたりする。

「んー、脳内の疲労物質がちょっと多いね…。身体の方はなんでもないと思う。内臓器官がやや弱ってるけど、それだって病気って程のモンでもないし。…胃の中に食べ物の影が見えないから、空腹だったのは確かかも。あー、血糖値下がってるから、貧血かなー。……でも…、これは…、もしかして、これかな…」

 ゆっくり回転する立体陣に囲まれたタマリが、愛らしい顔を奇妙に歪めて眉間に皺を刻む。

「何か判ったのか?」

 脇から覗き込むようにしてウォルに問われたタマリは、しきりに首を捻りながら顎に手を当てた。

「意識はないのに…まぁ、眠ってるようなモンね? で、身体は完全に休んでるのに、脳の一部分は起きてる状態つったらいいのかな。単純に、夢見てるような感じなんだけど、それにしちゃ脳の運動が異常に活発」

 言われて、ウォルがハルヴァイトの横顔を見上げる。

「…接続不良の初期段階みたいなものですか?」

 沈んだ声で問われて、タマリはますます首を捻った。

「そうだよ、って断定は出来ない。でも、極めてそれに近い状態かもしんない。そうなると、普通アタシたちなら無意識下で陣張ってストレス散らすけど、みーちゃんはそれが出来ないでしょー? だからこう、ショートしちゃったのかも」

 負荷が溜まって断線したのだと、タマリは魔導師風に説明した。

「――睡眠障害かもしんねー、不眠症? みたいな」

 顎に手を当てたままぽつりとタマリが漏らした瞬間、ハルヴァイトがひくりと片眉を吊り上げた。

「…どうした、ガリュー」

 その奇妙に緊張した横顔を訝しんだウォルが、ハルヴァイトに顔を向け、問う。

「いえ、なんでも」

 ぶっきらぼうな答えにウォルが益々不審げな顔をし、陣を消したタマリが踵で回ってハルヴァイトを睨み上げたタイミングで、またも室長室のドアがばたりと開く。

「…医療院からドクター連行して来たぜ」

 入って来たのは、ドレイクだった。

 瞬間、ウォルの白皙が俄かに強張る。ハルヴァイトの隣に佇む陛下を目にした刹那だけ動きを停めたドレイクは、すぐ何もなかったかのように平然と室内に踏み込み、後から着いて来たドクターに道を譲るように脇へ退けただけだったが。

「ここに呼ばれると碌な事がないんだがな、ええ? ミラキ魔導師」

 室長室を食い潰そうとした妙な緊張感を蹴り飛ばす、ぞんざいで不機嫌そうな声。それを耳にして、タマリはわざと「うわぁい」と意味不明の奇声を発しハルヴァイトの背に隠れた。

「ドクターがドクターらしく仕事してくれりゃぁ、俺だって文句言わねぇよ」

 天井を仰いで、微妙に剣のある声音で言い返したドレイクの前を横切る、鮮やかなオレンジ。白衣に聴診器を首から提げたその人は、ハイヒールの踵を鳴らして堂々と、無言で佇むハルヴァイトに向かって来る。

「…外科のドクターに仕事はないと思いますが?」

 礼儀もくそもあったものではない、抑揚のないハルヴァイトの言い方にしかし、ドクター・ステラ・ノーキアスは同意するように頷いて肩を竦めた。

「同感だな、ガリュー班長。なぜわたしがここに来たのか、わたしの方が訊きたいよ。で? アイリー次長の意識は?」

 最後の部分をタマリに向けたステラから鉛色の双眸を水平に動かしたハルヴァイトが、今度こそ明らかに顔を顰めて額に手を当てる。

「ラオ…」

 吐く息のような、この世の終わりみたいなハルヴァイトの呟きを耳にした誰もが開け放たれたままのドアを振り返るとそこには、何かのボードを抱えて眦を吊り上げ、頬を紅潮させ今にも怒声を張り上げそうな顔のドクター・ラオ・ウィナンが仁王立ちしていたではないか。

