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18.インターミッション デイズ

   
         
(14)幻惑の花-3

  

 全ての時間がゆったりと、ゆるゆると、怠惰に流れている。

「なんか、病人みてぇだよな、俺」

 ソファの座面一杯に身体を伸ばし肘掛けに足を載せた、完全にだらけた姿勢のミナミが、顔の前に片腕を翳してぽつりと呟く。それを、広げた本越しにちらりと見遣り、ハルヴァイトは薄く口の端を綻ばせた。

 一応「療養」という名前の長期休暇中なのだから本当に病人でもおかしくないのだろうが、どうしてもその原因にも改善方法にも思い当たりのない青年は、こんな風に何もせずにだらだらと過ごすのが、どうにも落ち着かない気分らしい。

 ミナミとハルヴァイトの自宅での生活は、相変わらずだった。数日に一度くらいの割合でハルヴァイトが登城したり、稀にミナミが同行したりする以外、二人は殆ど家から出るでもなく過ごしている。元より行動半径が狭い上に、数日前からはアスカが何でもやってくれるものだから、ハルヴァイトどころかミナミにまでおかしな癖が付きそうだった。

「退屈ですか?」

「んー。退屈つうんじゃねぇけど、なんか、じっとしてていいのかなって、ちょっと思う」

 陛下重鎮として忙しく走り回る生活にすっかり慣れていたのだろうミナミが、顔の前に翳していた手をばたりと腹の上に落とし、首だけを回してハルヴァイトを見る。

 恋人は、今日もまた幾何学模様で埋め尽くされた本を開き、時折臨界に接触しながら、ぴくとも動かず存在していた。その姿をぼんやりと眺めていたミナミが、静かに息を吐く。

 ハルヴァイトが、退屈する暇のない人間なのだとミナミが気付いたのはいつだったか。彼はだらけているようにして、ただ「何もせず」そこに居るようにして、実はいっときも休んでいない。意味不明の書物。勝手に内部プログラムを書き換えたゲーム。氾濫するデータ…。時にはそいうものに囲まれて、何もしていないようにして、人智を超えた回転速度の脳は片時も休まず何かを考えている。

 だから結局、ハルヴァイトは退屈しない。

 そう考えると、なるほど、彼が1日置きくらいの頻度でミナミに「退屈でしょう」と笑いながら訊くのも頷ける。

 本当に何もしていないミナミが退屈そうに見えて当たり前、という事か。

 ミナミは、ハルヴァイトに向けていた顔を天井に戻してから、目に掛かる前髪の先端を指で摘んで引っ張りつつふうと嘆息した。

「………」

 何か問いたげな緯線を頬に感じた青年が、天井を見つめたまま口を開く。

「なんつうか、…俺もようやく「退屈」っての、覚えたんだなって、ちょっと思う」

「退屈を、覚えた、ですか?」

 聞き返されて、ミナミは頷いてからひょいと起き上がった。

「外に出られなかった頃の俺には、退屈ってのがなんだか判らなかったんじゃねぇかって、今だから、思うんだよな。何もしないで部屋に居るってのは、俺にとっての「生活」そのものみてぇなモンでさ、外の世界は全部…テレビの中の出来事だった」

 座面に置いていた白い爪先を床に落とし、ミナミがハルヴァイトに向き直る。

「それで、俺は時々、ニュース番組でインタビューされる「事件」の関係者とか、目撃者とかみてぇに…名前のない登場人物になって街に出て、でもすぐに――」

 ハルヴァイトの端正な顔から逸れない、観察者のダークブルー。

 ミナミは、瞬きもせずに恋人を睨んでいた。

「俺は、「事件」の発覚を恐れて、また、日陰に逃げ込む」

 何かを、恐れていたのだと青年は言う。

 しかし。

「ところが、俺にゃぁもう日陰に逃げ込む理由なんかなくなって、少しずつだけど自分の足で歩いて行ける場所が増えて、さ、だから俺は…」

 そこまで言って、迷ったのか考えが纏まらなかったのか、ミナミが無表情を保ったまま口を閉ざす。

 その、微かに戸惑うような顔を、ハルヴァイトは小さく笑った。

「まぁ、つまり「退屈」を定義しようとすると、そうなるんでしょうか? あなたは「しようとしする事が出来る」のに、ただここに居て何もしていない。家の中でもいいし、外出してもいい。何かを「しようとし行動するのも可能でありながら」何も「しなければならない事」はない」

