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18.インターミッション デイズ

   
         
(19)幻惑の花-4-2

  

 「という訳で、ミナミとですね、暫くこちらの離れに厄介なろうという事で、話が着いたんですよ」

         

        

 食事の後、先に仕事を片付けてしまうという名目でドレイクの私室リビングに移動するなり、ハルヴァイトはこう切り出した。

 というかどういう訳だよおめー。と、普段ならばドレイクだってナチュラルに突っ込んでいる場面でありながら、当代ミラキ卿はティーカップを手にしたまま呆然と、正面に陣取って涼しい顔をしている弟を凝視し、いつ何時でも完璧に執事然と振る舞うリイン・キーツですら、当人にカップを差し出しつつ機械仕掛けの人形みたいにぎぎぎと首を回してハルヴァイトの顔を孔が開くほど見つめてしまった。

「ナニ?」

 唐突に降って沸いたどころではなく、一瞬前まで何もなかった空間に得体の知れない未確認生物が現れて「パパ!」と満面の笑顔で叫びつつ抱き着いてきたくらいの衝撃に少々思考能力をヤラれながらも、ドレイクがなんとかかんとか搾り出す。

「ですから、離れ。空いてますよね?」

「あすこが埋まる可能性が思い浮かばねぇよ」

 ほぼ脊髄反射で一気に言い返す、ドレイク。しかしながら思考は未だ最初の一言周辺で右往左往しており、そのなんでもない台詞をどう解釈していいのか迷っている。

 意味もなく手にしたカップを上下させる…それを見てハルヴァイトは、こんなに面白い反応をしてくれるならミナミも同席させればよかったと本気で思った…ドレイクから手元のカップに視線を落とし、ソーサーを握る白手袋を伝ってリインの顔を見つめた悪魔が、無言で首を傾げる。

 ドレイクが妙な恐慌状態に陥っているのは、まぁよしとしよう。しかし、リインがいつもより血色のいい頬を心なしふるふると震わせている意味が、ハルヴァイトには判らなかった。

 判り易く言うならば、表層に現れようとしている何かを、必死に堪えているような。

 数秒ハルヴァイトに見つめられて、不覚にも感涙しそうだったリインははっと意識を身体に引き戻した。この、先代から引き続き当代ミラキ卿に仕えて来た執事頭にとって、理由はどうあれ、ハルヴァイト…リインにとっては、いわば第二の主人か…が自発的に屋敷に「戻る」という千載一遇のこの機会(チャンス)を、逃す訳には行かない。

「旦那様」

「あ?」

 素早く、しかし丁寧にハルヴァイトの前にティーカップを置いたリインは、立ち位置変わらず踵を軸にしてドレイクに身体だけを向け、ぴしりと背筋を伸ばしたまま頭を下げた。

「ハルヴァイト様のお申し付け通り、早速離れのお手入れをさせて頂いて構いませんでしょうか」

 離れの手入れ、と言われて、一瞬惚けた表情をリインに見せたドレイクが、不意に肩の力を抜いてどさりと背凭れに身体を預ける。という事は、やはりハルヴァイトの言う離れはあの「離れ」で、唐突に告げられた言葉は裏表なし、額面通り受け取って良いのか。

「……ああ、いい、好きにやれ。それで、よ、ハル…」

 そこまで言ったもののどう続けていいのか判らず、ドレイクは結局奇妙な、嬉しいような困ったような表情で口を閉ざし、あくまでも涼しい顔を崩さないハルヴァイトをじっと見た。

 ハルヴァイト・ガリューがミラキ家の者であると判明してからこちら、ドレイクやリイン、アリス、果ては陛下までもが、幾度となく彼にミラキの屋敷に移り住めばいいと言って来た。しかしその度ハルヴァイトは、自分がミラキ邸に引っ越す理由がないと取り合いもしなかったのだ。