「何しに来た」

 睨んで来るラオから視線を逸らしたまま、ハルヴァイトがうんざりと吐き捨てる。

「依頼された診療行為を履行するために来た。これでいいか」

 精神科のカウンセラーとは思えない強い語調で言い返したラオに、さすがのドレイクも、タマリも、ステラも陛下も、唖然と二人を見比べてしまった。何があったのか、あるのか。誰も知らない理由は結局誰にも判らず、同僚医師の医師らしからぬ態度を咎めなければならない立場のステラさえ、口を挟むの躊躇う始末だ。

 何せ、ここでミナミが寝込んでいなければ殴りかかってもおかしくないような顔付きなのだ、ドクター・ラオが。

 荒々しくも白衣の裾を捌いたドクターは、唖然とするドレイクをかわしソファに近付くと、邪魔なハルヴァイト押し退け勝手にミナミの向かいに腰を下ろして、抱えていたボード状の端末を開いた。立ち上がり識別する前に流れて行く様々な文字列と幾つかの写真を目にして、タマリが思わず悲鳴を上げそうになり慌てて口を手で覆う。

 高速で飛ばされて行く、過去。記録。空白のいっときを過ぎ再度始まった文字列の先頭に記された日付は、つい10日程だった。

 目視出来なくともデータを読み取る事の出来る特異能力を、タマリがこの時ばかりは心底呪う。見なければよかった、知らなければよかった、ではない。彼を含むミナミの現在(いま)に関わる誰もがそれを知っていたが、実際の記録として見せられ現実味を帯びたそれは酷く生々しく、残酷だ。

 写真。

 今よりずっと幼い。

 しかし今とは比べ物にならないほど憔悴し、殴られたのだろう痕を顔面にべったりとこびり付かせた、少年の写真。

 血塗れの金髪と。

 空ろに虚空を眺めるダークブルー。

 それは。

 ミナミの、診療記録だった。

 怒りなのか悲しみなのかで重苦しく凍り付いた室内に、ラオが忙しくキーを叩く音だけが棘のように突き刺さる。これはなんの見せしめなのかと絶叫してやりたいウォルの背を、ハルヴァイトの手が静かに支えた。

「臨界式診断の結果を教えて頂けますか? タマリ魔導師」

 一通り必要事項を打ち込んだラオが顔を上げ、ハルヴァイトの背中に隠れているタマリを振り返る。それに一度はびくりと…多分わざとだろうが…肩を跳ね上げてから、彼は先程述べたのと同じ内容の診断結果を二人のドクターにも判り易いよう、魔導師的な見解を省いて説明した。

「それだけ聞くとただの貧血でもおかしくはないか…。ガリュー班長、アイリー次長は今日朝食を?」

 身体的な診療はステラの管轄なのだろう、彼女がラオの脇に腰を下ろして偉そうに足を組み、ソファの背凭れに片腕を載せハルヴァイトを斜に振り返って訊く。

「今朝は一緒に朝食を摂りました」

「なのに胃の中に何もないというのは、ちょっとおかし…」

 ハルヴァイトに据えていた翡翠を動かして傍らのラオに同意を求めようとしたステラが、不意に言葉を切る。その唐突さに誰もが首を捻った瞬間、それまで身じろぎ一つしなかったミナミの腕が跳ね上がり、掛けられていたブランケットを床に落とした。

 はっとする。瞬きもやめて、ソファの座面に寝かせられている青年の横顔を見る。

 ミナミは、目を開けていた。文字通り見開いたダークブルーで天井を凝視し、頬を強張らせて息を詰め、上げた手でソファの背凭れを鷲掴みにして仰向けのまま硬直していたのだ。

 いつ目を覚ましたのか。

「………、ミナミ?」

 驚愕に声もない周囲を無視したハルヴァイトは、縋るタマリを振り払うと、未だ天井を睨んだきりのミナミに小さく声を掛けた。

 刹那、ひくりと青年の喉が動く。呼吸し、瞬きし、それから眼球だけを動かして周囲を確かめる。

「――――。…って…、何やってんの? みんな…」

 と、ミナミは、死ぬほど心配したギャラリーが刹那で死ぬほど脱力するような腑抜けた声を上げ、見下ろしてくるハルヴァイトをじっと―――見つめた。

  

   
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