 ハルヴァイトは言いながら、広げていた本をぱたりと閉じて組んだ膝の上に置いた。

「あなたにとっての「出来る事が増えた」と歓ぶべきでしょうか?」

「つうか、そこ、なんで質問形式なんだよ」

 むぅ、と眉間に皺を寄せたミナミに薄笑みを向けてから、ハルヴァイトは答えずに青年から視線を逸らしてしまった。

「アスカ」

 それを妙な行動だと思ったが、ミナミはそれ以上ハルヴァイトに言い返すのも突っ込むのもやめた。呼ばれたアスカが、待機していたダイニングキッチンから姿を見せたからなのか、もしかしてこれ以上この話題を続けたくなかったのかは、青年にもはっきりしなかったけれど。

「出掛ける準備を」

「はい。私はお留守をお預りしてよいのでしょうか、ハルヴァイト様」

 言われたアスカが、邪魔な本の山を手際よくテーブルから下しつつ笑顔で小首を傾げる。

 本来ならば、執事たるもの主人の行く先にひっそりと同行するべきなのだろうが、アスカはハルヴァイトたちの正式な侍従ではないし、そもそも、ミナミの家事軽減のためにミラキ邸から派遣されているので、買い物があるので荷物を持ってくれとでも言わなければ、外出に付いて来る事はない。

「いえ。すぐリインに連絡して、上級庭園の入場許可を取って貰えませんか? どうせですから、アスカも一緒に戻りましょう」

「…お屋敷にですか?」

 ハルヴァイトとミナミが突然ミラキ邸を訪れるのは別に不思議ではないのだが、アスカはなぜか驚いたように聞き返してきた。

「旦那様は、本日まだお戻りになっておられないと記憶しておりますが?」

「ドレイクなんか居ても居なくてもいいですよ。わたしたちが会いに行くのは、休養中のイルくんとジュメールくんです」

 それならば、その旨も執事長に伝えておきます、と柔らかな笑みを浮かべたアスカの顔と、最初から最後までいっかな動かなかったハルヴァイトの冷静な横顔を見比べたミナミが、やれやれと嘆息する。

「行きません?」

「いや行く。…つうか、まずそれを俺に相談するのが先じゃねぇのか?」

 ハルヴァイト、相変わらずマイペースだ。

「ってか、ミラキ卿が居ても居なくてもって…、ここでも報われてねぇなと、思った」

 大袈裟に肩を竦めて見せたミナミから薄笑みのまま少し困ったように小首を傾げたアスカに視線を移し、ハルヴァイトはわざとらしく大きく頷いて見せた。

「アスカ、今の、ドレイクには内緒にしておいてくださいね? 一応」

「承知いたしました、ハルヴァイト様」

 アスカはそれこそ執事然と姿勢良く頭を下げ、そう、答えた。

        

         

『え? アイリーとガリュー?』

「うん、ミナミさんとガリュー班長」

『来るの?』

「もう来てんの」

 ミナミとハルヴァイトがミラキ邸を訊ねて来るのがそんなに驚く事なのだろうかと、その時イルシュ少年は、壁に埋め込まれた通信端末のモニターを眺めながら思った。

 それきり相手から返事がないのに戸惑うでもなく、最近伸び気味の前髪を指で摘んで持ち上げ、もしかして明日辺りミラキ家執事長に散髪を強要されるのではないだろうかと内心唸る。いや、別に散髪が嫌いな訳ではないが、髪を切るとどうにも幼く見えてしまうものだから、ただでさえ軍内で浮きまくっているのにますます目立ってしまうのがちょっと嫌なのだ。

『て、イルくん、あたしの話聞いてる?』

 少々沈んだ声で咎めるように言われ、少年は摘んでいた前髪を離して、慌てて引き攣った笑顔を作りモニターに視線を戻した。

「聞いてる、聞いてる」

 ホントにぃ? などと訝しそうにする相手…恐れ多くもルニ姫様なのだが…に何度も頷いて見せているイルシュの背中を、話題のミナミが無表情に見つめている。

『いいなー、イルくんとジューくんばっかりー、アイリーたちに会いに来て貰えてー。あたしはお仕事がんばってるのにー、だーれも遊んでくれないー』

 モニター越しに半目で睨まれ、イルシュは額に冷たい汗を浮かべた。きっと姫様は退屈しているか、死ぬほど忙しいかのどちらかに違いないと、なんとなく思う。

 もしかして、今度遊びに行きますとか言った方がいいのだろうかと少年は、ぶーぶー言うルニの拗ねた顔を凝視したまま必死になって考えた。しかし、自宅待機中で登城後のシフトも未定という現状で、安請け合いする訳にも行かない。