 それが。

「―――もしかしてよ、ミナミ、そんなに…悪ぃのか?」

 ハルヴァイトがこのタイミングでミラキ邸に引っ越して来るというなら、どう考えてもあの恋人の不調が原因なのだろう。

「あまりいい状況とは言えませんが、引越しのタネを明かせば、考え方のベクトルを変えた当然の結果というところです」

 また微妙に訳の判らない事を言い出したハルヴァイトを横目に、ドレイクとリインが顔を見合わせる。

「考え方のベクトル?」

 背凭れに預けていた身を起こして乗り出してきたドレイクをちらりと見てから、ハルヴァイトは偉そうに腕を組んだ。

「ミナミの不調を改善する事を重点に行動を制限していたものを、単に、復職するためにどうすればいいかという考え方に転化しただけです」

「…それと、おめぇらがここに越して来んのに、どういう関係があんだよ」

「生活環境とミナミの負担ですよ」

 どうして判らないのかという呆れを含んだハルヴァイトの声に、ドレイクは真白い眉を寄せて唸った。

 判りそうで判らないニュアンス。

「とにかく、明日は居住区の家の方でこちらに運び込む荷物の選別をするので、アスカの他に一人か二人回して貰えますか? 明後日はミナミの体調をみて登城し、そのままミラキ邸へ帰宅しますから、リインには準備をお願いしたいんですが」

 何をどう相談してそういう結果に行きついたのか、ハルヴァイトに説明する気はないらしい。

「かしこまりました、ハルヴァイト様」

 ソファから離れたドアの傍に佇むリインにハルヴァイトが顔を向けて申し訳程度に微笑むと、執事頭は神妙な面持ちで会釈した。

「ああ、リイン。使用人たちにはミナミの「事情」を、もう一度よく言い聞かせておいてくださいね。屋敷の中で万一ミナミに何か都合の悪い事が起こったら、ドレイクが許すといってもわたしは許しませんよ」

 暗に、ただでは済まないぞという空気を発散するハルヴァイトの冷え切った笑顔に、ドレイクが苦笑を漏らす。

「うちの使用人たちも不幸っちゃぁ不幸だな」

 背凭れに肘を付いて頭を支えたドレイクの呟きに、リインも薄く笑いを零した。

「…あっちの家は、引き払うのか? ハル」

 無人になる居住区の家を住居管理局に返還する手筈を取らなければと思い当たったドレイクが、そこだけ硬い声で問い質す。いかに魔導師といえども、一度返納してしまった家屋を再取得するのは、閉鎖空間であればこそ、意外に難しい。

「いえ、それは考えてません。ミナミにしてもわたしにしても、ずっとここに世話になるつもりはないので」

 だから、引越しは一時的措置だと言い足したハルヴァイトを凝視し、ドレイクが不思議そうな顔をする。

「別に、前から言ってるようによ、母屋の連中は無理にそっちに干渉する訳じゃねぇし、まぁ、今は状況が状況だからアスカに面倒見させるつもりじゃいるが、いらねぇってなりゃ呼び出さなきゃ行かせねぇんだ、ミナミもあの通り今じゃすっかり陛下重鎮だし、おめぇだって衛視だし、この機会に…」

 貴族の仲間入りをしろとまでは言わない。しかし、上級居住区に住む権利はあるのだから、と続けかけたドレイクを、ハルヴァイトはきっぱりと撥ね付けた。

「ミナミが、いつか必ず戻りたいというので」

 当然、今回の引越しについてハルヴァイトとミナミはちゃんと話し合った。確かに、ほとんどそれはハルヴァイトの思惑通り進み、ミナミに拒否する権利も意味もなかったから、特別こじれる事もなくあっさりと決まったようなものなのだが、最後に一つ、居住区の家をどうするかという段階でだけ、青年はそれを譲らなかったのだ。

「帰りたい」のだとミナミは言った。

 すぐにでなくても。一年も、十年も、もっと長い時間かかっても。

 いつかミナミ・アイリーが衛視でなくなった時のために。

          

         

 傾き始めた太陽が淡い赤紫に空を染め上げる頃、ミナミは自分の中で様々なものに折り合いを付け、目下の問題と複雑に絡み合った「事件」解決のために必要な措置として、ミラキ邸別館への移住を承諾した。

 原因は、全て自分にある。

 だから、これ以上の我侭を言って職務を放棄し、いつか来るだろう好機(チャンス)をみすみす見逃すつもりはない。

 しかし。

 暫し無言で天蓋を見つめていたダークブルーが戸惑いにゆらりと揺れ、長い睫を伏せるようにして青年が俯く。

「…俺は、さ。一生「衛視」で居るつもり、…ねぇんだよ」

 唐突な台詞。

 薄いシャツに包まれた腕で自分の身体を抱き締めたミナミは、足元に視線を落としたまま消え入りそうに呟いた。

          

「俺は、ハルとした「最初の約束」をちゃんと守りてぇって、ずっと、そう思ってんだし」

             

           

 言ってから恥ずかしげにぷいとそっぽを向いた恋人の薔薇色に変わった頬を思い出し、ハルヴァイトは不覚にもにやけそうになった。

 そんな事を言われてしまっては、まさかあの自宅を住居管理局に引き渡すなどどうして出来ようか。もしも「居住者なしのため強制徴収します」と向こうから言って来ようものなら、管理局のデータを全部消されたくなかったら黙って帰れと蹴り返してやる。

 いや、マジで。

 薄気味悪く上機嫌になったハルヴァイトを恐々眺めてから、ドレイクはやれやれと肩を竦めた。

「ま、そいつぁいいだろ。職権乱用の大盤振る舞いで管理局は黙らせるとして、時々は居住区の方にアスカでもやって、いつでも帰れるように家の管理さしときゃいい」

 言いつつ目配せされて、リインが頷く。

「とにかく、ミナミのいいようにしてやれよ、ハル。なんだかんだでおめぇが起こした騒ぎの一番の被害者は、結局ミナミなんだしよ。こっちに来る来ねぇじゃなく、俺で出来る事がありゃなんでも言え。おめぇにゃ多少の愚痴はあっても、ミナミのお願いは断わる理由ねぇしな」

 どこかしら浮かれたドレイクの軽口に、ハルヴァイトがうんざりと肩を落とす。

「元よりない信用がますます失墜したような気がするんですけど」

「当然だ、ばかやろう。おめぇのおかげで俺たちがどんだけ苦労したか…」

「タマリが順当にあのディスクの存在に気付いて、ミナミが話すのを止めるような事態にならなければ、もっと早く解決してたはずなんですけどね」

「つうけどよ、おめぇ……。って! そういやぁこのやろう、てめー! 俺たちがグダグダ騒いでんの、どっかで見てやがったんだよな!」

 と、ハルヴァイトの漏らした一言を耳にしたドレイクが、センターテーブルに両手を突いて身を乗り出す。

「見ていたのではなく、データを取得しただけです。しかもそれがいつ起こった事象、過去の記録だったのか予測される未来だったのかも、実際は判らないですし」

 事も無げに言われて、ドレイクは唖然とした。

「ミナミが言ってましたよね? 臨界には時間という概念はありませんから、現実面での事象は記録された状態ではただの「出来事」でしかなく、現実面からの接触があって始めて「現在」か「過去」かに振り分けられるんです。ですから、臨界面からそれを閲覧している状態で判るのは、そこにわたしが存在しているかいないかくらいのものです」

 そこに、時間はない。

 存在していない。

「…臨界には、多分ですが、探せば、「わたしが現実面に戻れなかった未来」という予測データもあったはずですよ」

 過去も、現在も、未来も。

 いっしょくたに渦巻く、文字列の世界には。

 今更ながらドレイクは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。そう。もしなんらかの原因でミナミがハルヴァイトを「忘れて」いたら、ハルヴァイトは未来永劫あの世界から戻れなかったかもしれないのだ。

「…グロスタン・メドホラをこの世に呼び戻すってのは、おめぇがそこまでしなくちゃならねぇ「理由」だったのか、ハル」

 落とし込んだ、緊張に強張る声で訊ねられ、ハルヴァイトは薄暗く笑った。

「当然」

 邪魔だったから。

 ミナミのためには、あれがどうしても邪魔だから。

 一瞬、嫌な静寂が室内に降りた。

「ああ、ところでドレイク」

 相変わらず周囲の空気を全く読んでいないハルヴァイトが、落ち込んだ室内などどこ吹く風でさらりと言う。それに、なんだよ、とやや喧嘩腰で答えたドレイクに、不肖の弟はいたく機嫌のいい笑みを見せた。

「早速、一つお願いしたい事があるんですが」

「あ? ああ、引越し絡みか? それならリインに言っとけよ」

 何か必要なものでもあるのだろうかと気分を変えたドレイクが、テーブルに置いていた手を引っ込めてソファの背凭れに身体を預ける。

「引越しの話じゃありませんよ。これは、ミナミとわたしからの、極めて個人的なお願いなんですが」

 ハルヴァイトは持て余し気味の長い脚を組み換え、それから、いかにも胡散臭くにこりと微笑んだ。

「セイルくん…リリス・ヘイワード主演の新作ムービーのために、屋敷、貸して貰えません?」

「………はぁ?」

 全然、全く、これっぽっちも予想していなかったというか予想出来る訳もないお願いに、ドレイクは、目を瞠って素っ頓狂な声を上げた。

  

   
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