『ルニ様、そんな風に我侭を言って、イルくんを困らせてはダメですよ』

 頬を引き攣らせて目を泳がせたイルシュが憐れになったのか、姿は見えないがルニの私室に詰めているマーリィが可憐な声で助け舟を出す。それに少年がほっとしたのも束の間、姫君は毛先のあちこち跳ねた短い黒髪を振り回すようにして斜め後方…どうやら、その辺りに女官が居るようだ…を睨んだ。

『っていうかー、マーリィもうすぐ下城時刻でしょ! それで、あたしを置いてミラキのトコに行くつもりでしょー!』

『…ご近所なのでー』

 その、微妙に間延びした語尾は姫様と女官の間で流行ってるんですか? とイルシュは、緊迫するモニターの向こうを窺いつつ緊張感なく思った。

 ずるいずるいと連発するルニ。

 笑ってばかりで答えないマーリィ。

 イルシュはどうしていいのか判らなくて、おろおろと背後を振り返った。

 ほぼ真後ろに位置するソファに座ってお茶を頂いていたミナミが、手にしたカップをテーブルに置きゆっくりと立ち上がる。果たして青年、拗ねた姫君にどんな提案をするつもりなのか。

 少々思案気味の無表情でミナミがソファを離れ、当惑するイルシュに歩み寄ろうとする途中、それまで少年を上目遣いに見ていたルニが、モニターの中で不意にあらぬ方向に顔を向けた。

『ねー、スレイサー! 今からミラキのところに遊びに行ってもいい?』

『ミラキ魔導師なら執務室においでです。そのくらいならお送り出来ますが』

 運悪くなのか丁度良くなのか、ルニの私室に現われたらしいヒューに姫君が問うと、姿の見えない銀色がいつものように冷たく言い返す。

『じゃなくて! アイリーとガリューがイルくんの所に来てるって言うから…』

『残念ながら、人手不足で姫様をミラキ邸までお送り出来る衛視は居ません』

 にべもなくばっさり言い捨てられたルニが、眉間に皺を寄せて唸った。

「…さすがヒューだ、容赦ねぇ」

 その銀色の所業に、ミナミも思わず唸る。ちょっとは考える素振りとかみせろよと青年は思ったが、その人手不足の要因の一つは自分かもしれないので、余計な口答えはしないでおこうと心に決めた。

 小さなモニターの中、ルニが拗ねた顔でヒューを睨んでいる。

 ミナミは不安そうなイルシュの肩越しにそれを見つめ、内心嘆息した。

 色々と、複雑な気分だった。

           

 ふがいない自分。

 判らない自分。

 苛々する。

         

 口を噤んだルニの横顔を無表情に眺めながら、ハルヴァイトはリインの淹れてくれたお茶を一口飲んだ。ここであれこれ我侭を言わないルニの成長に、少しだけ感心する。

 少女もまた、判り始めている。自由になる事、ならない事。

 彼女は、時置かず都市の女王になるのだ。

 自由になる事。

 ならない事。

「…………」

 モニターの前に到着したミナミの背中が、ルニに何か言っている。体調は悪くないのかとか、早く元気になってね、とか、ルニが極力明るい声で話すのを遠くに聞きながら、ハルヴァイトは傾き始めた午後の陽射しを眩しそうに見遣った。

 白い、光。

「リイン」

 暫し窓の外を眺めていたハルヴァイトが執事頭を呼ぶ。

 ソファに足を組んだ姿勢のまま動かぬハルヴァイトの傍らで恭しく腰を折った壮年に、彼は何事かを耳打ちした。

「承知いたしました、ハルヴァイト様」

 再度頭を下げたリインが離れるのを待ってから、ハルヴァイトがソファの背凭れに腕を預けてミナミの背中を振り返る。

「ミナミ、班長に、すぐマーリィの下城許可を取って、ルニ様と一緒に上級庭園エレベーター口まで送ってくれるように伝えて貰えませんか。こちらから、レジーを乗せた送迎の車を回しますので」

 突如そんな事を言い出したハルヴァイトを、ミナミも、イルシュも、先から居るのか居ないのか判らなかったジュメールも、モニターの向こうのルニまでもが、ぽかんと見つめた。

「どうせマーリィの下城に合わせて迎えに行くでしょう? レジーは。少しくらい時間が早まった所で問題はないでしょうし、レジーの護衛付きなら、クラバインだって文句は言いませんよ」

 その横柄な物言いに。

「つうか、自分が行ってもいいつわねぇあたり、やっぱあんただ…」

 そのミナミの呟きに誰もが、青年がこの場を動かないのであればあの悪魔が動くわけもない、と、内心思った。

         

        

 判っている。

 世界にふたりきりでない事を。

 判っている。

 世界にふたりきりでない事を。

 賑やかな食卓。

 少年たち、少女たち。

 忙しく歩き回る執事たち。

 振り回されて迷惑だと言いながらも笑顔を絶やさぬ男。

 遅れて現われた主人。

 姫君を無事自宅に送り届ける責務があると仕事を放り出してやって来た男。

 他愛もない会話。

 料理人が腕によりをかけた食事。

 途切れる事なく提供される話題。

 まるで。

 いっときの不在を埋めるように。

 判っている。

          

 絵空事だなと。

           

 天使は、微笑む自分を眺めて思った。

             

            

 夕暮れ前にやって来たルニが迎えのクラバインに連れられ、このまま自宅へ戻るというマーリィとレジーナと共に屋敷を辞したのは、天蓋の外の星空も尚煌々と輝く夜遅くになってからだった。

「今から家に戻んのも面倒だろうから、泊ってけよ」

 姫君一行を見送ったドレイクに言われて、断わる理由もなかったのか、ミナミとハルヴァイトはその日ミラキ邸へ残った。

 使用人さえ寝静まった、深夜。

 灯かりを落とした室内を蒼白く照らす月の光で窓の格子と肘掛け椅子に座す自分の影を床に焼き付けたハルヴァイトは、完璧にベッドメイクされたままの寝台を睨んでいた。

 藍色の夜空に背を向け。

 歪んだ白い月に背を向け。

 半円形のバルコニーに背を向け。

 隣室の窓がそっと開き、冷え切った人工石の上に裸足で降りた恋人の気配にだけ耳を澄ます。

 青年は今日も眠らないだろうと悪魔は思った。

 毎日遣って来るアスカにそれとなく訊ねたところ、ミナミはよくソファでうたた寝しているらしかった。しかし、束の間、ほんの数分か、長くても十数分後には唐突に目を覚まして、「何かを探す」のだと若執事は言う。

 ミナミは、それを見られている事に気付いていないようだともアスカは言い足した。

 状況は日々悪い方向へと進んでいる。このままでは、自覚がないまま本当に寝込んでしまう日が来るかもしれない。

 ハルヴァイトがミナミの「本当の不調」に気付いたのは、療養目的の長い休暇に入って少ししてからだろうか。夜、妙な物音に気付いてミナミの部屋を覗いた悪魔は、頭を抱えて床に蹲る恋人の丸めた背中を見て、唐突に気付いてしまったのだ。

 ミナミの「世界」が、未だ閉じたままだという事に。

 胸の冷えるような思いでミナミを見つめながら、ハルヴァイトは必死になって考えた。何が原因だったのか。なぜ、ミナミは「今ここに居る自分に気付けない」のか。

 答えはすぐに出た。いいや。ハルヴァイトの軽視していたある事柄が、予想以上にミナミの神経を狂わせていたのか。

 薄れない記憶。

 ハルヴァイトは、その瞬間、ミナミの前から「消えた」。

 存在と不在の境界は本来ならばミナミの目前で行なわれないはずだった。しかしミナミは見てしまう。

 あの白い光を。

 全てを塗り潰した白い光を。

 その白の只中にふわりと落ちた、緋色のマントを。

 記憶。

 その、ハルヴァイトを臨界から呼び戻した絶対的な記憶力が、逆に、ハルヴァイトを臨界に弾き飛ばした白い光をミナミの中に残した。

 誤算だったなと、ハルヴァイトは一つ溜め息を吐く。

 バルコニーから動かないミナミの気配を背中で感じながら、ハルヴァイトは肘掛けに頬杖を突いてもう一度嘆息する。正直、どうすればいいのか皆目検討も付かない。何せ今自分はここに居て、もう二度とミナミの傍を離れるつもりはないが、そう言ってすぐ理解して貰えるものでもない。

 記憶が邪魔をする。

 白い光。

「…………」

 目下の敵は自分自身かと、思わず失笑も漏れた。

  

   
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